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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2024年1月9日火曜日

黒澤明監督作品「生きる」を観ました。

 初老の男の主人公が、深夜の雪降る公園のブランコにひとり乗って、「ゴンドラの唄」を形容しがたい声でくちずさむシーンが有名な、黒澤明監督(1952年公開)作品「生きる」を観ました。

どういうあらすじの映画かは、大体知っていたつもりでしたが、今回の鑑賞では気づきが沢山ありまして、今においてもそうですが、公開当時においても斬新で、辛辣な風刺が満載な物語でありました。兵庫県出身の名優志村喬さんをはじめ、名優達の滑稽極まりない人物造形にただただ感嘆しました。


冒頭から斬新です。何やら不鮮明な写真が写り、「これは主人公の胃のレントゲン写真である」が第一声です。主人公は、市役所に勤めて三十年無遅刻無欠勤だけがとりえの、市民課の課長にまで出世した、そろそろ定年が近づいて来た初老の男です。妻を早くに亡くし、子煩悩な男は幼かったひとり息子を大切に育て上げる事だけが生き甲斐で生きてきました。

男が働く市民課は、助役がいずれ選挙に出る時の市民にアピールするための成果物のひとつとして設置されたものでしたが、実情は単なる市民の相談苦情の窓口でしかなく、市民から相談苦情がきても一切動かず、それは○○の課ですからそちらへどうぞと、たらい回しにするだけの、ただただ忙しく振る舞うだけの何もしない課でした。男はその長でした。上司には逆らわず、ただ波風が起こらない様にする事だけに気を配る、生きているのか死んでいるのか判別の付かないミイラの様な風体の男でした。


その男が、最近、胃の辺りの調子が悪く病院でレントゲン検査を受けました。検査の結果を待つ間の待合室で、隣り合わせた男から、胃がんの男の話を聞きました。その男は医者から「ただの胃潰瘍だから、お腹に優しいものを食べて、養生に努めて下さい」と言われたが、それは医者の方便で、もう長くはないと云う事で、血便が出たり、食べたものを吐いたり、等々、等々、そうなったらもう寿命は長くないと聞かされます。隣りの男が言った症状は皆、男の症状に該当するものでした。そして医者からは例の方便を聞かされました。

男は絶望します。男は絶望した胸の内を最愛の息子に吐き出して、息子に頼ろう、すがろうとしますが、結婚して同居している息子の帰りを待っていると、男に気づかない息子夫婦は、男の退職金や男の貯金をあてにして、いずれ一軒家を建てて家を出る算段の話をします。男はさらに絶望して、だまって家を出ます。


男は貯金から5万という大金を引き出して、それで散財した末に死んでやろうと思いますが、そもそも、そんな大胆な事ができる筈もなく、場末の居酒屋でくすぶっていました。そこにひとりの粋な黒ずくめの男が現れます。黒ずくめの男は、男の夢を叶える為に、男を享楽の世界に導きます。ギャンブルに酒に女、昭和27年頃に、あんなにも欲望があけすけな熱気に包まれた世界が日本にあったことに私は驚きましたが、男も驚きながらも、欲望の渦に巻き込まれて沈んでいく事が、絶望を忘れる唯一の事の様に思えていました。しかし、朝になれば享楽の世界は眠り、男は孤独に苛まれることになります。


そんな時、市民課の紅一点の若い女性職員に街角で出会いました。若い女性は、市役所の仕事があまりにも生き甲斐や遣り甲斐がなさすぎて退職する事にしたと話します。男は若い女性職員への送別のつもりで食事に誘います。しかし男は若い女性といる事が、まるで瑞々しい生気に触れている様な気持ちになって、若い女性から離れられなくなりました。

