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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2023年10月24日火曜日

神戸布引ハーブ園の花々

 


耐え難い憤りに向き合うために

 10月5日(木)、ウクライナ東部ハルキウ州クピャンスクのグローザ村で、ロシアがウクライナに軍事侵攻を開始した昨年二月に前線に向かい、まもなく死亡した元兵士の追悼集会の会場を、ロシア軍がミサイル攻撃の標的にして、住民59名が爆殺された。

10月7日(土)、ユダヤ教の安息日にイスラエルに侵略したハマスは、300人近い人々を殺害し、200人を超える人々を人質としてガザ地区に連れ去るという事件を起こした。

10月17日(火)、ガザ北部にあるキリスト教系の病院が爆破され、ハマスは、イスラエル軍の攻撃によるもので、この攻撃により少なくとも500人が死亡と発表した。しかしイスラエル国防軍は、ハマスとは別のパレスチナ武装勢力「イスラム聖戦機構」によるイスラルへのロケット攻撃の失敗によるものだと主張している。

最近の戦争報道の中で、特に強い憤りを感じた出来事です。殺害された人々、傷つけられた人々、連れ去られた人々は、非戦闘員です。国際法上で標的にしてはならない人々です。

戦争では、こういう人々が、見せしめの為に殺されたり、敵の攻撃を防ぐための人道の盾として利用されたり、力の誇示や恐怖を植え付け戦意を失わせるために殺されるのです。無意味に、もしくは誰かの快楽を充たす為に、殺される人々もいるでしょう。


日本は、78年前に終わった第二次世界大戦で敗戦国となって以降、戦争をしていません。

が、この地球上では、植民地からの独立紛争、曖昧な国境をめぐっての国家間の戦争、異なる宗教や異なる部族の国や地域の支配権を巡っての紛争、軍事大国による武力侵略に端を発した国家間の戦争、そして狂信的、あるいは身勝手な思想をもとにした一般市民を標的にしたテロ行為が、後を絶たず行われ続けてきました。

私たち日本人は、心のどこかで、私たちは戦争をしていない、戦争を知らない、戦争は遠い他国の出来事、私たちは関係ないと思っている節がありますが、エネルギー、食料、あらゆる産業の原材料を他国に依存している日本は、遠い他国で紛争が起こる度に、あらゆる危機に直面してきました。

また、国連主導の紛争地への介入も、国内法を理由に、戦闘行為には直接参加はしてきませんでしたが、戦費や軍事物資の提供をはじめ、紛争地での戦後復興支援と称しての道路や橋の施設、また地雷除去、機雷撤去という紛争当事国からみれば敵対行為と見なされる行為も行ってきました。そう、戦争に関わってきたのです。

何より、インターネットが普及する以前は、乏しかったですが、現在は紛争地の惨劇がダイレクトに私たちの目に、耳に、心に、飛び込んでくるようになりました。知らない、関係ない、責任はないでは済まされない時代になりました。

日本がある東アジアも、いつ戦争が起こってもおかしくない時代となりました。韓国や台湾が軍事侵攻に晒されたら、私たち日本人は、ロシアによるウクライナ軍事侵攻時に、ウクライナに隣接する東ヨーロッパの国々が、検問を開いて、100万の単位でウクライナからの避難民を受け入れたように、韓国や台湾からの避難民を受け入れることが出来るでしょうか。また、アメリカを始めとする西側諸国が、韓国や台湾に加勢するために戦争に参加した場合、日本は国内法が許さないからと、参加を拒否できるのでしょうか。

そして万一、日本が軍事侵攻の標的となった場合、私たち日本人は、逃げずに戦えるでしょうか。

戦争はよくない、戦争はしてはいけない、戦争はしたくない、は日本人だけでなく、すべての国の市井に暮らす人々の偽りのない気持ちだと思います。

しかし、78年間、他国の武力行使という脅威を受けずに、戦後復興と経済成長、そしてその奢りが招いた経済の鈍化と様々なシステムの歪みの弊害に苦しむ内向きな日本人と、常に隣国の強国の脅威に晒され続け、また幾度も紛争を繰り返し、外敵に対して、心の底から払拭できない怨み、苦しみ、哀しみを募らせ続けてきた人々とでは、偽善と本心からの葛藤ほどの差があるように思います。

私たち戦後教育を受けた日本人は、戦争が引き起こす、苦しみ、怒り、怨み、哀しみ、絶望感、自らへの嫌悪感、罪悪感を知らないし、理解も出来ないと思っています。

ですが、遠い他国で現在進行形の戦争に、目を、耳を、心を開けば、彼等戦争当事国の市井の人々の心の内を想像することは必ずできると思います。


私たち日本人は、この地球上の大多数の人々が何かしらの一神教に帰依し、宗教によって敵味方を差別するのとは異なり、あらゆるゆうぶつに神が宿るという畏怖の信仰を心に宿しています。そのため、違いに対して、恐れではなく、慎み敬う事ができます。異なる宗教についても、異なる民族についてもです。

私たち日本人が一番恐れなければなえればならないのは、自らのおごりたかぶりです。それは、慎み敬う心を曇らせます。

この日本人の八百万の神への慎み敬う信仰の心こそ、度重なる紛争、戦争で、頑なに絡まってしまった心を、解きほどくことの出来うるものだと思います。

私たち日本人が出来る事、今すぐ出来る事、継続して出来る事は、戦争で苦しむすべての人々に、慎み敬う、そして慈愛を示す事だと思います。


そうしなければ、近い将来、憎悪の重みで、人間が築いてきた世界は、押しつぶされて滅んでしまうでしょう。