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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2023年9月21日木曜日

忖度について

2017年にユーキャン新語・流行年間大賞に「インスタ映え」とともに選ばれた「忖度」という言葉は、中国を起源とする外来語です。

古代中国では、「忖度」という漢語は、臣下のこころ(おもわくとその正邪)を推し量るという君主の行為を意味した様です。中国の最も古い詩編といわれる「詩経」に、「忖度」が使われた詩があります。「巧言」という詩です。

※崔浩先生の「元ネタとしての『詩経』」講座というWEBサイトを見つけました。勉強になりました。

目次のページ

https://kakuyomu.jp/works/1177354054918856069

小雅 節南山之什 巧言のページ

https://kakuyomu.jp/works/1177354054918856069/episodes/16816452219010136111

この詩は、『西周国は、最後の君主となった幽王が暗愚であったために臣下の巧言や讒言に惑わされ、国は乱れ、ついには幽王は殺されて国は滅んだ。「他人有心 予忖度之」、臣下のこころを推し量ることの出来る賢い君主であれば、巧言や讒言に惑わされることなく、邪悪な者が国に蔓延ることを許さず、この地から一掃したことであろう。』という主旨の事柄が読まれている様子です。

私はこの詩を読んで、君主が利己に陥れば国を滅ぼし、利他に心を配れれば国を安寧に導くことができる、という戒めを理解しました。そして「忖度」は君主の慈愛の心の行為であると理解しました。


では、2017年以降、流行語となった日本語の「忖度」はどの様に使われているでしょうか。

権力者の政治家に忖度して、公文書を偽装し、改ざんし、廃棄した官吏からは、利己主義、あるいは保身を理解します。

最近また、「抗えぬ空気に忖度した」という用法を耳にしましたが、立場の非常に弱いものが己を守る、己の将来を守るという、厳しい言い方をすれば、利己主義、保身を理解します。

愛知淑徳大学の名誉教授である山下啓介教授が2019年に公開された「漢語の流行-忖度-」という論文を見つけました。この論文のある行に目が留まりました。

※愛知淑徳大学 知のアーカイブ リポジトリ(ASKA R)

https://aska-r.repo.nii.ac.jp/

検索欄に「忖度」と入力し検索ボタンを押すと、該当論文が表示されます。ここからPDF形式で保存された論文をダウンロードする事が出来ます。

以下、引用させて頂きます。「5.流行現象-メディアの背景」の一部分です。

『寛政異学の禁を発令した幕府の意向を忖度して藩校に朱子学者を用いる藩もあった、と。(中略)そこでとりわけ上下関係の厳しい武家では、上を忖度し下に忖度させる社会が出来上がっていたと思われる。』

『上を忖度し下に忖度させる社会という、それを忖度社会と断じ、ここで知るところは、上が下を忖度する、そして、上を忖度し、下に忖度させる社会の行いとして、忖度する行為者が儒学を実行する、実行させることで、支配構造が二重になるということである。双方向で支配者が支配する社会になることにあったと述べている。』

忠義、忠誠といえば聞こえが良いが、お上に逆らえない社会。主君に逆らえない社会、上司に逆らえない社会という封建社会で、「忖度」は上手く立ち回る為の利己主義、あるいは保身の心得であったのだと理解します。

現代の日本はまがいなりにもデモクラシーを標榜している国です。自由、人権、平等が謳われる国ですが、この「忖度」という用法には、封建社会が生み出した、空気の様な曖昧模糊で誰も責任を取らない支配構造が現在もこの国を支配し続けていることを実感してしまいます。


先日9月11日に、BSシネマズでは映画『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』という9.11同時多発テロで父を失った少年の、心の傷を癒やす為の、心の旅を描いた映画が放送されました。私は以前この映画の感想をこのブログに投稿しました。

※映画『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を観ました。

https://harimanokuni2007.blogspot.com/2013/11/blog-post_27.html

改めて映画の感想を読み返してみて、少年の母の行為に、漢語の「忖度」の意味に限りなく近い、慈愛、慈しみを感じ取りました。

こういう行為を、私たち一人一人が行えれば、今、この日本にはびこる殺伐さや息苦しさに、苦しむ多くの人々を救えるのではないかと思います。 

2023年9月19日火曜日

「ボクと自由と国安法と -香港 600時間の映像記録-」視聴メモ

ドキュメンタリー番組「ボクと自由と国安法と -香港 600時間の映像記録-」を見ながら視聴メモを取りました。

香港人報道カメラマン クレ・カオルは、『自由であることは罪なのか』という不条理な自らの問い掛けの答を見つけるために、ロシアによる侵略戦争が始まったウクライナに向かった。

