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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2017年8月6日日曜日

72年目の夏

先日、姫路球場で高校野球観戦をした後、手柄山中央公園を歩きました。長い階段があって、その階段を登り切ると、目の前に太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔がありました。
訪れたのは何十年ぶりでしょうか。慰霊塔の意味すら覚えていませんでした。慰霊塔に近づくと、その下に幾つもの印の付いた日本地図があって、
太平洋戦全国戦災都市空爆死歿者の霊、此のところに眠る
と刻まれていました。
両翼に連なる石柱を見渡すと、一つひとつの石柱の、目線の位置に何かが刻まれています。
右端に近づくと
全国戦災都市
罹災都市数 1都、99市、12町
死歿者数 509,800名
罹災人口 9,551,100名
と刻まれています。
そして、その左隣の石柱には函館市の死歿者数、罹災人口、被爆年月日が刻まれていました。その左隣の石柱には室蘭市の記録が刻まれていました。
その石柱に刻まれた記録を一つひとつ見て回りました。一番最後の石柱は鹿児島市の記録が刻まれていました。
伊勢崎市の記録に、被爆年月日 昭和20年8月15日以降2回とありました。
玉音放送のあった日以降も空襲が続いていたことを初めて知りました。

首都東京は、昭和17年4月18日以降112回とありました。そして
死歿者数 94,225
罹災人口 3,099,477
とありました。
被爆回数が10回を超える都市は他に11もありました。

そして思わず足が止まったのが広島です。
被爆年月日 1945年8月6日以降1回
死歿者数 260,000名
罹災人口 420,000名
72年前の初期の原子爆弾一発が、途方もない数の人の命を奪った記録です。
表現しようもないショックを覚えました。

そして長崎
被爆年月日 昭和20年8月9日以降5回
死歿者数 74,604名
罹災人口 120,820名
原爆投下以降も空爆が続いていた事を初めて知りました。
やるせない思いになりました。

戦後72年が経過した慰霊塔の意味とは何か?に思いを巡らしました。
私は戦後生まれで、戦災に見舞われた記憶はありません。でも母から空襲の話を聞いたことがあります。昭和20年になって姫路も空襲を受けました。母は当時20歳、仕事に向かう最中に敵戦闘機の機銃掃射にあったそうです。敵戦闘機はパイロットの顔が見えるほどに近く低く飛んでいたそうです。この様に、母と同じ非戦闘員が、日本中で無差別に攻撃を受けました。そして、大量に殺されました。
戦争が始まると、戦地だけではなく、戦況によっては非戦闘員の町さえ無差別攻撃を受け、町は戦火に焼かれ、住民が殺されます。慰霊塔には、記録だけでなく、殺された人々、残された人々の、念というか記憶が留まっているのだと思います。
慰霊塔は、戦没者、被爆罹災者から今を生きる私たちへの、再びこの様な惨劇を引き起こしてはならないという、メッセージなのだと思います。

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