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デモクラシー政治の腐敗が描かれた「スミス都へ行く」について書こうと思います。

「スミス都へ行く」 (原題:Mr.Smith Goes to washington 1939年アメリカ映画) この映画は、題名からは想像出来ないですが、「デモクラシー政治の腐敗を目の当たりにしたとき、私たちはどうすれば良いのか?」という現在の私たちも直面する不変的な問題への非常に...

2026年2月5日木曜日

民、信無くば立たず

論語に由来する言葉で、『国民(民衆)の信頼がなければ政治は成り立たない』という意味。

毎年のように行われるようになった衆議院選挙が、昨年の10月21日に女性として初の首相となったばかりの高市早苗衆議院議員の突然の解散権行使によって、今年もそうそうに行われることになりました。

しかし、解散を察知した政界では、選挙の直前に、野に下った公明党と立憲民主党の衆議院議員が、中道改革連合(略して中道)という政党を結党しましたね。

『中道』という言葉は、仏教由来の言葉です。仏教学者ひろさちやさんは、著書『大乗仏教の真実』で、『中道』とは何か? について次のように述べています。

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釈迦が言う『中道』は、宗教の修行法ではない。それは『人間らしい生き方』なのだ。人間が欲望に執着すれば、その欲望を充足させるために、あくせく、いらいら、がつがつと生きなければならない。仮にその欲望が悟りを開きたいといった宗教的な意味での欲望であっても、悟りを開くために、あくせく、いらいら、がつがつと修行せねばならない。それが苦行である。

しかし、欲望から解放されたとき、人間はゆったりと、のんびりと、おおらかに生きることができる。それが人間らしい生き方である。そして、人間らしく生きていれば、きっと覚りの境地に達することができるであろう。釈迦はそう考えたのであった。

また、「弾琴のたとえ」と呼ばれる、釈迦の言い伝えられる話があります。

出家して釈迦の弟子となったシュローナは、厳しい修行に打ち込んだが、いっこうに悟りが開けないがために、還俗を決意して釈迦に相談したときに、釈迦は「シュローナよ、そなたは家にあったとき、琴を弾いたであろう。琴の絃は緩いといい音は出ない。しかし、あまりにきつく締めすぎてもいい音は出ないばかりか、絃が切れてしまう。いま、そなたは、絃を締めすぎているのだよ。もっとゆったりと修行を続けなさい」と、『中道』を歩めと教えられたのである。

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ならば、政治における『中道(中道改革主義)』とは何か?

Google AIは、

「政治における『中道』とは、左右の極端なイデオロギー(極右・極左)に偏らず、バランスの取れた穏健で現実的な政策を追求する立場です。分断や対立を避け、生活者目線での合意形成と安定した政治運営を重視する『中道改革主義』とも呼ばれています。」

と回答しました。

では、政治における『右と左』とは何か?

再びGoogle AIに問うと、

「政治における『右(右派・保守)』と『左(左派・改革/リベラル)』は、1789年のフランス革命時の議会の座席配置(右側に国王派、左側に改革派)に由来する政治的立ち位置です。一般に右は『伝統・秩序・国家』を重視し、左は『改革・平等・個人の自由』を重視する傾向があります。」

と回答しました。

評論家の浅羽通明氏は、著書『右翼と左翼』で、

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「左」「左翼」は、人間は本来「自由」「平等」で「人権」があるという理性、知性で考えついた理念を、まだ知らない人にも広め(「啓蒙」)、世に実現しようと志します。これらの理念は、「国際的」で「普遍的」であって、その実現が人類の「進歩」であると考えられるからです。

ですから、現実に支配や抑圧、上下の身分、差別といった、「自由」と「平等」に反する制度があったら、それを批判し改革するのが「左、左翼」と自認する人の使命となります。

また、そうした改革、革命は、支配や抑圧、身分の上下、差別によって割を食っていた下層の人々の利益となる筈です。故に「下層階級」と結び付きます。以上の前提には、「政治や経済の仕組みは人間の手で作り替える事ができる」という考え方です。

対する「右」「右翼」は、「伝統」や「人間の感情、情緒」を重視します。「知性」や「理性」が賢しらにも生み出した「自由」「平等」「人権」では人は割り切れないと考えます。(「反合理主義」「反知性主義」「反啓蒙主義」)。

故に、たとえそれらに何ら合理性が認められないとしても、「長い間定着してきた世の仕組み(「秩序」)である以上は、多少の弊害があっても簡単に変えられないし、変えるべきではない」と結論します。

こうした「伝統」的な世の中の仕組みには、近代以前に起源を有した王制、天皇制、身分制などが含まれ、それらは大方、「階級的秩序」「絶対的権威」を含んでいます。

「右・右翼」と称する人は、それら威厳に満ちた歴史あるものを貴く思って憧れる「伝統的感情」を重んじ(「歴史主義」「ロマン主義」)、そんなものは人権無視で抑圧的で差別の温床だなどと賢しら(「知性的」「合理的」「啓蒙的」)に批判する左翼らが企てる「革命」「改革」から、それらを「保守」しようと志します。

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と述べています。


私は、「人権」「自由」「平等」が保証された社会でこそ、すべての社会構成員(貧富も身分も精神的・身体的ハンデも年齢も性別も国籍も肌の色も、全て関係無く)が、社会の発展や進歩のための学びや活動に参画でき、延いては、人類の「共生意識」が保たれ「平和」を維持し、それが持続的な「進歩」や「発展」を可能にするのだと思います。

そして、私は『「人権」「自由」「平等」が保証された社会』を保証する、それを守る者でありたいと思います。

それが、一市井の人間としての政治への関わり方の責任であり、それを行使する一手段が、政治を代議する人を選ぶ選挙に投票することだと思います。

右・左という概念は、上で見てきた通り、前時代の遺物です。極端な言い方をすれば、冷戦時の共産主義や民主主義の対立という概念も、近代史の遺物です。

現在の日本や世界で起きている政治の対立は、独裁制と民主制の対立です。

しかし、現代の民主制の大きな弱点は、構成員である国民が、政治に関わるための知識や度量や義務、責任、節度を全うする、延いては、そのために命を賭す覚悟や決意が、教育の中でも、社会の中でも、学ばないし求められていないことだと思います。

そして、選挙の度に、立候補者は耳障りのよい「生活者ファースト」「国民ファースト」「日本国民ファースト」と、さもわたしが為政者となった暁には、わたしたちの政党が政権を担った暁には、国民に奉仕するという空虚な公約ばかりを並べ立てます。結局は、古今東西の右も左も、支配者目線で語るばかりです。

民主制ならば、主権者である国民に、厳しい事実を問い掛け、共に立ち上がり、厳しい事実と向き合い、改善できるように共に行動しようと訴える立候補者はいないのか、と思います。

現在の「人権」「自由」「平等」は、わたしたちの国日本でも、理念であり、理想であり、それを隅々にまで行き渡らせるための途上でしかありません。油断をすると、直ぐに後退するのが世の常です。そして現在の日本も後退期にあります。

耳障りのいい空虚な言葉を囁く者には惑わされず、厳しくも「人権」「自由」「平等」を進め隅々まで行き渡らせるために、共に活動することを訴える者に、私は信を預けたいと思います。