番組冒頭、昼間のウクライナ兵との行軍中にロシア軍から攻撃を受けた。砲弾が目の前で炸裂し、各々が地面に身を伏せるシーン。空はどこまでも青く雲は真っ白に浮かんでいるのに、地上は砂埃にまみれ、傷ついた兵士は痛みをこらえて戦い続けている。自分たちの民主と自由の権利を奪われないために。

自由を求めることは罪なのか

ウクライナ戦争が始まって、一年半、ウクライナで取材を続けている。危険な目にも何度もあった。でもボクには自由のために闘う人を取材する理由がある。

カオルさんは、ウクライナの取材の合間に度々日本を訪れ、取材をもとに講演会を開いている。香港にたくさんの外国の記者が来て、香港を助けるとは言わないが、取り上げてくれた。世界の人々は、そのおかげで、香港のことを知った。

講演会で彼が必ず話すのは、ふるさと・香港での経験だ。

「自由って、闘わないと手には入らないもの」ということを改めて認識した。自由って、一人一人が主張しなければ、あっという間になくなっちゃう

カオルさんは、香港を脱出するまでの四年間に映像で記録した600時間にも及ぶ未発表映像をNHKのスタッフに託した。

2019年から2021年までの香港が、いつか忘れ去られてしまうので、世界中の人に真実を知ってほしい。知ってくれれば、それでいいです。香港人が最後まで闘った記録です。


僕たちは港猪(香港の豚)と呼ばれていた。僕たち若者は、ずっと豚と呼ばれてきた。平和ぼけして政治に無関心、食べる事にしか興味のない豚。

僕は大学で遺伝子の研究をしていた。今思えば、あの時間はかけがえのないものだった。

僕たちが立ち上がり、声を上げたのは四年前(2019年)

自由のために闘い収監された香港にいる容疑者を、中国に引き渡せるようにする条例改正案への抗議デモです。改正案は取り下げられたが、「中国化」の強まりに対する抗議活動へ発展した。

No China Extradition

光復香港 時代革命(香港を取り戻せ 時代の革命だ)

2019年6月17日 香港200万人デモ

200万人もの香港人が集まる光景に胸が熱くなり、ボクは研究の道を離れ、報道カメラマンになった。香港では、デモは権利として認められてきた。声を上げれは、思いは届くと思っていた。でも、催涙弾、度重なる(治安維持と称した警察権力の)暴力、力ずくで押さえ込まれた。実弾も使われた。行方がわからなくなった市民たちもいた。

次第に、香港から自由は無くなっていった

♪頭を上げ 沈黙を破り 叫べ

自由を手に ここに集え

なぜ この恐怖は 消えないのか


人が集まっただけなのに(警告し、全員を拘束した)

それでも私たち香港人は、五大要求を一つも譲らない

ありのままの現実を撮ろうとしただけなのに(職務質問を受け身分を照会された)


♪夜明けだ

取り戻せ 私たちの香港を

皆で 正義のため 時代の革命を


かつてデモで歌われていたこの曲(歌)も、歌えなくなった。そして、抵抗する人は街から消えた。香港の、ボクたちのすべてが変わったのは、あの法律ができてから

国安法

香港には言い伝えがある。悲しい歴史が起きるときには雨が降る。

2021年6月、香港北西部にある刑務所から、一人の若者が刑期を終えて出所した。日本でも知られる民主活動家の周庭さん。彼女が何を話すのか、ボクたちは期待していた。でも問いかけには、何一つ応えなかった。

2020年6月、かつて周庭さんは、ボクたちの気持ちを代弁してくれた。

『一つ言いたい。これからどんどん辛くなるかも知れませんが、香港の民主主義、そして自由のために闘っていきたい。最後まで 絶対に 沈黙しない』それが彼女の信念だった。

周庭さんまで沈黙させたのは、あの法律、香港国家安全維持法(国安法)。施行された日にも、雨が降っていた。

1997年にイギリスから返還された香港

中国本土とは異なる法律のもと、高度な自治も認められ、集会や言論の自由が保障されてきました。

2020年6月、香港の相次ぐ民主化運動を受け、中国の習近平指導部が導入したのが香港国家安全維持法。いわゆる国安法でした。政府へと抗議活動などを取り締まることで、香港を安定させる、としています。

取り締まりの対象は「国の分裂」や「政権の転覆」「外国勢力と結託して国家の安全に危害を加える行為」などで、最高刑は無期懲役です。警察には国安法違反を市民が通報できる「専用窓口」が設置され、密告が奨励されています。