この若い女性を食事に誘い、映画に誘い、遊園地に誘い、お酒に誘い、いつまでも一緒に過ごそうとしました。しかし若い女性は嫌がり、遂に男の誘いを断ります。男は若い女性があらたに勤め始めたおもちゃ工房まで押しかけます。若い女性は最後にもう一度だけ会う事に同意をします。そこは晴れ晴れとしたレストランでした。男は自分の苦しみを、胃がんに冒され、もう寿命がいくばくも無い事、最愛の息子や嫁には疎まれ病気の辛ささえ打ち明けられないでいる事等々を吐露します。深刻な話を聞かされた女性でしたが、自分が作ったぬいぐるみを男に見せて、なにげに男に、何かを作ってみたらと話します。男の目が開きます。男は何も出来ない、何もしてはいけない、言われた事だけすればいい、ただそれだけで長らく生きていました。でもそれは死んでいたことと同じであったと気付いたのです。まだ、いまなら、何かできる、役所にいけば、きっとある、そう確信して、二週間ぶりに役所に出勤しました。


溜まりに溜まった陳情の紙の山から、『新設された道路の下の暗渠から水が溢れて空き地が水浸しになり、蚊などの害虫が湧いて、周りの住民が困っている。いっその事、公園に改修して下さい』という陳情を選び出し、寿命が尽きるまでに必ず公園を作ると決心し、権限が縦割りになって、動かない事、何もしない事が、最善の仕事と思っている役所の人々に、一切引き下がる事無く、働きかけ続けて、そして役所の天皇とも評される助役をも動かして、遂に寿命が尽きぬ間に公園を完成へと導きます。


男は、公園の完成とともに息を引き取りました。寒く雪が降る夜に、あの公園のブランコの辺りで見つかりました。凍死として片付けられました。男の葬式には、助役をはじめ各課の長、そして市民課の職員の面々が集まり、男の長男夫婦から振る舞われた酒肴をあてにして談笑しています。あの公園の開園の日、市民の前で市会議員や助役は、自分の功績として話をしていました。しかし市民たちは、誰が自分たちの陳情を聞き入れて、働き動き、あの公園をこんなにも早く作ってくれたかを知っていました。そして、その事実を知った新聞記者が、市会議員や助役の不正を追求し始めました。

男の遺影の前で、助役がいるときは、皆々、公園ができたのは助役のお陰と褒めそやし、死んだ男を、まるで公園建設が男の手柄にならなかった事を恨んで死んで抗議した不忠義者となじりました。しかし、助役と各課の長が帰った後、残った市民課の面々は、なぜ我々と変わらなかった男が、急に変わったのか。あんなにも公園建設に執着したのか、その何故について語り出します。そして、もしかしたら男は自分が胃がんであった事を知っていたのではないか、という気付きに至ります。そして、我々も役所に入った頃は大志を持っていた。しかし、いつの間にか、役所のシステムに飼い慣らされて、こういう振る舞いしか出来なくなった。でも、我々だって男の様になれる、明日からなろうとのたまいます。

そこに男を見つけた巡査が、線香をあげに訪ねてきました。巡査は話します。男は、まるで酔っ払いのように見えた。楽しそうに歌を歌っていました。だから声を掛けなかったと話しました。次に見た時には男は死んでいました。巡査は、男のなんとも形容しがたい声が忘れられないと話します。死の間際、男は楽しんでいた、喜んでいた・・・、その事に一同は言葉を失います。


翌日、市民課はひとりひとり序列が繰り上がり、次長であった男が課長席に座っています。そこに市民が陳情に訪れました。対面した男は、市民に「それは○○の課」と、これまで通りたらい回しを決め込みます。末席にいた男は立ち上がり課長を見ます。課長は立ち上がった男に座れと目配せします。立ち上がった男は、唇に苦い笑みを浮かべて書類が山となった机に身を沈めます。


終わり


ゲーテの『ファウスト』を彷彿する物語でありました。主人公の初老の男がファウストです。そして場末の居酒屋で男とあった黒ずくめの男が悪魔メフィストでしょうか。

ファウストの魂を賭けて神様に勝負を挑み、ファウストを誘惑し続け、遂にファウストを堕落させた悪魔メフィストでしたが、ファウストを愛するものの祈りによって、ファウストの魂は地獄行きを免れて天上へと昇っていきました。

