播磨の国ブログ検索

差別の天秤

「愛を読む人」という約10年前公開の映画の、他の方が書いた映画評を読みました。 そこには私が考え及ばなかった、ハンナが隠し通した秘密についての考察が書かれいました。ハンナは文盲でした。そして、その事実を生涯隠し通しました。それは何故かです。 映画か原作小説の序章で、ハンナの...

2011年4月16日土曜日

鹿島中女子バスケットボール部員のみんな、『高砂市・加古郡交流中学校バスケットボール大会』の優勝、おめでとう!

昨年秋、女子バスケットボール部が3月一杯で廃部という噂を耳にし、折角これまで頑張ってきたのに、3年になって試合ができない、中体連の最後の大舞台の試合に出られないなんてと、歯痒い思いをしました。バスケットボール部の部員達は、息子の同級生達です。

息子達が、野球部員が、当たり前のように最後の中体連の野球大会を目指しているのに、彼女らは・・・と思うと、辛くなりました。

それが、先生の計らいでしょう、また、一番は彼女達バスケットボール部員の頑張りです。
校長先生から携帯電話に送られてくるTeamKashima同報メールで、部活報告の時は必ずと言ってよいほど、バスケットボール部は素晴らしい成績でした。

4月になって、彼女達も3年、そしてバスケットボール部は存続し、こうして戦っています。しかし、この4月に入学した1年生への部活紹介・仮入部案内には、女子バスケットボール部(そして女子バレーボール部までもが・・・)は部員を取らず、中体連の大会が終わった時点で廃部となります。

彼女達一人ひとりに、高い目標、志、技術が備わっているのでしょう。そして同時に、チームの結束力が素晴らしいのだと思います。それが、毎度毎度の好成績に繋がっているのだと思います。

娘のさくらが、女子ソフトテニスボール部に在籍しているときは、当時の顧問であった北浜先生が、『保護者の皆さん、いつでも応援に、観に来てやって下さい』と仰って下さったので、一昨年は次男も1年坊主で、一応野球部員でしたが、応援団長という有様でしたので、娘さくらの試合をカメラを持って、よく応援に行きました。

今、女子バスケットボール部の部員達の保護者も彼女達の頑張りを、目に焼き付けようと応援に行かれている事と思います。

女子バスケットボール部も、野球部も、そしてサッカー部、テニス部、バレーボール部、柔道部、剣道部、陸上部のみんな、最後まで部活を思いっきりで楽しんで、一つでも多く勝利を手にして下さい。君たちの勲章として下さい。

みんな-!
応援してるぜェ!

2011年4月15日金曜日

ジュリエットの秘書となって、『クレアの手紙』に返事を書きましょう!

InternetExplorer9を起動してMicrosoftのポータルサイトmsnを開いていると、来月5月14日(土)に公開される映画『ジュリエットからの手紙 letters to Juliet』公開記念キャンペーンページに導かれました。

映画『ジュリエットからの手紙 letters to Juliet』の公式HP
http://www.juliet-movie.jp/

キャンペーン:あなたがジュリエットの秘書となって、『クレアの手紙』に返事を下さい。
http://www.juliet-movie.jp/italy-campaign/

この映画で、小さな町で、愛情溢れる行為が、連綿と続けられている事実を知りました。

不朽の名作「ロミオとジュリエット」の舞台となったイタリア、ヴェローナという小都市。この地には、物語のモデルとなったヒロイン、ジュリエットの生家があり、永遠の愛を貫いたジュリエット宛に、恋の悩みを綴った手紙が、今なお世界中から年間5000通も届くというのです。その“ジュリエット・レター”1通ずつに“ジュリエットの秘書”と呼ばれる女性たちがボランティアで、想いのこもった返事を返し、悩み解決の手助けをしているというのです。

この映画は、“ジュリエットの秘書”の一人が、50年前にクレアという女性が書いた手紙を見つけた事から始まる物語です。

映画のキャッチフレーズが、
『初恋の人を探す旅。真実から生まれた珠玉の感動作』、ヒューマントラストドラマ。
と書かれているので、きっと感動的な作品なのだと思います。

