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不寛容にもほどがある!

現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤...

2025年4月26日土曜日

デモクラシーの本質とは何か?

マタイによる福音書6章24節

『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじるからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』


日本では民主主義と対訳される近代デモクラシーですが、そのデモクラシーの本質とは何かを、ここ数年考えるようになりました。戦後生まれの私はずっと民主主義とは「平等」そして「自由」が実現された社会の仕組み程度に考えていましたが、いわゆる平成バブルが弾けて以降、日本は徐々に「不平等」で「不自由」な社会へと姿を変えていきました。


私はデモクラシーとは何かを知るために、アメリカの高名な政治学者ロバート・A・ダールが執筆した「デモクラシーとは何か?」というデモクラシーの入門書を読みました。そして、デモクラシーが供えるべき仕組みや手続き、客観的評価指針などを学びました。ダールが掲げた客観的評価指針とは、1941年に世界規模で自由を守る為に設立されたフリーダム・ハウスが評価指針としている「政治的自由」と「市民的自由」です。


フリーダムハウス(Freedom House)

https://freedomhouse.org/report/freedom-world

政治的自由(Political freedom):自由で公正な普通選挙、公職への立候補、政党への参加などを含む政治過程への参加の自由など

市民的自由(Civil liberties):表現・信仰・結社の自由、法の支配、個人の自律など


近代デモクラシーは、18世紀の後半、アメリカ合衆国建国とフランス革命が起点となって始まりました。

デモクラシー(民衆が政治参加する政治体制)が人類史上初めて執り行われたのは、今から2500年前の古代ギリシャ世界の都市国家アテナイです。アテナイも王侯貴族が支配するアリストクラシー(気高き者が政治を支配する政治体制)国家でした。

ギリシャ世界にとって東のペルシャ帝国は大いなる脅威でした。そのペルシャ帝国がギリシャ世界に侵略戦争を仕掛けた時、ギリシャ世界の都市国家はアテナイを盟主とするデロス同盟を締結し一丸となって戦いました。そして、海戦でペルシャの侵攻を食い止めました。この戦争では、自由市民も重装歩兵として戦争に参加するという気高い行為を行い、また海戦が海運を発達させて、海上貿易により自由市民も大いに豊かになったことから、その報いとして自由市民も政治への参加が認められ、アテナイはデモクラシー国家となりました。

しかし、アテナイのデモクラシーは長くは続きませんでした。アテナイは慢心し、ギリシャ世界の富や文化をアテナイに集中させようとしたために、他の都市国家はアテナイから離反し、あらたにスパルタを盟主とするペロポネソス同盟を締結して、アテナイと戦争を繰り広げることになりました。この30年にも及ぶペロポネソス戦争は、アテナイの躓きから終焉を迎えることになります。

アテナイには、少年の頃に美少年として男性の寵愛を受け、大人となってからはオリンピック競技の戦車競走の勝者として名を馳せ、市民からも人気の高い貴族出身の若き将軍アルキビアデスがいました。このアルキビアデスが、戦争の方針を議論し決定する市民集会で、無謀なシチリア遠征を主張し、アルキビアデスの煽動的な発言に熱狂した市民はシチリア遠征を決定します。このシチリア遠征でアテナイは大敗し、多数の戦艦と兵士を失うことになり、降伏に至ることになりました。

アルキビアデスは戦車競技に熱中するあまりに散財し、借金で首が回らなくなっていました。その借金を解消するためにアルキビアデスはスパルタに寝返ることにしたのです。この愚か者の煽動によって愚かな人々が支配する国が衰退したことによって、デモクラシーは、近代まで「愚衆政治」の象徴と見なされ続けてきました。


古代ギリシャ世界の衰退の後、現在のヨーロッパ全域、地中海周辺のアフリカ、そして中東までも支配したのは都市国家ローマです。ローマは皇帝を擁し、強大な武力で勢力範囲を拡大して行きました。ローマもギリシャ世界と同様に、多神教の国家で、他宗教にも寛容でした。そのため支配地の土着の信仰も許しました。その一つが、アブラハムを父とするイスラエルの子孫の国ユダヤ国の信仰です。ユダヤの民は唯一神ヤハウェを篤く信仰しました。2000年前、このユダヤ国でイエスが誕生し、宗教指導者や国の指導者の腐敗に抗い、神の元では人間は平等であると説き、虐げられていた人々に、あなた達こそ神の国に迎えられるという救いを与える布教活動を始めました。

このイエスの教義を広める活動は、イエスの死後も使徒と呼ばれる弟子たちから、ローマの支配地全土に宣べ伝えられたことから、イエスの教義であるキリスト教の信仰者はローマ全土に広がりました。このことに脅威を感じたローマの指導者は、キリスト教を禁教にし、キリスト教徒を迫害しますが、信仰者の拡大は止める事が出来ず、遂にキリスト教を容認し、392年にはキリスト教をローマの国教と定めるに至りました。そしてローマに法王庁が設置され、以後、皇帝や王の権威は、神の司である法王が授与する慣例が作られました。

ローマ帝国は、西と東に分裂し、東ローマ帝国はコンスタンティノーブル(現在のイスタンブール)に皇帝府とあたらしく正教会を設置し、正教会は、1054年にローマ教会と正式に分裂して東方正教会として独自の発展を遂げることになります。

