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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2019年10月31日木曜日

寅次郎を通して考えた、学校ってなんだろう?先生ってなんだろう?

学校ってなんだろう?
勉強するところかな
友達をつくるところかな

でも素朴に

学校に通う子どもにとって
楽しいところ
安全なところ
一人の人間として
誰とも違う個性を認めて貰えるところ
一人でなく回りの仲間と成長できるところ
であって欲しいと思います。

そして、それを叶えてくれるのが先生です。

男はつらいよ第50作「お帰り寅さん」の公開を前に、「悪童(ワルガキ)-小説 寅次郎の告白-」(2018/9 山田洋次)を読みました。
その寅さんの告白の中に、子ども時代にこんな事があったら、一生心に持ち続けるだろう、そして大切にするだろうという出来事がありました。

一つめは、寅次郎が小学校を卒業するときの出来事です。
ガキ大将の寅次郎には、幼い頃から連れ遊ぶ子分の様な友達、タンクローとクボチンがいました。いつもの様に三人で柴又帝釈天題経寺の境内で遊んでいると、和尚様である御前様に「進学を控えているのに遊び呆けていていいのか」と声をかけられます。
寅次郎は自慢げに「俺とタンクローは柴又中学」
「それはおめでとう。で、久保田君はどこに決まったのかね」と御前様がクボチンにたずねると
クボチンはへらへら笑いながら「オデは馬鹿だから養護学校」
そして三人でゲラゲラ笑った。
それを見た御前様の顔はみるみる真っ赤になって、いきなり三人の頭を拳固でポカポカ殴り、そのまま三人を本堂に引き連れて正座をさせ、三人をにらみつけ、震える様な声で吃りながら話をします。

以下、本編から抜粋させて頂きます。
「く、久保田君は自分の事を馬鹿と言い、ほかの二人はそれを可笑しそうにあざ笑う、な、なんということだ。お前たちを生まれた時からよく知っている私としてこんな情けないことはないぞ。いいか、久保田君は昆虫と動物が大好きでお父さんの手伝いをよくする優しくて良い子だ、ちっとも馬鹿ではない。学校の成績が悪いことぐらいがなんだ。成績がよくても馬鹿な奴はいくらでもいる。私の同級生に秀才で東大を卒業して偉い官吏になったのがいるがそいつなどは心の冷たい大馬鹿者だ。あんなくだらない男にくらべたら久保田君などは、くらべるのも失礼なくらい上等な人間なんだ。養護学校は君のために国が作った学校だ、きっと良い先生がいて君の才能を伸ばす手伝いをしてくれるだろう。その学校でしっかり勉強しなさい。自分のことを馬鹿とはなんだ、君のような良い子がどうして馬鹿なんだ、誰がそんなことを君に教えたんだ、ああ情けない、じつに情けない」
そんなことを云いながら御前様は涙をこぼして泣くんですよ、いや参りました。

まだ学校というものが整備されていない時代において、お寺の和尚さんは、町人、村人、その子供達に物の道理や所作作法を指南する偉い先生であったのだと思います。そして寺は寺子屋、子供達が分け隔て無く集い手習いなどを学べる学校でした。ですから、和尚様である御前様は、寅次郎にとって生まれた時から見守り導きを与えてくれる先生です。
そんな先生である御前様が、寅次郎たちの間違いを、自分の不明を悔いるように嘆き悲しみ、心の底から怒ってくれた。拳固の痛みは御前様の心の痛み、心の悲しみ、それが寅次郎たちにとって、心が間違いに流されないための一生のくさびとなったと思います。

二つめは、柴又中学一年の英語の授業での出来事です。
担任教師は坪内散歩という、初めての授業で
「ボクの授業を受けてもアメリカ人と話を出来るようにはならない。威張るわけじゃないけどボクは一度もアメリカ人やイギリス人と話をしたことはないし、ボクの東北訛りの英語が外国人に通用するわけがない。ボクが英語の授業を通じて教えたいのは、君たちが日本語をきちんとしゃべり日本語でものを考えられることが出来るようになることなんだ」と寅次郎にとってはナゾナゾのような話をする本物のインテリ先生です。
この散歩先生には産みの親の一件で恩義を感じ、寅次郎はおとなしく授業を受けていました。
そんなある日の授業で、電話のかけ方について「車君、英語でモシモシとはなんというか知っているか?」と散歩先生から問われた寅次郎は、なんで俺に当てるんだろう、と思いながら仕方なく立ち上がり、前の授業でモシという言葉を習ったのをかすかに覚えていたので思い切って「イフ、イフ」と答えた。

以下、本編から抜粋させて頂きます。
一瞬の間を置いて大爆笑が起きました。びっくりして隣の教室の女先生が顔を出したくらいです。しかし散歩先生は笑いませんでした。例によって難しい顔で生徒たちを睨みつけ「可笑しくない!」と怒鳴ったのです。
「確かに、電話のモシモシはイフイフではない、車君の答は間違っている。だが彼はボクの質問に対して真面目に答えたんだ、笑うべきではない、その間違いを指摘すればいいことなんだ。答は常に正しくなくてはならないという考え方はまったくおかしい。人間は間違いばかり犯す存在なんだ、君たちもボクもだ。このことは肝に銘じて覚えておけ」
この最後の言葉は散歩先生に云われたとおり悪い頭で今でもよく覚えています。

人の成長にとって何より大事なことは、間違えても、失敗しても、それが自分の成長にとって肥やしであると自分自身が信じ続けられる事です。そう出来る人が、間違えても、失敗しても、何度でも挑戦できる不屈の人になるんだと思います。
だからこそ成長の始まり、子ども時代の間違いや失敗した時の経験は、その後の成長を大きく左右するのだと思います。
何より一番やってはいけないことは、間違いや失敗を一笑に付してしまうことです。笑うだけで取り上げない、間違いや失敗の価値を一切認めないことです。些細なことと大人は思っても、子供にとっては大きな心の痛手、一生の傷となりかねません。
大切なことは、間違いや失敗にも価値があることを気づかせる事です。信じられるようにする事です。寅次郎の、寅さんのその後の人生において、善意ある間違いや失敗は、寅さんに関わる人々を幸せに導くという価値を生み出しました。寅さんは気づいていないでしょうけれど、寅さんは上等な人間に成長されたのだと思います。

学校の先生は、人の子供時代において、どの大人よりも子供の身近にあって、子供と長く時間を共にする存在です。
最近では、フレンドリーな先生とか、保護者受けのする先生とか、受験に強い先生が持てはやされる時代ですが、そんな先生は、子供が大人になった時、きっと顔も、名前すら覚えていないのではと思います。
子供にとって一生の先生とは、もしかしたらたった一言で決まるのではないかと思います。御前様や散歩先生、またその逆なりもです。私にもそういう先生がいること、懐かしく思います。