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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2017年8月10日木曜日

畏れることを実感する、「大魔神怒る」を観ました。

BSプレミアムで放映された「大魔神怒る」を観ました。大魔神は、ゴジラやガメラと同じ50年前に作られた特撮怪異映画のひとつですが、描かれた恐怖は別格でした。

古来から日本人は、人智の及ばないもの、超自然的なものに畏れを抱き、神として祀り崇めてきました。そうすることで、それは守護神となり、災いは封ぜられ、安寧が守られると信じてきました。そして信仰に篤い人々は、罰当たりな行為を諫めて、慎ましく生きていました。そういうむかしむかしのお話です。

八雲の国という内海を抱く豊かな国がありました。主家の千草家は武勇に優れ、領民は安寧に暮らしていました。また、信仰心の篤い八雲の国の人々は、内海の中程にある神ノ島に鎮座する武人像を守護神として崇めていました。
しかし、八雲の国の外では、暴虐の限りを尽くして勢力を拡大した御子柴弾正率いる侍まがいの盗賊団が、八雲の国を虎視眈眈と狙っていました。そして、その機会が訪れました。
八雲の国では、年に一度、守護神を鎮める祭事が執り行われます。その祭事には近隣の国々からも大勢人々が集まり、供え物を持ち寄ります。そして持ち寄られた供え物は、城の蔵に納められます。弾正は、供え物の米俵に手下を忍ばせ、まんまと城内に侵入し、深夜、侵入した手下の手引きで武装した弾正の一軍が城内になだれ込み、一気に千草家を滅ぼします。しかし、家来の機転で一命を取り留めた家長の十郎時貞は、神ノ島に辿り着き、そこで分家の姫小百合にかくまわれます。
八雲の国の領民の反乱を恐れる弾正は、時貞を捕らえて殺すこと、また領民の心の支えである武人像を破壊することを、手下に命じます。そして神ノ島になだれ込み、武人像を火薬で木っ端微塵にしたうえ、時貞や小百合ら千草家の生き残りを捕らえます。

弾正は、領民への見せしめにと、その面前に時貞を引き出して、磔に処すことにしました。さらには小百合を引き出して、時貞に小百合の凄惨な最後を見せつけるために、火あぶりに処すことにしました。そして小百合を一段高い処刑台の十字架に縛り付け火を付けます。
煙が立ちこめ火が迫る中で、小百合は、領民と貞時の加護を守護神に一心に願い、その身を捧げる誓いと清い涙を流します。その涙の一滴が地に落ちた時、天はにわかに掻き曇り、嵐となります。その雨風が小百合を焼き殺そうとする火を消します。そしてなんと、海の中から、破壊された筈の武人像が姿を現します。
武人像が両手の拳を突き合わせ顔の上に持ちあげると、その穏やかな表情は一変し、仁王の形相に変わります。武人像は荒ぶる神、大魔神に変化し、そして内海を二つに割って道を作り、地響きを立てながら向かってきます。そして磔にされた小百合を解き放った後、抵抗する弾正の手下を一人残らず無慈悲に殺し、一人で内海に逃げ出した弾正の小舟に火を放ち、弾正を火あぶりで殺します。

解放された時貞、小百合ら千草家の生き残りと領民達は、大魔神に手を合わせます。嵐は止んで穏やかな天候が戻ります。大魔神は両腕で顔をかざすと、その顔は穏やかな武人像のものとなりました。そして見る見る間に、霧となって消えました。
八雲の国の災いは守護神によって取り除かれ、八雲の国の人々は再び安寧を取り戻すことができました。
おしまいおしまい

という物語です。
とにかく残酷です。
欲深い人間の残酷さと醜さが描かれ、そして
その欲深く罰当たりな人間が荒ぶる神によって無慈悲に残酷に殺される様が描かれます。大魔神の物語は、本当に怖い怖いむかしばなしでした。
そしてあらためて、畏れるという存在こそが、我々人間の驕り高ぶりを抑制し、慎ましく生きるという本来の姿に立ち返らせてくれるのではないか、ということを思いました。

2017年8月6日日曜日

72年目の夏

先日、姫路球場で高校野球観戦をした後、手柄山中央公園を歩きました。長い階段があって、その階段を登り切ると、目の前に太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔がありました。
訪れたのは何十年ぶりでしょうか。慰霊塔の意味すら覚えていませんでした。慰霊塔に近づくと、その下に幾つもの印の付いた日本地図があって、
太平洋戦全国戦災都市空爆死歿者の霊、此のところに眠る
と刻まれていました。
両翼に連なる石柱を見渡すと、一つひとつの石柱の、目線の位置に何かが刻まれています。
右端に近づくと
全国戦災都市
罹災都市数 1都、99市、12町
死歿者数 509,800名
罹災人口 9,551,100名
と刻まれています。
そして、その左隣の石柱には函館市の死歿者数、罹災人口、被爆年月日が刻まれていました。その左隣の石柱には室蘭市の記録が刻まれていました。
その石柱に刻まれた記録を一つひとつ見て回りました。一番最後の石柱は鹿児島市の記録が刻まれていました。
伊勢崎市の記録に、被爆年月日 昭和20年8月15日以降2回とありました。
玉音放送のあった日以降も空襲が続いていたことを初めて知りました。

首都東京は、昭和17年4月18日以降112回とありました。そして
死歿者数 94,225
罹災人口 3,099,477
とありました。
被爆回数が10回を超える都市は他に11もありました。

そして思わず足が止まったのが広島です。
被爆年月日 1945年8月6日以降1回
死歿者数 260,000名
罹災人口 420,000名
72年前の初期の原子爆弾一発が、途方もない数の人の命を奪った記録です。
表現しようもないショックを覚えました。

そして長崎
被爆年月日 昭和20年8月9日以降5回
死歿者数 74,604名
罹災人口 120,820名
原爆投下以降も空爆が続いていた事を初めて知りました。
やるせない思いになりました。

戦後72年が経過した慰霊塔の意味とは何か?に思いを巡らしました。
私は戦後生まれで、戦災に見舞われた記憶はありません。でも母から空襲の話を聞いたことがあります。昭和20年になって姫路も空襲を受けました。母は当時20歳、仕事に向かう最中に敵戦闘機の機銃掃射にあったそうです。敵戦闘機はパイロットの顔が見えるほどに近く低く飛んでいたそうです。この様に、母と同じ非戦闘員が、日本中で無差別に攻撃を受けました。そして、大量に殺されました。
戦争が始まると、戦地だけではなく、戦況によっては非戦闘員の町さえ無差別攻撃を受け、町は戦火に焼かれ、住民が殺されます。慰霊塔には、記録だけでなく、殺された人々、残された人々の、念というか記憶が留まっているのだと思います。
慰霊塔は、戦没者、被爆罹災者から今を生きる私たちへの、再びこの様な惨劇を引き起こしてはならないという、メッセージなのだと思います。