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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年3月4日水曜日

SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)とスマートフォンが、私たちにもたらしたもの

国内で、また凄惨な事件が起こりました。
十代から二十代そこそこの、ほとんどが未成年の遊び仲間の内側で、弱い者が、さらに弱い者を、いたぶり、殴り、晒し者にし、そして殺す、という事件が起こりました。
この事件においても、スマートフォンとLINEというSNSアプリが、事態を悪化させた様に思います。

LINEを使うと、簡単にグループの参加者だけの秘め事が可能になります。
そのグループの中で、どんなことが進行していようと、参加者の誰かが外に漏らさない限り、部外者にはわからない。
でも参加者が、加入するグループは一つとは限りません。ですから、あるグループ内の秘め事が、もしかしたら様々なグループに拡散している可能性だってあるのです。

ですから、LINE自体をマスタグループとするならば、LINEの秘め事は、部外者にはわからない。
でも、LINEを使う見ず知らずの者には、秘め事が簡単に洩れ伝わってしまう。

言い換えれば、
本当に知らなければならない人に伝わらず、
でも、得体の知らない誰かには、知らぬ間に知られてしまう
という事が起こるのです。

LINEは絆のツールと云われます。
絆とは本来、血の通った、温かいものであるはずです。
でも現在のLINEが絡む事件を見ると、それは絆ではなく冷酷な鎖です。LINEやスマホが、弱き人を奴隷部屋に繋ぎ止める鎖に見えてしまいます。

今回の事件では、LINEなどに呟かれた様々なSOSが、グループの外、大人達(学校の先生や、親、また警察など)には届かなかった。
外に漏らさない事が、LINEを利用する子供たちの掟になっていないかを危惧します。

さらに今回の事件では、個人を特定する情報や個人の大切な情報という保護しなればならない情報、決して表に出せない写真、出してはならない写真、もしかしたら存在してはならない写真などが、身勝手にLINEやTwitterで拡散されました。
こんな行為は、不幸の拡散でしかなく、悪辣でしかありません。

こんなにも幼稚で悪辣な行為が、いとも簡単に行えてしまうのが、SNSとスマートフォンの恐ろしさです。

科学技術は、これからもさらにめざましい進歩を遂げる事でしょう。それは商品化されて、良い面だけがどんどんと強調されて、私たちの生活をあっという間に一変させることでしょう。しかし、どんなものにも表裏がある。便利さ、面白さ、豊かさという好意の裏側には、もしかしたら途方もない悪意が隠れているかもしれない。
進歩の推進者は、いつも好意の面だけを取り上げて、悪意には目をつむる。自分たちは、まるで知らなかったとでも云うように、それは下々の問題と切り捨てるように、悪意に対する警告も、それを防ぐ手立ても、講じる事をしません。

悪いのは、悪意に染まった人間だけなのでしょうか?
私は、決してそうは思いません。
本来、弾じられるべきは、進歩の推進と同時に、悪意への手立てを講ずる事をしなかった推進派や商品化で巨額な収益を目論む企業、そしてなし崩し的に容認してきた大人であると思います。

自分たちが制御できないものは、使わない
原子力然り、スマートフォンやSNS然りです。

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