街の空気は一変した

市民は些細なことでも、国安法を口にするようになった。国際大会で、香港の何詩蓓選手がメダルを取った時も、

水泳の後、中国の愛護団体が、なぜか二人(中国の)国旗を振っています。そこに、ひとりの市民が近づいた瞬間、飛び交ったのは、またあの言葉

『動くな!旗に触れるな!国安法違反になるぞ!こいつ頭がどうかしている、刑務所に入るべきだ!』


歌も、思うように歌えなくなった。


♪「香港に栄光あれ」

なぜこの恐怖は 消えないのか

なぜ信じて 諦めないのか

なぜ血を流しても 進み叫ぶのか

香港に自由と栄光を


デモの時、みんなで歌ったこの曲、ボクたちを何度も勇気づけてくれた。自由を求める香港人の切なる思い知ってほしいと、世界に向けて発信もした。今は誰も歌はなくなった。逮捕されるのが怖いから。国安法は、何が罪になるのかわからない。

警察の締め付けは日に日に厳しくなっていった。

この日は、デモで亡くなった市民を追悼する日。警察は感染防止を理由に、人が集まるだけで尋問した。この頃、一日の新規感染者数は一人か二人だったのに。

法令違反と見なされると(集会禁止措置 違反過料)七万円(当日)

『捕まってしまった。あそこで歩いている途中、連行された。立ち止まっていない。デモのスローガンを叫んでもいなかったのに』

警察は花(献花)があれば回収し、祈っている人がいれば尋問した。

『目をつぶって祈ろうとしたら拘束された。一体、何が起こっているの。故人を悼むのも悪いの。花はゴミだって言われた。すごく無力感がある』

市民はどんどん萎縮していった。みんなが集まって声を上げることは、香港ではもう出来なくなった。

身動きが取れる最後の砦はボクたちメディアだけ

この時までは、まだ報道の自由は保たれていた。

2021年6月17日、国安法から一年、恐れていたことが起きた。中国に批判的な論調で知られる、大手紙「リンゴ日報」の幹部五人が逮捕された。警察は過去の記事などを通じて、国家の安全に危害を加えた国安法の疑いがあるとした。会社の資産が凍結されるなどして「リンゴ日報」は発行停止に追い込まれた。リンゴ日報の存在はボクたちメディアの希望だった。

今日は最悪の天気の中、最終号を発売する日となってしまいました。これまで公開されることのなかった、編集現場、この日は入ることができた。

『報道の自由はありません。今日、私たちが最終号を終わらせたら、香港の未来は見えません。とても失望して、怒りを感じています』

最終号表題「香港人 雨の中 痛恨の別れ リンゴを支持する」

香港が香港であるために、新聞社の最後の抵抗だった。

屋上から見た光景は、忘れられないものとなった。

(リンゴ日報への感謝と香港人へのエールが街にこだまする光景)

そこにもまた(警察が大挙して現れ)

『今すぐ移動しなさい。駐車違反だ。警告する。ウイルスを広める恐れがあり、法令違反だ。』

さようなら(報道の自由、そしてリンゴ日報)


外にでると、雨は止んでいた。ネットメディア記者のアラン・キョンさんに出会い、一言お願いした。

『ずっと真実を守ってくれて有り難う。心から感謝です。リンゴ日報の存在があったから、私も自分のメディアを立ち上げました。みな同じ道を歩んでいます』

大手メディアへの締め付けが厳しくなるなか、小さなネットメディアはまだ活動を続けられていた。

『こんなに警察がいるの、大げさだね。なんでここを撮影に来た?もし権力乱用とか、おかしな事があったら、撮らないといけないから』

実はアランさん、本業はキリスト教の牧師

『聖なる父が汝に与えんとする愛をお見せになり、われらの命を照らすことに感謝します』

これから、とう生きればいいのか、教会には悩める若者たちが集まっていた。

自分が信じる道を行くべき

アランさんは自らの行動で、若者に伝えようとしていた。

『確かに今、香港人は沈んでいますが、まだ諦めてはいません。分かりやすいゴールや何をしたらいいのかを見失っているだけです。街に出ると決めた(抗議活動に参加すると決めた)当時の初心を忘れそうになったとしても、あの血と涙の物語は、魂の光として持ち続けていくのです。』

いつもみんなを奮い立たせてくれるアランさん。でも、街の人々はそんなに強くなかった。

香港に残る仲間たちの中には鬱になる人が増えていた。かつてデモに参加していた彼は、鬱々とした気持ちをアート作品で表現していた。

『何かを掃き出したい。大声で叫びたい。だしきってしまいたいという衝動。皆、生活の中で政治について考えたくないと思っています。疲れているからです。人生を諦めたいわけではない。でも悲しいことに、自殺を選ぶ人もいます』

