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不寛容にもほどがある!

現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤...

2020年5月7日木曜日

学校の始業時期の変更について

新型コロナウィルスのパンデミックで、二月末から学校は休業状態が続いています。春から初夏へと向かうこの季節は、例年、学校では様々な行事やスポーツイベントが目白押しで、子供達や学生達の明るく賑やかな姿や声が町中を彩っていました。しかし、今年は未だ学校は休業状態で、学校行事もスポーツイベントも中止に追い込まれ、学校も町も静寂に覆われたままです。本当に異常で、残念でなりません。

5月4日、安倍晋三首相が記者会見し、非常事態宣言の一ヶ月延長を発表しました。
感染の状況を注視し、感染抑止の効果が見られれば前倒しでも解除する、という内容でしたが、これまでと同様に、国民が望む非常事態宣言解除の指針も国民の心に届く連帯や希望のメッセージもありませんでした。そして、医療崩壊、経済崩壊と同様に、深刻の一途を辿る学校教育崩壊に対する具体的な対策も打ち出すことはありませんでした。

学校教育では教育機会の格差の広がりを是正することが緊急の問題です。
一部の学校では、ITを活用したオンライン授業をスタートさせて、授業の継続を図っています。このオンライン授業を全ての学校で実現することを今、求められるようになりました。しかし、これから新たにオンライン授業をスタートさせるには、周到な準備が必要です。
インフラを整え、それを維持し続けるには、それなりの人・物・金が必要です。そして教師は、ディスプレーと音声だけで円滑に授業を進めるためのプログラムとその実践スキルが必要です。なにより生徒側のデジタルデバイドが解消されなければなりません。
付け加えるならば、ネットワークは現状のままではパンクしてしまうでしょうし、通信費、イニシャルコスト、ランニングコストを全ての家庭が負えるわけはありません。無理が生じれば、それが次なる教育格差を生じることにもなりかねません。
私は、オンライン授業がこれまでの学校教育に置き換えられるものか、検証しないかぎり、これまでの学校教育の補完に留めるべきだと考えます。

それよりも「学校の9月始業」の実現です。
「学校の9月始業」を推奨する有識者の人々は、この際、欧米のスタンダードである「秋始業」に切り替え、世界の学生や指導者との知性の交流を活性化することで、近年懸念される子供達や学生の学力低下を是正し、向上を図ると共に、グローバルに活躍することができる人財を育成できると訴えています。それは非常に有意義な目的です。
しかし、現在の本来の義務教育がストップし、地域や学校によって教育機会や習熟に格差が広がっている現状を抜本的に改善するためにも実現は必要だと考えます。

秋からのリスタートを決定することで、学校や教師は、秋までの3~4ヶ月をリスタートの準備や、補完のためのオンライン授業の準備に充てることができます。また子供達や学生は、リスタートまでの期間を予習や復習、そして、さらに見識や視野を広げる為の読書などの学び、体力作りに充てることができます。マイナスをプラスに換えることができると考えます。またそうしなければいけないと考えます。

学校の終業を春から秋に変えることで、社会は様々な変化を求められるでしょう。でも社会は変化することで応えなればなりません。教育を、未来の有る子供達や学生を支援することは社会の大事な使命だからです。社会こそ試行錯誤すればいいし、それが良い新陳代謝に繋がると考えます。

2020年5月6日水曜日

デモクラシーの国の、リーダーの有るべき姿

新型コロナウィルスのパンデミックは、私たちに一つ、とても重要な事を気づかせてくれました。それは「リーダーの有るべき姿」です。

デモクラシーを標榜する国家において
平時にリーダーに求めるものは、誰もが活躍することができる社会を作り、それが維持出来るように見守ることです。それには公平さと愛と忍耐が必要です。
しかし有事にリーダーに求めるものは、先頭に立って、明確に進路を示し、切り開くために行動することです。それには、鉄の意志と真心と責任感が必要です。
ですから優れた真のリーダーには、平時にも有事にも対応できる特性を併せ持たなければなりません。しかし、そうでなくとも、局面に対応できる特性を持つ人がリーダーであれば、私たちは安心です。

しかし、私たちの国のリーダーは、
平時には強いリーダーを自ら名乗り、雄弁に美辞麗句を並び立てました。リーダーの公私混同や私利私欲がどんなに酷くても、世の中が回ってさえいれば、国民は目をつぶり穏便に済ませてきました。
しかし、未曾有の国難を前にしても、役人が用意した台本を棒読みするだけで、自らの意志を示す言葉を持たず、国民に寄り添う言葉を持たず、責任を負う意志を持たない、つまり「三無し」であることを私たち国民は見ました。

ドイツやイギリスの首相は、自らがウィルス感染の恐怖を経験し、この国難に共に戦う国民に、心からの感謝を示しました。
アイルランドの首相は、医師として医療現場に復帰しました。
台湾の総統は、流行する前に対策を国民に示し、優秀で意志の強い人材を対策チームに配置して、そのリーダーシップで国内の感染拡大を封じました。
日本よりもさらに個人の人権が尊重される韓国では、日本とは真逆の対策、誰でもウィルス陽性検査が受けられる対策で、感染の信頼できるデータを把握し、それによって感染拡大を封じました。

私たちの国のリーダーは、
もしかしたら、もっと崇高に、国民の命よりも国家の形、これまでと変わらぬいにしえからの器を残すことに重きを置いているのかもしれません。
しかし、繋ぐ人、紡ぐ人がいなければ、器は遺物でしかありません。
遺物はなくても、繋ぐ人、紡ぐ人さえいれば、さらによい器、いや、物ではなく精神を後の世に残せるでしょう。それが如何に、はるかに崇高であるかを、この国のリーダーを目指す人たちは学ばなければなりません。