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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年3月7日土曜日

春の便り

昨日、松陽高校野球部父母会井鳥さんから春季地区大会一回戦の日程を連絡頂きました。
待ちに待った球春の頼りです。

松陽高校は一回戦、同じ東播地区の加古川西高校と対戦します。
日時:3月29日(日)10時試合開始
場所:淡路佐野球場

今チームは、昨年から活躍しているメンバーが中核を担っています。彼らの守備力、投手力、打力、そして結束力、そのすべてにおいて成長した姿が見られる事、楽しみにしています。

対戦する加古川西高校は、毎年上位まで勝ち上がる実力のあるチームです。
試合運びが堅実なチームなのだろうと思います。
厳しい試合が予想されますが、勝利への執着が強い方に、勝利の女神は微笑むものだと思います。
松陽ナインには、試合の最後の最後まで、結束力と集中力、そして勝利への執着力を持続し続けて、必ずや勝利してくれる事を期待して止みません。

三寒四温

ようやく暖かくなってきたなと思うと、寒さがぶり返す。体には堪えますが、でもこうして春は近づいてくるのですね。

昨日は啓蟄でした。風は少し冷たかったけれど日差しは暖かでした。
そんな日中、次男の運転で姫路城西隣にある好古園に出かけました。

好古園では梅花展が開催中でした。
鉢植えの見事な枝振りの梅の木に、小さな花が沢山咲いていました。
滝が流れる水音で外界の騒音が遮断された庭園内には、うっすらと甘酸っぱい梅の花の香りが漂っていました。
久し振りの外出となった母は、次男の介添えで庭園内を回り、風景を気持ちよさそうに眺めていました。
昼食に、播磨の国の春魚である穴子の丼を頂きました。庭園を眺めながらの食事、贅沢な一時でした。

2015年3月4日水曜日

SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)とスマートフォンが、私たちにもたらしたもの

国内で、また凄惨な事件が起こりました。
十代から二十代そこそこの、ほとんどが未成年の遊び仲間の内側で、弱い者が、さらに弱い者を、いたぶり、殴り、晒し者にし、そして殺す、という事件が起こりました。
この事件においても、スマートフォンとLINEというSNSアプリが、事態を悪化させた様に思います。

LINEを使うと、簡単にグループの参加者だけの秘め事が可能になります。
そのグループの中で、どんなことが進行していようと、参加者の誰かが外に漏らさない限り、部外者にはわからない。
でも参加者が、加入するグループは一つとは限りません。ですから、あるグループ内の秘め事が、もしかしたら様々なグループに拡散している可能性だってあるのです。

ですから、LINE自体をマスタグループとするならば、LINEの秘め事は、部外者にはわからない。
でも、LINEを使う見ず知らずの者には、秘め事が簡単に洩れ伝わってしまう。

言い換えれば、
本当に知らなければならない人に伝わらず、
でも、得体の知らない誰かには、知らぬ間に知られてしまう
という事が起こるのです。

LINEは絆のツールと云われます。
絆とは本来、血の通った、温かいものであるはずです。
でも現在のLINEが絡む事件を見ると、それは絆ではなく冷酷な鎖です。LINEやスマホが、弱き人を奴隷部屋に繋ぎ止める鎖に見えてしまいます。

今回の事件では、LINEなどに呟かれた様々なSOSが、グループの外、大人達(学校の先生や、親、また警察など)には届かなかった。
外に漏らさない事が、LINEを利用する子供たちの掟になっていないかを危惧します。

さらに今回の事件では、個人を特定する情報や個人の大切な情報という保護しなればならない情報、決して表に出せない写真、出してはならない写真、もしかしたら存在してはならない写真などが、身勝手にLINEやTwitterで拡散されました。
こんな行為は、不幸の拡散でしかなく、悪辣でしかありません。