この映画のキャンペーンというのが、ヴェローナの“ジュリエットの秘書”となって、
50年前にクレアが書いたジュリエットへの手紙に返事を書いてください、という内容です。
ちょっと日常から離れて、恋の指南役になって、思い思いの返事を書いてみてはどうかなって、と思いました。賞品も一等がイタリア旅行、二等がフォトフレームと結構豪華な賞品です。

因みに、小都市ヴェローナと、『ロミオとジュリエット物語』を簡単に紹介しておきましょう。(Wikipediaフリー百科事典からの引用です)
◆ヴェローナ
ヴェローナは、人口27万人のイタリアの都市であり、ヴェネト州ヴェローナ県の県庁所在地である。 アディジェ川沿いにあり、ガルダ湖の約30km東に位置する。 ドイツのミュンヘンおよびイスラエルのベツレヘムと姉妹都市協定を結んでいる。
中世の町並みがよく残っている。街の中心部には古代ローマ時代の円形競技場(アレーナ・ディ・ヴェローナ)があり、街の象徴となっている。毎年夏には、アイーダなどの野外オペラが開催される。シェイクスピアの戯曲『ヴェローナの二紳士』『ロミオとジュリエット』の舞台としても知られる。2000年、ヴェローナ市街として、世界遺産(文化遺産)に登録された。

◆ロミオとジュリエット
『ロミオとジュリエット』(または『ロメオとジュリエット』、Romeo and Juliet )は、ギリシャ神話の『ピュラモスとティスベ』(『桑の木』)を元にしたイングランドの劇作家ウィリアム・シェイクスピアによる戯曲。初演年度については諸説あるが、概ね1595年前後と言われている。

舞台は14世紀のイタリアの都市ヴェローナ。そこではモンタギュー家とキャピュレット家が、血で血を洗う抗争を繰り返している。
モンタギュー家の一人息子ロミオは、ロザラインへの片思いに苦しんでいる。気晴らしにと、友人達とキャピュレット家のパーティに忍び込んだロミオは、キャピュレット家の一人娘ジュリエットに出会い、たちまち二人は恋におちる。二人は修道僧ロレンスの元で秘かに結婚。ロレンスは二人の結婚が両家の争いに終止符を打つきっかけになる事を期待する。
しかし、その直後、ロミオは友人と共に街頭での争いに巻き込まれ、親友・マキューシオを殺された仕返しにキャピュレット夫人の甥ティボルトを殺してしまう。ヴェローナの大公エスカラスは、ロミオを追放の罪に処する。一方、キャピュレットは悲しみにくれるジュリエットに大公の親戚のパリスと結婚する事を命じる。
ジュリエットに助けを求められたロレンスは、彼女をロミオに添わせるべく、仮死の毒を使った計略を立てる。しかし、この計画は追放されていたロミオにうまく伝わらなかった。そのため、ジュリエットが死んだと思ったロミオは彼女の墓で毒を飲んで死に、その直後に仮死状態から目覚めたジュリエットもロミオの短剣で後を追う。事の真相を知り悲嘆に暮れる両家は、ついに和解する。

次は、発見された50年前の『クレアの手紙』です。
-----
『クレアの手紙』

ヴェローナのジュリエット様

ジュリエット、私はロレンツォのところへは行かなかった。
彼と会う約束を破ってしまった。
私を信じきった彼の瞳を見て、一緒に駆け落ちしようと約束したの。
私の両親が反対していたから・・・。
でも、私は彼を置き去りにしてしまった・・・私たちの約束の木の下に。
彼は、私がどこにいるのかわからないまま待っていたはず。

今、私はヴェローナにいます。
でも、朝にはロンドンに帰らなければならない。
そして、とても不幸です。
お願い、ジュリエット。どうしたらいいのか教えて欲しい。
心が張り裂けそう。他に話せる人が誰もいないの。

愛をこめて クレア
-----

さて、キャンペーンの応募方法です。

◇応募内容
クレアの書いた恋の悩みへの返事を書いて下さい。
日本語の自作の作品に限ります。句読点を含めて800字以内。
字数制限を守って応募して下さい。

◇応募方法
①名前
②郵便番号
③住所
④年齢
⑤性別
⑥電話番号
⑦職業
⑧お返事(800字以内)