この男はどうでしょうか。男は生きている実感を得る為に、生きた証を得る為に、公園を作りました。それは利他ではなく、利己を充たす為ででした。そして男は歓喜しながら死にました。男の魂は、天国に昇ったのでしょうか。それとも地獄に落ちたのでしょうか。

まるで藪の中の様な難問が残りました。やはり『生きる』は名作中の名作でした。


雨と太陽

 とても心に沁みるドラマが始まりましたね。

心に重いトラウマを抱えて生きてきた雨と、色覚異常から亡き母から託された夢を諦めていた太陽が、出会い、太陽は恋する雨を励まし続けることで夢に向き合い歩み出す決意をし、そして雨も励まされることで秘めていた夢を叶える為に歩み出す・・・。


希望が見えず、憂さ晴らしの中傷や暴力が蔓延るようになった現代社会は、弱い立場の人、抵抗しない人が真っ先に傷つけられて、自己否定に追い込まれ、最悪の場合は自殺に追い込まれてしまいます。しかし、そんなことは絶対無い。必要でない人なんてひとりもいない。

あなたは私にとって、僕にとって掛け替えのない人だ、必要な人だ、みんなにとって必要なんだ。と太陽は雨に思いを伝えます。

負けるな。私がいつも側にいるから、側で支えるから。と雨の祖母は雨に思いを伝えます。


殺伐とした現代社会に、荒涼とした世界に、本当に必要なものは、太陽の温もりと雨の潤いなのだと思い出させてくれました。そして私たちは、温もりと潤いを信じ、生きなければならないのだと思い出させてくれました。


昭和35年生まれの私の頬に熱い涙をこぼれさせたこのドラマは、死神が登場したりして、どう展開していくのか全く先が読めないですが、最初の感動が最後まで続いてくれる事、期待して止みません。


追伸、永野芽郁さんと山田裕貴さんの触れると壊れてしまいそうな切ない演技に心が動かされました。この先も楽しみにしています。

2024年1月8日月曜日

摩訶般若波羅蜜多心経

昨年秋から、写経を始めました。

私の家は曹洞宗なので、曹洞宗の日用経典「摩訶般若波羅蜜多心経」を手本にしました。「観自在菩薩」から始まり「般若心経」で終わる266文字を、毎日朝の内に30分ほどかけて原稿用紙に写経します。写経が終わると、書いた文字を眼で読みながら諷誦します。続いて経典の本尊回向文、四弘誓願文と続き、修証義の第一章総序を諷誦して終わります。

筆記用具は、4Bの鉛筆から初めて、現在は6Bの鉛筆と、fonteのガラスペンを使っています。30歳中頃からほぼキーボードで文書作成してきたので、鉛筆で長文を書く事にはまったく馴れていませんでしたが、書き続けているとペン先が紙に線を引く音がとても心地よく、その音が無心に誘ってくれるような心持ちにさせてくれます。

ただ、やはり集中力には限界があって、毎回、折り返しの辺りから、書き損じや抜け落ちします。それでもそこから書き直して一応最後まで書き切ります。

でも一月五日の夜に写経した時、19行、1行14文字きっちりで写経できました。気持ちが入ったのかなと思います。


般若心経について、仏教学者の紀野一義は、次の様な逸話を書き記されていました。

私たちが今となえている般若心経を、インドの原文から中国語に翻訳したのは唐の玄奘三蔵である。この人は『西遊記』の三蔵法師のモデルである。

玄奘は唐の貞観三年(629年)にインドに赴き、貞観十九年(645年)に長安に帰ってきた。玄奘は唐に帰ってから、持ち帰った経典の翻訳に従事し、七十四部千三百三十八巻を訳出したのであった。