生きづらさを感じ、香港を離れる人もいた

香港市民の海外移住は一年間で約九万人(2020年7月から2021年6月の推定値)

ボクが信頼を寄せる仲間も決心していた。報道カメラマンのサンさん。家族でロンドンに移住することに。

『決め手は子供。(移住を決心した理由は)学校で中国への愛国心を高める教育が始まったから』

※香港行政長官『私は愛国主義教育を進め、国を愛する精神を育て、若者の価値観をただしていきます。』

『香港を離れるつもりはなかったし、絶対ありえないと思っていた。決心はたやすい事じゃなかった。家族もいるから、当然、香港を離れたくなかった。でも子供の将来があるから仕方ない。このカメラで、たくさんの事実を見てきたよ。真実を見た。そのすべては、このカメラと頭の中に残っている。忘れることなんかできない。』

香港に残るのか、香港を離れるのか

遂に、小さなネットメディアも活動を制限される事になった。法令違反を理由に、メディアにまで尋問を繰り返すようになった。

拘束を恐れるメディアの中で、アランさんは違った。警察の前でも怯むことはなかった。

『人との間隔は1.5メートルを保っているのに、警察から「保っていない」と言われた。「あなたは今メディアの仕事をしていない」と言われて違反切符を切られました。』

教会に戻ると、アランさんに知らせが届いていた。香港警察から、集会禁止措置(違反)だ、過料の支払い命令を裁判官に申請します。過料額の合計は13000香港ドル(当時で約20万円)。もう一通あった。『私の発言を抑え込むつもりか』別件の容疑がかけられたら為、アランさんは出頭する事にした。

緊張してますか?

『していません。逮捕するならすればいい。』

アランさんは後日「公務執行妨害」の容疑で起訴されることが決まった。

拘留が決まっても、最後までゆるがなかった。

『有罪になる境界線が分からない。政府が一言「起訴する」と言えば、起訴ができてしまうのです。私はその時、記者をしていただけなんです。皆さん、何か悪いことが起きても怖がらないで。怖がると、彼らの罠にはまることになります。恐怖の連鎖は、私で止めて見せます。』


2021年10月1日 中華人民共和国 建国日


中国国歌(義勇軍行進曲)

起て!奴隷になりたくたい人々よ!

我らの血肉で、我らの新たな長城を築こう!

我ら民衆が心を一つにし

敵の砲火を冒して前進しよう!

前進!前進!


(街では中国国歌が歌われ)中国の国旗が至る所に在ります。向こうで誰かが国旗を降っていますね。子どもたちか国旗を振っています。思えば ちょっと前の国慶節(建国記念日)では街に人があふれて、中国に抗議をしていたけれども、誰も出歩きません。

声を上げる仲間も報道する仲間もいなくなった。

(警察署の前で報道のための撮影をおこなっていたのは)この日はボクひとりだった。訊問された。

自由を求めることは罪なのか

仲間の女性と、中島みゆきの「糸」を歌った。

僕にはもうどうすることも出来なかった。絶望というよりも居づらい。息苦しい。これ以上、何が言えるのかって、悩んだ時期もあって

光復香港

これが最後の落ちこぼれるところ 香港の(市街か一望できる港の公園で、変わらぬ香港の夜景を観ながら)ボクは決めた。ボクは香港を離れる。

2021年10月7日、空港へ向かっています。いい天気ですね、今日は。

いよいよ香港空港に着きました。これから香港を出ます。自由が失われていく香港を共に生きてきた仲間たち(見送りに来てくれた、お別れをした。)

(旅客機に乗り込んだ。)知り合いのカメラマンが、香港を離陸するまでは危険だと言っていたので、今まさに、その離陸する前の瞬間になってきてしまいました。

(離陸した旅客機の窓を覗き見)香港だ。かって自由の街と呼ばれていた香港なんだけど、雨だから、一瞬で見えなくなってしまいましたね。バイバイ香港

悲しい歴史が 起きるときには 雨が降る

この日ぐらいは、晴れで欲しかった。息苦しい日々は今日で終わり。

香港から9000キロメートル離れていて、ここまで来れば、もう安全でしょう。と云うことでいまから自己紹介致します。

改めまして、はじめまして、香港人報道カメラマン、カオルです。このままでは香港では出来る事は限られていると思って、香港を去ることを決意したんですけど。だからといって、香港人という身分(立場)を放棄したというわけではありません。香港を離れた後でも、香港人としてふるさとのために出来る事をしていきたいと、今この時間を借りて決意を表したいと思っています。