メールで、juliet@showgate.jp宛に送ります。

で、私もイタリアには憧れがあるので(ナポリで本場のピッツァやパスタを腹一杯食べたいし、イタリアの立ち飲み屋バールで、言葉はもちろん通じないけど、歌と食事とワインで思いっきりい盛り上がりたい!)、“ジュリエットの秘書”になりきって『クレアへの返事』を書き、投稿しました。

以下が、その全文です。

『クレアへの返事』

親愛なるクレアへ

貴女が短い夏を過ごされたヴェローナの町並みは、今も変わる事なく美しく、アディジェ川に沿う歩道では、今も恋人達の甘い語らいを聴く事が出来ます。

半世紀前、クレア、貴女もアディジェ川の辺で、ロレンツォと甘い語らいの時を持たれたのでしょうね。
貴女とロレンツォの大切な約束の木は、きっと今も、お二人が愛を育まれた時をしっかりと記憶している事と思います。

私は、常々感じている事ですが、人というのは何故か、時に後悔をする方を選択してしまう不思議な生きものですね。どうしようもない力がそうさせるのだろうと思います。

当時、貴女のロレンツォへの愛は本物であったと思います。
そしてロレンツォもです。
貴女が、ロレンツォとの約束を果たせずに、心が張り裂けるほど苦しまれた事は、半世紀も前の出来事であるのに、私は、貴女の手紙を読んで、とても辛い気持ちにさせられました。

クレア、貴女の愛が本物であったならば、きっとロレンツォは、深い悲しみの淵で、貴女の悲しみを、貴女の愛を感じたはずです。貴女が悲しい選択を行った事実を、ロレンツォはきっと受け止めて下さったのではと思います。

クレア、貴女にとって、今もロレンツォとの思い出が、艶やかさで心を潤すものであるならば、もし、そうであるなら、貴女にどうしても、もう一度、ヴェローナにお越し頂きたいと思います。
そして、ロレンツォとの思い出の地を廻り尋ねて頂きたいと思います。
そして最後に、約束の木を訪れて頂きたいと思います。
約束の木の下で、きっとロレンツォが、クレア、貴女を笑顔で待っている事でしょう。

いつまでもお幸せに・・・

愛を込めて、ジュリエット


日常と離れた事をやるのは、楽しいです。
皆さんも、遊びでチャレンジされては如何でしょうか・・・

2011年4月14日木曜日

『日本一短い手紙』コンクール、今年のテーマは『明日(あす)』

asahi.com(朝日新聞のHP)のRSS(ニュースやブログ等各種のWebサイトの更新情報配信サービス)の受信登録をしていて、常にメールのasahi.comRSSフォルダーに流れてくるニュース見出しの中に、
『日本一短い手紙、テーマは『明日』、震災一言欄も 2011年4月13日6時37分』という見出しが目に止まりました。
asahi.comの記事ページを開いて、内容を読みました。

以下、その内容をそのまま書き写します-----

19年目を迎える日本一短い手紙のコンクール「新一筆啓上賞」の今年のテーマが「明日(あす)」と決まった。福井県坂井市の丸岡町文化振興事業団が12日、発表した。

東日本大震災前、テーマは「先生」と内定していたが、震災を受け、見直した。「どんなに苦しくても、必ずやってくる明日が明るくなれば」との思いを込めた。

笑顔の太陽をデザインしたポスターには「忘れることのない気持(きもち)をこめて……」と添え、応募用紙にも「この度の大震災についてひとこと」の欄を設ける。

40字以内。締め切りは10月14日(当日消印有効)。応募用紙か便箋(びんせん)サイズの用紙で、〒910・0298 財団法人丸岡町文化振興事業団、新一筆啓上賞「明日」係まで。問い合わせは同事業団(0776・67・5100)へ。(荻原千明)

以上、引用-----

財団法人丸岡町文化振興事業団HP『新一筆啓上賞』HP

http://maruoka-fumi.jp/shinippitsu.html

は(本日4/14現在)、まだ前年度のままで更新されていませんが、この『新一筆啓上賞』がどの様な経緯で設立されたものかを知りました。

HPに、この賞についての説明書きがあります。
『この賞は、同町にゆかりのある徳川家康の忠臣 本多作左衛門重次が陣中から妻にあてて送った手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」にちなむものです。「お仙」とは、後の越前丸岡藩主 本多成重(幼名仙千代)のことで、日本で最も古い天守閣をもつ丸岡城に、この手紙文を刻んだ碑が立っています。あなたも、心のこもった日本一短い手紙文に挑戦してみませんか。』
本多作左衛門重次が妻にあてて送った手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」から、どこにいようと『忠義』を常に心に留めていた様子が伺えます。