こんなにも幼稚で悪辣な行為が、いとも簡単に行えてしまうのが、SNSとスマートフォンの恐ろしさです。

科学技術は、これからもさらにめざましい進歩を遂げる事でしょう。それは商品化されて、良い面だけがどんどんと強調されて、私たちの生活をあっという間に一変させることでしょう。しかし、どんなものにも表裏がある。便利さ、面白さ、豊かさという好意の裏側には、もしかしたら途方もない悪意が隠れているかもしれない。
進歩の推進者は、いつも好意の面だけを取り上げて、悪意には目をつむる。自分たちは、まるで知らなかったとでも云うように、それは下々の問題と切り捨てるように、悪意に対する警告も、それを防ぐ手立ても、講じる事をしません。

悪いのは、悪意に染まった人間だけなのでしょうか?
私は、決してそうは思いません。
本来、弾じられるべきは、進歩の推進と同時に、悪意への手立てを講ずる事をしなかった推進派や商品化で巨額な収益を目論む企業、そしてなし崩し的に容認してきた大人であると思います。

自分たちが制御できないものは、使わない
原子力然り、スマートフォンやSNS然りです。

チャンスは掴むもの

「チャンスは掴むもの」という言葉があります。
先日、息子との何気ない会話の後、この言葉を思い出しました。

学校を卒業し、仕事が始まるまでの数週間を、友だちと寸暇を惜しんで遊びたい。
今しか思いっきり遊べないと、友だちに誘いをかけたり、誘いをまったり、
手持ち無沙汰な時は、何だかイライラしています。

友だちを待って時間を潰すより、もっと主体的に何かをしては?
今まで読まなかった本とか読んでみては?と勧めても、今はいい(しない)と答える始末。

息子は、これまで一つの事を(野球です)、真面目に一生懸命に取り組んできました。その過程で、しっかりとした心と強い体を育んできました。友だちも沢山できました。それらは、息子のこれからの歩みの強い支えとなってくれます。
でも、物足りない。それは、あまりにも自分の関心の無い事に無関心である事です。関心の幅を広げようとしない。それで
もっと様々な事に関心を示しては?と話しても、今はいいと答える始末。

でも、それでは駄目なんだと思います。
チャンス、という言葉があります。
チャンスはよく、「チャンスはどこにでも転がっている」とか、「宝くじ購入で10億円のチャンス!」というふうに使われますが・・・この用法は間違いだと思います。
チャンスは、誰にでも転がっているわけではなく、運試しではないのです。
チャンスとは、回りの自分への期待の高まり、もしくは自分を引き上げてくれる者(指導者であったり、上司であったり)の期待のまなざし、だと思います。

例えば、これから始まるプロ野球において
しっかりと準備をしてきたルーキーが、徐々に結果を積み上げて、
まさに大舞台で、勝利に大いに貢献できる場面でバッターボックスに向かう時
球場を埋め尽くすファンは、ルーキーのこれまでの活躍を踏まえて、勝利の一打を放つ事を期待します。それは大きな高まりとなって球場を埋め尽くします。
そこでルーキーが期待される一打を放てば、ファンの心をわしづかみにし、本物の大打者への一歩を踏み出すことができるのです。
しかし、もしルーキーが凡打に終われば、彼への期待はしぼみます。それが繰り返されれば、彼への期待は失われ、もはや二度と期待される事はありません。

ですからチャンスは、掴むものなんだ!と思います。

チャンスは、自分に向けられるものです。あたえられるものです。
ですから、常に沢山のチャンスに恵まれるように、準備をしなくてはならない。
様々な事に関心を持ち、知る努力、学ぶ努力、そして身に着ける努力をしなくてはならない。

そしてもう一つは、チャンスを逃してはならないです。
いくら他者が自分に期待をしても、それに気が付かなければ、元も子もないのです。
チャンスを、好機を一度逃せば、次巡ってくるのは至難なのです。

チャンスは
与えられる努力をしなければならない
到来を逃してはならない
そして
掴み取らなければならない

息子にも、そして息子の友だちにも、そうであって欲しいし、またそのために、いつまでも切磋琢磨して欲しいと思います。