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デモクラシーの国の、リーダーの有るべき姿

新型コロナウィルスのパンデミックは、私たちに一つ、とても重要な事を気づかせてくれました。それは「リーダーの有るべき姿」です。 デモクラシーを標榜する国家において 平時にリーダーに求めるものは、誰もが活躍することができる社会を作り、それが維持出来るように見守ることです。それに...

2024年7月30日火曜日

ドラマ「新聞記者(Journalist)」を観て

『もし私を死刑にしたら、もう簡単にはこんな人物を見出すことはないでしょうから。実際、可笑しな言い方かもしれませんが、私は神によってポリスにくっ付けられた存在なのです。大きくて血統は良いが、その大きさ故にちょっとノロマで、アブのような存在に目を覚まさせてもらう必要がある馬、そんなこのポリスに、神は私をくっ付けられたのだと思います。

その私とは、あなた方一人ひとりを目覚めさせ、説得し、非難しながら、一日中どこでもつきまとうのを止めない存在なのです。ですから、皆さん、こんな者はもうあなた方の前には簡単には現れないでしょう。むしろ、私の言うことを聞いて、私を取っておくのが得策です。』

この言葉は、詩人のメトレス、手工業・政治家のアニュトス、民衆扇動家(デマゴーグ)のリュコンら三名によって、『国家の信じない神々を導入し、青少年を堕落させた』という罪で訴えられたソクラテスが、裁判でアテナイ市民500名の陪審員の前で弁明を行う、プラトン著「ソクラテスの弁明」の中で、私が一番感銘を受けた言葉です。

ソクラテスは若い頃から、賢者・智者を自認する雄弁家、教育者、政治家、芸術家などとの対話を求め、その結果、彼らの愚かさを図らずも世間に知らしめたばかりでなく、ソクラテス自身の智者としての名声を高めたことにより、彼らや彼らのような人々から憎しみや怨みを買う存在となっていました。そして70歳の直前にソクラテスは、彼らから遂に、いわれのない罪を着せられ、裁判に掛けられ、彼らの煽動的な告発に感化された陪審員によって罪が確定したのみならず、罰として死刑が確定し、最後は、友人や支援者に見守られながら自ら服毒し死を遂げました。

私は、先のソクラテスの言葉から、ソクラテスこそがジャーナリストの祖なのではないかと考えるようになりました。ジャーナリストは、不明なることや不確かなことを自ら調査して明らかにし、明らかになった事実を世の中に問い、世の人々が正しいと考えられる行動を促す役割を担っています。それ故に、事実を明らかにされたくない者たちから憎まれ、恨まれ、狙われ、陥れられ、最悪の場合には命が奪われる存在だからです。


なんで、このように思いを馳せたかといいますと・・・

先日、Netflixで2022年に公開されたドラマ「新聞記者(英語タイトル:Journalist)」を観たからです。

このドラマ、見た方なら御存じでしょうが、安倍内閣の時代に世間を騒がせた森友学園問題や参与として政府の闇に深く関与する人物の犯罪疑惑、そしてコロナ感染初期の人間軽視などを彷彿とする物語であったために、公開当時、保守系の新聞や雑誌等から、現実の疑惑やその疑惑の調査過程とのそごが指摘され非難されていました。また、疑惑の中で亡くなられた方の遺族のドラマ化への賛同が得られぬままに、制作され公開されたことも、批判の理由となっていましたが、実際に鑑賞された視聴者の感想は、肯定的な意見や俳優の鬼気迫る演技を称賛する意見も多数見受けられました。


私も、素直に、このドラマが描き出す、疑惑に人生を傷つけられた人々や疑惑に荷担した人々の葛藤や苦しみに、大いに胸を痛め、また、隠蔽を指導し、隠蔽が暴かれることの無いように、どんなに人々が苦しもうと、手段を選ばず、脅し、世論を誘導し、弾圧する政府中枢に潜む冷血漢に心底恐怖を覚えました。

そして、それ以上にドキュメンタリーを思われるこの物語が、どんな結末を用意しているのかを見届けたいと強く思い、見届けました。

ドラマは、疑惑の中で亡くなられた方が、一体誰に殺されたのか、何で殺されたのかを明らかにするために必須であった、証拠や証人が現れて、ようやく、裁判が行われる場面で終わりを迎えました。

現実の疑惑の裁判は、政府の鉄壁に阻まれて、解明すら遅々として進まないでいる状況です。ドラマには疑惑を解明する一筋の光明が見出せたことも、現実と比べ楽観的と厳しく観られる点であるのかもしれませんが、現実でも、今後、解明を一気にするめるような証拠や証人が現れることを、私は希望してなりません。

また、これこそが、このドラマが作られ公開された意義ではないかと思いました。


古代ギリシャ世界では、賢者・智者として認められることが成功の糸口でした。この成功によって名声、金、地位、そして権力を手にすることができました。

ソクラテスは、若い頃に友人のカレイフォンが、アポロンの神託所において巫女から「ソクラテス以上の賢人はいない」との神託を授かってきたことにショックを受けて、自らは愚者であると自覚していたことから、自問し、遂に一生を掛けて神託の反証を試み続けました。それが賢者・智者を自認する人々との問答でした。ソクラテスは、問答を続ける中で、「知らないことを知っていると思い込んでいる人より、知らないことを知っている私の方が、少しは賢いのかもしれない」と神託の意味を考えるようになっていきます。

しかし、もしかしたらソクラテスは、アテナイに蔓延る様々な疑惑や問題に光を当て、アテナイ市民に善と悪について考える切っ掛けを与え続けていたのではないか、とも想像します。


現代の世界においても、報道の自由は、ヒューマニズム、参政権とともに、もっとも重要となる人間の権利です。

ジャーナリストが活躍できなければ、報道の自由が失われれば、一握りの絶大な権力を握る為政者の堕落を招き、組織もシステムも、国家でさえも、停滞や腐敗によって死に体に陥ってしまいます。その結果は、歴史を見れば明かです。独裁や戦争が始まり、国民の命が踏みにじられることになります。

ジャーナリストが活躍できれば、停滞や腐敗がいち早く捉えられ、それによって改革や改善に繋がり、組織やシステム、国家の新陳代謝をよくすることに繋がります。


現在の日本は、様々な組織やシステム、国家に対して不信が広がり、日本人が美徳としていた礼節、利他、そしてか弱き隣人、子ども、女性、高齢者、身体や精神に不自由を抱える人々に手を差し伸べる無償の行為、そして、社会の基盤となって働いてくれる保育士、教師、介護士、看護師、医師への感謝と尊敬がどんどんと失われ、すべてが拝金ビジネスに取って代わられ、人間がもの扱いされる事態となってきました。


本当にどこから手を付ければよいのか、難しいですが、私たち一人ひとりは物でなく、大切な命、人権が保障された人間であることに立ち戻れるように、ジャーナリストに活躍してほしいと願わずには居られません。