携帯メールやTwitterを日常的に使う日本人には、40文字の手紙は、そう難しくはないでしょう。一言、誠実な気持ちを込めて綴った文章には、きっと夢や愛が宿ります。

学校からの応募も奨励してあり、請求すれば、学校専用の応募用紙を、必要枚数無料で届けて下さる様です。
鹿島中学校や、高砂市の全中学校、小学校、高校もこぞって応募しては如何でしょう。

君たちの『明日』を求める気持ちを訴えてはどうでしょうか。
また、この度の東日本大震災後の『被災地へのエール』を書く欄もあります。言葉を届けるという行為も、義援金や現地でボランティアすることと同様に、意義のある行為です。一つの言葉が、勇気や希望となり、被災された方の、沈んだ心に、再び生きる力を点火することが出来るかもしれません。

どうか、学校の先生、校長先生、生徒達に大切な経験をさせてあげて下さい。

私も、私からの『日本一短い手紙』を届けたい、応募したいと思っています。

みんなで、一緒に意義のある行動をやりましょう!

2011年4月13日水曜日

『雨ニモマケズ』朗読で、世界の主要宗教代表者が、日本のために祈りを捧げて下さいました。

朝日新聞 平成23年4月13日(水)朝刊『11面国際欄』紙面の中央に、『世界から被災地へ』という見出しの日本のための祈りの記事が掲載されていました。

以下引用-----

世界中の主要宗教の代表者が集まり、東日本大震災の被災者のために祈りを捧げる「日本のための祈り」が11日夜、米首都のワシントン大聖堂であった。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のほぼ全文などが読み上げられ、ワシントン近郊在住のソプラノ歌手・嶋田貴美子さんが「さくらさくら」を披露した。
(ワシントン=勝田敏彦)

以上引用-----

宮沢賢治は、岩手県、現花巻市の生まれで、1896年明治29年)6月15日に起こった『三陸地震津波』の二ヶ月後、1896年明治29年)8月27日に出生、家は厳格な浄土真宗の門徒でしたが、学生時に法華宗系在家仏教団体『国柱会』に入信。以後、病弱な我をかまわず、農業指導や私学の運営と、岩手を理想郷とする夢『イーハトープ』に全霊を傾けました。その仕事の間に、『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』等の多数の童話や詩集『春と修羅』を創作しました。
そして、1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去、享年37歳でした。
(以上、Wikipediaフリー百科事典から抜粋しました)

『雨ニモマケズ』は、宮沢賢治の死後、遺稿のメモの中から発見された詩です。
現在の中学生は、国語の授業で暗唱させられますね。
韻が踏まれた詩はリズムがよく読みやすく、詩も一つ一つの言葉が心に響きます。
読み終わると、心が洗われた心持ちになる詩です。

青空文庫から引用-----
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/card45630.html

「雨ニモマケズ」

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

以上、青空文庫からの引用-----

宮沢賢治が入信した法華宗系在家仏教団体『国柱会』の、『国柱』は、日蓮の三大請願(我、日本の柱とならん。我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならん。)の一つ「我、日本の柱とならん」から創設者である僧侶・田中智学によって命名された、との事ですが、まさに『我を捨て、周りのために働かん』という、聖人の如くの清廉な意志が詩の一つ一つの言葉から溢れています。

『国柱』という言葉は、キリスト者の私にとっては、ゴルゴダの丘で十字架の刑に処されたキリストを思い浮かべます。キリストは、人の罪の贖いを父である主に求め、その命で人の罪を贖い下さいました。そして、三日目に復活され、天に昇られ主の御座で私たち人を見守り下さっています。