中略

敦煌出土本の中に、『唐梵飜対字音般若波羅蜜多心経』があった。

この本の序文に次の様な話がのっている。玄奘が益州の空恵寺にいた時、インドから来た僧が病気で苦しんでいたのを見てこれを看病した。このインド僧は玄奘が沙漠を越えてインドに仏教の経典を取りに行く志を抱いていることを知ると、玄奘に般若心経という短いお経を教えてくれ、これを誦えてゆけば、災厄にもあわず、病気にもかからないと言ったという。

もちろん玄奘は、このお経を誦えながらシルクロードを越えて行ったに違いない。

のちに玄奘が中インドのナーランダー寺に行ったら、なんと、かの病僧がそこにいるではないか。驚く玄奘にその僧は、私は観世音菩薩である、と告げて姿を消したという。


この逸話から、私は般若心経は、死者への弔いや供養のものではなく、私たち生きとし生けるものを鼓舞する経文などだと理解をしました。

でも最近は、生死に境などはなく、死者に対しても西方十万億土に思いを馳せて精進を重ねることを鼓舞するものなのだと思うようになりました。

私自身、仏教徒なのかキリスト教徒なのか、もしくは仏教徒でもないのかキリスト教徒でもないのか、判然としませんが、それでも般若心経を写経したり諷誦する時、心が平安になるように思います。そして修証義は、まことに人生の指針の経文であると思っています。

2024年1月7日日曜日

みのる君に電話しました。

今日(6日)、旧鶴来町、現在の白山市に住む大学時代の親友みのる君に電話しました。

昨年の能登半島を震源とする震度6強の地震の時に、何十年ぶりかで電話し、元気な声を聞きました。その時はみのる君の住む町はほどんど被害がなかったということで安堵しましたが、今回は震度7で、震源地である能登半島の揺れは2011年3月11日に宮城県沖を震源とする震度7の地震の揺れと変わらないほどのとてつもない揺れであったという事で、また日を追うごとに被害の甚大さが明らかになり、金沢市内でも被害が出ているというニュースもあり、すぐには電話できずにいました。

地震は今日現在も止む事なく発生している状況ですが、声を聞こうと決めて電話しました。電話の向こうからの第一声は「おめでとう~」でした。その声で、安堵しました。こちらの電話した思いを察したみのる君の「おめでとう~」でした。

実際、白山市も震度5で大変揺れたと思います。それでも家族にも家にも被害は無かったようで安堵しました。金沢市内に娘が住んでいるけれど被害はなかった様でした。

でも、みのる君の会社に勤める珠洲市出身の若い女性社員の事をとても気に掛けていました。週明けに顔を合わすけど、どう声かけしようか思案していると話していました。

また鶴来町の初詣で賑わう神社に大岩が落ちてきて、人の出入りのある場所の手前で止まったという話を聞きました。

そして鶴来町の更に南奥、岐阜県との境近くにある手取りダムからパイプラインで能登島まで水を運んでいるが、そのパイプラインのどこかが破壊されたため、水がまったく能登半島に供給できていないと聞きました。このパイプラインは、私が卒業した後に開通したものであると話してくれました。それまでは能登半島の人々は水も自給自足であった様です。

また人的被害についても、私は正月の帰省が災いして若い人の犠牲者が出てしまったのかと話したところ、みのる君は、帰省で若い人が震災の地にいたから、SOSが発信されている。もし帰省の時節ではなかったら、能登は高齢者の一人世帯が多い為に、被害の様子もSOSも何も発信されぬままになって、今以上に非常に深刻な状況になっていただろう、と話していました。そとから知る事、そとに発信されている事だけでなく、内で見ている人の、内から発信している人の情報に、もっと私たちはフォーカスしなければならないと思いました。


その後は、しばらく学生時代の貧乏生活の話に花が咲きました。みのる君は、二人でよく利用した飲食店の名を覚えていて、先日も一軒の店にいった話をしてくれました。昔は、学生は貧乏だからと大盛りを運んでくれていました。貧乏でいつもお金にピーピーしていましたが、アルバイトで得た金で、けっこうしっかり飲み食いはしていました。でも、本当、大盛りは助かりました。いつも腹ぺこでしたから。