キリスト教は、近代まで皇帝や王に権威を授与する教会の権威の源としての役割を果たしますが、教会の絶大な権威のもとで蔓延る不正に、抗議の声を上げたマルティン・ルターの様な宗教改革者が現れ、ローマを本山とするカトリック信者から、抗議者(プロテスタント)と敵視され、以降、近代デモクラシーが興るまで、プロテスタントは迫害を受け続けることになります。しかし、法王や皇帝、王の権威ではなく、聖書に向き合い信仰を育むというプロテスタントたちの信仰は、商人や社会の進歩と調和を願う人々の中で浸透していき、18世紀に、イギリスからピューリタン(イギリス国教に対するプロテスタント)が新大陸アメリカに逃れて新国家アメリカ合衆国を建国し、フランスでは民衆革命によって王制が倒され、民衆が政治参加する政治体制デモクラシーが再び始まることになります。

但し、古代のデモクラシーとは大きな違いがあります。それは、近代デモクラシーは聖書に向き合うキリスト教徒が、デモクラシーの勃興に深く関わっていたという事です。


そこで冒頭のマタイによる福音書6章24節の御言葉です。

『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじるからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』

近代デモクラシーを牽引した人々は、聖書の信仰に篤い人々でした。彼等は神に仕えていました。神の戒めは絶対でした。彼等は神に誓い、神の戒めに沿う法、自らが従う、そして子々孫々に至るまで従うように法を定めました。その評価指針が「政治的自由」と「市民的自由」でした。


私は、このマタイによる福音書6章24節の御言葉に触れ、キリスト教が近代まで皇帝や王の権威の源とされていたように、近代デモクラシーを永代に渡って守り続けるために整備されたデモクラシーの法律は、キリスト教が源になっていると気付いたのです。

しかし、近現代になっても利己主義的な戦争は止まず、他宗教との軋轢や争いも止まず、しかも、戦争は軍需産業という産業に活気を与え、莫大な富を生み出す源泉になっています。富に仕えることになれば、神への仕えが疎かになってしまいます。

そして、富に仕える人間が、神の擁護者を騙り振る舞います。彼等は自ら利益となる主張を大声で発信し、人々を煽動します。そして多くのキリスト教の信者が、煽動政治家(デマゴーグ)を熱烈に支持しています。それは、近代デモクラシーが愚衆政治に変貌していく有り様で、非常に憤りを覚えます。


追伸。

民主主義は、明治期にデモクラシーが日本語として翻訳されたものですが、先に述べたように、その本質には大きな隔たりがあると思います。

キリスト教の信仰が礎となるヨーロッパのデモクラシーは、本来は信仰の対象である神と個人との契約です。信仰の篤さが法への忠誠の源です。そして、キリスト教の本分は「他者を愛せよ」です。

翻って日本は、80年前まで、天皇を頂点とする忠孝が最も重んじられた国です。そして民主主義は、上意下達で国民は教育されました。ですから、「政治的自由」は仕組みとしてはあっても、お上(役人や政治家)に依存する体質は変わらず、投票行動すら積極的になれないのです。また、「市民的自由」といっても、義務教育から上意下達の教育、暗記教育を強いられて、答えのない問題に対応する力が極めて弱いのだと思います。それもそういう物言わず従う国民を製造してきた為政者の計らいなのだと私は思います。

1000年前、日本には仏教が伝来しました。仏教の祖である釈迦の教義は、「自未得度先度他」、自分が悟りを得ていない状態でも、まずは他者を悟りに導く、つまり利他、他者を救済することが最も徳の高い行為であるとする教義です。しかし、明治期には仏教も一時期禁教扱いとされ、いまでは仏教といえば、お葬式、先祖供養のためのものでしかありません。


しかし、学び直すことで、きっと私たちは変われると思います。そういう希望は私は、抱き続けます。

 

2025年4月23日水曜日

ライヤーハウス

 二期目となったアメリカのトランプ大統領が、対外だけでなく国内に向けても、先人たちが長い時間を費やして整備してきたデモクラシーの社会システムを、まるで復讐でもするかのように身勝手な大統領令を乱発して壊してゆく様を見ていると、現実的な恐ろしさを超えて、まるで軽薄なB級映画を見せられている様な気持ちになってきます。

一期目の時に感じたのは、まるで映画「G.I.ジョー(G.I.Joe: The Rise of Cobra)」の世界観が現実になったんだ、という事でした。ホワイトハウスの屋上に星条旗ではなくコブラ旗(もしくはトランプ旗)が掲げられていないか確認しました。笑い

そして二期目のトランプ大統領が大統領令を乱発している様は、まるで「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」に登場した、自由で闊達なホグワーツの精神を、統制と萎縮で縛るために尋問官令を乱発したドローレス・アンブリッジに見えてきます。

そして、トランプの様なデモクラシーを破壊しかねない人物が行政権を支配した時の安全装置として、残りの立法権を司る連邦議会と司法権を司る連邦最高裁には大統領令を違憲と判断して無効化できる権限が与えられているのにも拘わらず、それを行使もせずに沈黙を決め込み、更には、トランプ同様に何の見識もない人物が政府トップに任命されて、下品さをまき散らす様を見ていると、アンゼルセン童話の「裸の王様」の世界観が現実になったんだ、という気持ちになります。ホワイトハウスがライアーのハウスになっていないか確認しました。笑い


山辺の斜面に生える野の草

山辺の斜面に寝転んで、生える野の草を見上げたら、鮮やかな色と生気に圧倒されました。そして、一編の御言葉が力強く思い出されました。

マタイによる福音書 6章30節
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくして下さらない筈があろうか。