1989年にソ連が崩壊し冷戦が終わった後も、1990年代のユーゴスラビア紛争、湾岸戦争と、人間は、互いの宗教を盾にし、槍にして争い続けてきました。
多くの未来学者は、ユーゴスラビア紛争の後、『次は、東アジアで暴発が起こる』と予言しました。それは、宗教ではなく、『最後の共産主義国の暴発』、朝鮮半島、そして日本までもが巻き込まれる有事の予言でした。
それが2001年9月11日の、アメリカ国内における同時多発テロで一変し、テロリストのいう人類が生んだ『光と影』の戦いに突入しました。この根底にあるのは、搾取し文明を謳歌する者への、奪われ常に命の危険にさらされる者の怒りです。貧富の格差、人権の軽視です。

3月11日、日本を襲った大地震、大災害は、神の雷でも罰でもなく、私たちが地球という巨大な生命体の表層に住を借りる、全くの小さき者である事を、思い起こさせられた出来事でした。

ただ、経済優先、生産性や効率化が優先され、人自身が軽視されてきた事も、強く思い起こさせられました。

大災害は、戦争同様の酷い状況を被災地に与えましたが、私たちは、恨む敵を作ったわけではなく、多くの支援者、友人を得ました。この関係は、この先、何年、何十年、何百年と繋がり続けなければいけない大切な絆、関係です。
もし、神に一つだけ感謝するならば、日本人は孤独ではなく、多くの世界の友人がいて、支援し、見守ってくれる、その事を知り得たことです。


大災害の地で、その昔、読まれた詩『雨ニモマケズ』、聖書にも匹敵するほどの人類愛に満ちた詩が、世界中の宗教指導者の祈りの中で読まれた事に、深い感銘を受けたと共に、
私たち自身も、『雨ニモマケズ』の、『そういう者に、私はなりたい』と強く思います。

2011年4月12日火曜日

福島原発事故が、ついに最悪の『国際評価尺度でのレベル7』に引き上げられました。

3月11日に起きた『東北地方太平洋沖地震、4/1地震に伴う原子力発電所事故災害を含めて「東日本大震災」と呼称することを閣議で決定』、また以降も治まることなく巨大地震(余震)が群発する中で起きた福島原子力発電所事故が、今日12日、原子力トラブルの国際評価尺度(INES レベル0~7)で、ついに1986年、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故と同等の、最悪『レベル7』に引き上げられました。

気象庁のホームページで、本震を除くM5.0以上の余震回数(ヒストグラム・回数積算図)(計測期間 2011/03/11 14:46 ~ 2011/04/12 08:00)を見ると

http://www.seisvol.kishou.go.jp/eq/2011_03_11_tohoku/aftershock/

3/11(金)14:46頃に三陸沖を震源とするマグネチュード9.0の巨大地震が発生した以降も、東日本で頻発した余震は3/23を境に、回数が減り、本格的な被災地調査・復興作業の着手、また原発事故の本格的な対応が始まりましたが、M6.0以上の余震は4月に入っても都度発生し、4/7(木)23:32(宮城県沖を震源とする、震源の深さ約40㎞、マグネチュード7.4)、そして4/11(月)17:16(福島県浜通を震源とする、震源の深さ約10㎞、マグネチュード7.1)にはM7.0以上の巨大地震が発生しました。

巨大地震発生の警戒レベルは一度、引き下げられましたが、地震においても最高レベルの警戒がまだまだ必要である事を思い起こさせられ、この様な、長期的な不安が続く中での被災者、また被災地調査・復興に携わる方の肉体的ばかりか、精神的疲労は如何ばかりか、どうすればよいのか、全くわからなくなります。

