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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年3月4日水曜日

チャンスは掴むもの

「チャンスは掴むもの」という言葉があります。
先日、息子との何気ない会話の後、この言葉を思い出しました。

学校を卒業し、仕事が始まるまでの数週間を、友だちと寸暇を惜しんで遊びたい。
今しか思いっきり遊べないと、友だちに誘いをかけたり、誘いをまったり、
手持ち無沙汰な時は、何だかイライラしています。

友だちを待って時間を潰すより、もっと主体的に何かをしては?
今まで読まなかった本とか読んでみては?と勧めても、今はいい(しない)と答える始末。

息子は、これまで一つの事を(野球です)、真面目に一生懸命に取り組んできました。その過程で、しっかりとした心と強い体を育んできました。友だちも沢山できました。それらは、息子のこれからの歩みの強い支えとなってくれます。
でも、物足りない。それは、あまりにも自分の関心の無い事に無関心である事です。関心の幅を広げようとしない。それで
もっと様々な事に関心を示しては?と話しても、今はいいと答える始末。

でも、それでは駄目なんだと思います。
チャンス、という言葉があります。
チャンスはよく、「チャンスはどこにでも転がっている」とか、「宝くじ購入で10億円のチャンス!」というふうに使われますが・・・この用法は間違いだと思います。
チャンスは、誰にでも転がっているわけではなく、運試しではないのです。
チャンスとは、回りの自分への期待の高まり、もしくは自分を引き上げてくれる者(指導者であったり、上司であったり)の期待のまなざし、だと思います。

例えば、これから始まるプロ野球において
しっかりと準備をしてきたルーキーが、徐々に結果を積み上げて、
まさに大舞台で、勝利に大いに貢献できる場面でバッターボックスに向かう時
球場を埋め尽くすファンは、ルーキーのこれまでの活躍を踏まえて、勝利の一打を放つ事を期待します。それは大きな高まりとなって球場を埋め尽くします。
そこでルーキーが期待される一打を放てば、ファンの心をわしづかみにし、本物の大打者への一歩を踏み出すことができるのです。
しかし、もしルーキーが凡打に終われば、彼への期待はしぼみます。それが繰り返されれば、彼への期待は失われ、もはや二度と期待される事はありません。

ですからチャンスは、掴むものなんだ!と思います。

チャンスは、自分に向けられるものです。あたえられるものです。
ですから、常に沢山のチャンスに恵まれるように、準備をしなくてはならない。
様々な事に関心を持ち、知る努力、学ぶ努力、そして身に着ける努力をしなくてはならない。

そしてもう一つは、チャンスを逃してはならないです。
いくら他者が自分に期待をしても、それに気が付かなければ、元も子もないのです。
チャンスを、好機を一度逃せば、次巡ってくるのは至難なのです。

チャンスは
与えられる努力をしなければならない
到来を逃してはならない
そして
掴み取らなければならない

息子にも、そして息子の友だちにも、そうであって欲しいし、またそのために、いつまでも切磋琢磨して欲しいと思います。

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