昨年秋から、写経を始めました。
私の家は曹洞宗なので、曹洞宗の日用経典「摩訶般若波羅蜜多心経」を手本にしました。「観自在菩薩」から始まり「般若心経」で終わる266文字を、毎日朝の内に30分ほどかけて原稿用紙に写経します。写経が終わると、書いた文字を眼で読みながら諷誦します。続いて経典の本尊回向文、四弘誓願文と続き、修証義の第一章総序を諷誦して終わります。
筆記用具は、4Bの鉛筆から初めて、現在は6Bの鉛筆と、fonteのガラスペンを使っています。30歳中頃からほぼキーボードで文書作成してきたので、鉛筆で長文を書く事にはまったく馴れていませんでしたが、書き続けているとペン先が紙に線を引く音がとても心地よく、その音が無心に誘ってくれるような心持ちにさせてくれます。
ただ、やはり集中力には限界があって、毎回、折り返しの辺りから、書き損じや抜け落ちします。それでもそこから書き直して一応最後まで書き切ります。
でも一月五日の夜に写経した時、19行、1行14文字きっちりで写経できました。気持ちが入ったのかなと思います。
般若心経について、仏教学者の紀野一義は、次の様な逸話を書き記されていました。
私たちが今となえている般若心経を、インドの原文から中国語に翻訳したのは唐の玄奘三蔵である。この人は『西遊記』の三蔵法師のモデルである。
玄奘は唐の貞観三年(629年)にインドに赴き、貞観十九年(645年)に長安に帰ってきた。玄奘は唐に帰ってから、持ち帰った経典の翻訳に従事し、七十四部千三百三十八巻を訳出したのであった。
中略
敦煌出土本の中に、『唐梵飜対字音般若波羅蜜多心経』があった。
この本の序文に次の様な話がのっている。玄奘が益州の空恵寺にいた時、インドから来た僧が病気で苦しんでいたのを見てこれを看病した。このインド僧は玄奘が沙漠を越えてインドに仏教の経典を取りに行く志を抱いていることを知ると、玄奘に般若心経という短いお経を教えてくれ、これを誦えてゆけば、災厄にもあわず、病気にもかからないと言ったという。
もちろん玄奘は、このお経を誦えながらシルクロードを越えて行ったに違いない。
のちに玄奘が中インドのナーランダー寺に行ったら、なんと、かの病僧がそこにいるではないか。驚く玄奘にその僧は、私は観世音菩薩である、と告げて姿を消したという。
この逸話から、私は般若心経は、死者への弔いや供養のものではなく、私たち生きとし生けるものを鼓舞する経文などだと理解をしました。
でも最近は、生死に境などはなく、死者に対しても西方十万億土に思いを馳せて精進を重ねることを鼓舞するものなのだと思うようになりました。
私自身、仏教徒なのかキリスト教徒なのか、もしくは仏教徒でもないのかキリスト教徒でもないのか、判然としませんが、それでも般若心経を写経したり諷誦する時、心が平安になるように思います。そして修証義は、まことに人生の指針の経文であると思っています。
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