また、福島原子力発電所事故も、IAEAそしてアメリカの支援も受けて、最悪の事態(私には、どういった事態が最悪なのかわからなくなってしまいましたが・・・)を避ける作業を、現場で対応される方は命がけで行われているのに、それさえも拒む巨大余震は、もはや人知では太刀打ちできない事態まで来たのか、そう思い起こさせられた、今回の『レベル7』への引き上げです。
チェルノブイリ原発事故は、人為的ミスによる原発爆発という事故によって、周辺地域の甚大なる放射能汚染が問題視されました。当時は、気象の状況によりヨーロッパ中に放射能汚染が拡がるという流言が拡がりましたが、そこまでの放射の汚染はありませんでした。
しかし、福島原発事故は、稼働3基、休炉3基、すべてが被害の大小はあるものの、問題を抱えたままで、被災・事故発生から一ヶ月が経過しました。なんとか、炉心溶融がこれ以上進まないよう、冷却のための電力回復は実現しましたが、それ以上の処置が取れないまま、放射能レベルは上がり続け、汚染された水の排出問題、そして建物の破損問題も手が付けられず、これ以上、大規模余震が続くようであれば、作業者を全員避難させなければいけません。
昨日のニュースで、放射能事故対応ロボットの開発を進めているという記事を目にしましたが、・・・戦争や製造工場では、人が必要なくなるほどにロボット化、スマート化がこの20年で進んできたのに、逆に人を守るための先端技術(ロボット化、遠隔化、スマート化)が、全く疎かにされてきたこと、今嘆いてもしょうが無いですが、本当に腹立たしくなります。

地震発生の数週間後に、池上彰さん解説の今回の地震に関する問題の解説番組をテレビで観ていて、万一原発が爆発、炉心が爆発しても、それは原子爆弾の爆発とは全く違ったものある、という解説に少し安堵しました。
稚拙な解釈ですが、原爆は、一気に核分裂反応を起こして巨大な運動エネルギーが一気に放出されるのに対して、炉心は、核分裂反応を抑制・コントロールしているために、急激な核分裂反応を起こすことはなく、そのため、放出される運動エネルギーも心配するほどのものではない、その様な内容であったと思います。
嘘でもいい、そうであって欲しいと思いますし、池上さんには失礼になりますが、何故に一介のジャーナリストの解説でしか安心が得られないのか、池上さんが常々よく仰る『新聞ですら、多様な読者を想定して、分かりやすく伝える努力をしない』という苦言のメッセージを大きな紙に書いて、政府の広報者、ニュースのアナウンサー、新聞の解説者、また専門分野の学者の前に広げて見せて、『専門バカで終わるな!国民をバカにするな!もっと賢くなれ!』と叱責したくなります。

何の手立ても講じられぬまま、最悪の事態を迎え、さらにこの先、どうなるのかさえも分からない現状に対して、少しでも国民が、世界の人々が安心できるメッセージを日本国民の長である菅直人総理大臣自らが、迅速に且つ、リーダーとしての強い意志を持って、分かりやすく説明し、そしてどの様に対処するのか、日本国民や、また世界の人々に依頼する事項があれば、真摯に、また端的に伝えて欲しい、そう願います。

今、日本政府ができることを、今すぐして欲しい、そう願います。

2011年4月11日月曜日

第24回高砂市中学校春季軟式野球大会 鹿島中野球部が優勝しました!

一昨日の宝殿中との戦いの興奮もさめやらぬ、4月10日(日)、第24回高砂市中学校春季軟式野球大会の決勝戦を迎えました。




昨日とは打って変わって、真っ青な晴天、朝日は眩しく輝き、暖かく、桜の花も一気に開花した、そんな素晴らしい陽気の中、向島A球場にて、8:55、荒井中との決勝戦が鹿島中先攻で始まりました。


鹿島中野球部のオーダーは、1番SS門野、2番LF矢野、3番3B大前、4番1B福本、5番CF前田、6番P加古、7番RF芝、8番C森田、9番2B不断。

3回表、森田君四球、門野君死球から矢野君、大前君の連続タイムリーヒットで2点を先取。

4回表、芝君が強いサード強襲のゴロで一塁に出塁。森田君、不断君の連続犠打で芝君を三塁に進め、門野君がまたしてもサードを強襲する強いゴロを放ち、芝君をホームに迎え入れ3点目。

その裏、ヒットを足がかりに犠飛で1点を献上するも、
6回表、二死から森田君四球、そして不断君が値千金の左中間を抜く二塁打を放って4点目。続く、門野君も右中間を抜く三塁打で5点目と一気に荒井中を引き離しました。

7回には、二死から前田君が右中間を抜く三塁打、そして加古君が右中間を抜く二塁打でだめ押しの6点目を奪い、

投げては、森田君の好リードと加古君の攻めのピッチングで、5回以降は一人も走者を出すことなく、7回を投げ抜き、6-1で優勝しました。


荒井中は、現鹿島中野球部にとってどうしても勝ちたいチームでした。
新チーム結成後の最初の公式戦となった、2010/8/3~5 高砂市招待中学校新人野球大会の決勝で対戦し、1-3で惜敗しました。
また、2010/10/1~2 平成22年度高砂市中学校総合体育大会新人戦の決勝ではまたしても、荒井中との対戦となり、延長の9回裏、最後に力尽き1点を取られて0-1xで惜敗しました。
その荒井中も今大会の2回戦では、竜山中と対戦し、3-1のビハインドで7回裏二死走者なしまで追い込まれながら、それから驚異的とも思える逆転勝ち3-4xで決勝に駒を進めてきました。
その荒井中に勝った、勝って優勝しました。

決勝戦が終わって直ぐに、閉会式が始まりました。

閉会式では、優勝した鹿島中野球部部員が真ん中に四列で並び、三塁側に準優勝の荒井中、一塁側に三位の宝殿中が並んで行われました。
優勝チームから2名が呼ばれて、門野主将、大前君が駆けていき、まず、賞状を大前君が受け取り、そして門野主将が深紅の優勝旗を受け取りました。


高砂市の7つの中学校野球部は、それぞれに個性が有り、力は拮抗しています。
この大会では、藤原監督、久下部長の指導のもと、冬のトレーニングでしっかりと鍛えた力、技術、心の逞しさ、そして、26名が1つの戦う集団となって、素直に勝利を信じて戦った結果だと思います。

来週末は、加古川招待大会、5月には東播磨親善大会、そして6月には現3年生部員にとっての総決算となる中体連野球大会があります。今月には、新入生の中から新しい仲間も加わります。

4月10日は、午後2時から『まねきや』で祝勝会を開きました。
まず、久下部長、藤原監督から優勝報告を頂き、森田副父母会長の音頭で乾杯しました。昨年秋に、激励会・親睦会で『まねきや』で食事会を開いたときは、部員達のテーブルに置かれた肉皿にはたっぷりと食べ残された肉が残っていました。それが今回、特に3年生のテーブルの肉皿は綺麗に食べ尽くされ、『まだ足りぬ』とばかりの大食漢と化していました。これも素晴らしい成長です。
一通り、食事が終わった後、まず、2年生部員の中から、常に監督の側でスコアーを付け、状況報告の任についていた松本君、一塁ランナーコーチ長谷川君、三塁ランナーコーチ中嶋君、ベンチで大声で声援し続けた控え選手の中でも、特に声がかれてしまっていた村中君、そして今日7回を投げ抜いた加古君が、恥ずかしがりながらも、喜びの言葉を述べてくれました。
そして、次には3年生、主将の門野君はしんがりで、背番号の若い順に、喜びの言葉や試合の感想、また監督、部長や父母からの質問等に戸惑いながらも、しっかりと正直な気持ちを言葉にして応えてくれました。(わからしてくれました)
そして、門野主将の登場では、今大会の前週に行った広島クラブチーム招待試合で、チーム状態が最悪であった時に、藤原監督から大前君、矢野君とともに40分間、叱咤激励を受けたときの裏話で、大いにわらかしてくれました。
勝利は、様々な副産物を与えてくれます。その1つが笑顔です。笑いです。苦しかったこと、辛かったことも、すべて楽しい思い出、笑い話に変えてくれます。
3年生、否すべての父母会メンバーとこのチームに関われたこと、本当に幸せだと思いました。
祝勝会の最後、久下部長、そして藤原監督から、今日の喜びだけでなく、後の公式大会も勝ちに行く。優勝旗を取りに行く。後二ヶ月、ついてきなさい、と部員達全員に力強いメッセージを述べられました。


p.s.
◆鹿島中野球部部員諸君へ
今大会の優勝を大いに喜んで下さい。そして、今日(4/11)から新たな気持ちで、素直さと、戦い勝つ強さをさらに養いつつ、自分自身を、チームメイトを、そして鹿島中野球部の野球を信じて、これからの試合も全力で戦い抜いて下さい。

最後に、校長先生をはじめ野球部員の家族や友だち、地元の方々が多数応援に駆け付けて下さいました。大きな声援で、野球部員を鼓舞し続けて下さいました。本当に有り難うございました。