チェコ、プラハにて

こちらプラハの街の片隅に、なんと香港人がここで「私たちの場所」という支援場所を作りました。ボクは海外で暮らす香港人が、どう生きているのか、各地を訪ねて回った。

ジョン・レノンが亡くなった時に民衆が彼を悼んで作った落書きの壁で、「光復香港 時代革命」(香港を取り戻せ 時代の革命だ)の落書きもあります。香港では失われてしまった自由(自由な言論)がここにはあった。

なぜ守れなかったのか、どうすれば取り戻すことが出来るのか。

ボクはその答えを求めてウクライナに向かった。理不尽に自由が脅かされている現実は、他人事に思えなかった。自由のために戦い続けているウクライナの人々、その姿をまじかに取材して、一つの答えに辿り着いた。

『自由って闘わないと、手には入らないものだと改めて認識しました。自由って一人一人が主張しなければ、あっという間に無くなっちゃう。ウクライナに行って、こんな状況でも闘っている人たちの姿を見て、一人一人が無力じゃないこと、それを実感しました。香港も、まだまだ希望があるなって思いました。』

自由を求めることは罪。そんなことあるか

ウクライナの地で、ボクはあの曲を歌った


まだ怒りに震えるのか

頭を上げ 沈黙を破り 叫べ

自由を手に ここに集え

夜明けだ 取り戻せ 私たちの香港を

皆で正義のため 時代の革命を

どうか民主と自由が 永遠であれ

香港に 栄光あれ


夜明けだ 取り戻せ 私たちの香港を

皆で正義のため 時代の革命を

どうか民主と自由が 永遠であれ

香港に栄光あれ


ボクは今 自由です。


香港国家安全維持法(国安法)は

海外での活動や外国人も

取り締まりの対象となっている

これまでに逮捕されているのは約260名(2023年6月時点)


ボクには連絡を取りたい人がいた。拘留されたアランさん。香港にいないらしい。5ヶ月の刑期を終え、香港を離れていた。

アランさんからメッセージが届いた。

『心のストレスが、大きくなった。ある種の窒息する気分である。今は台湾にいる。ここで香港のために、何が出来るのか考えたい』 

寛容について

18世紀のフランスで文筆家として活躍していたヴォルテールは、ある凄惨な冤罪事件「カラス事件」の事を知り、冤罪で離散したカラス家の名誉回復に尽力しました。
18世紀のヨーロッパ諸国は、宗教対立、他宗教への不寛容が招いた何百年にも及ぶ宗教戦争を経て、寛容であることが国の発展に繋がることに気付き、信仰の自由が認められるようになっていました。しかしフランスでは、イギリス発祥のプロテスタントへの嫌悪感が、地方になるほどいまだ根深く、それが「カラス事件」を生み出す原因となっていました。
ヴォルテールは、この「カラス事件」を経て、フランス国民に「寛容論」を説きました。
寛容である事、つまり、考えが違ったり、信ずる信仰が違っても、そしてたとえ過去にいさかいがあったとしても、お互いを許し、認めることが、フランス人を文化的に高め、フランスが文明国として発展していく肝であると説きました。

※ちなみに、私は光文社古典新訳文庫で「寛容論」を読みました。カラス事件の真相を明らかにし、カラス家の名誉回復に尽力するヴォルテールの活躍が、まるで現代のヒューマンドラマの様なタッチで描かれていたので、とても読みやすかったです。理解もよく進みました。

ここからが本題です。
9月10日(日)、BS1で「ボクと自由と国安法と -香港 600時間の映像記録-」というタイトルのドキュメンタリーが放送されました。
ウクライナ戦争が始まってすぐでしょうか、日本の情報番組で、ウクライナの現状を現地からリポートをしてくれる日本語の堪能な香港人報道カメラマンがいましたが、それが、今回のドキュメンタリーの主人公カオルさんでした。

ドキュメンタリーは、2019年に香港全土で起こった「中国化」への抗議活動に始まり、その抗議活動を同じ香港人の官憲が弾圧、そして2020年6月30日に中国の習近平指導部が導入した香港国家安全維持法(国安法)によって香港人は沈黙を余儀なくされ、香港人に保障されていた筈の言論の自由、報道の自由が完全に葬られるまでが、カオルさんの肉声と彼が撮影した映像で、時系列に綴られていました。

私は2019年から始まり、2021年10月にカオルさんが香港を脱出するまでの間、ずっと眼を見張り、口は開いたままになっていました。香港人の民主と自由が踏みにじられ、強い団結で結ばれていた筈の香港人が、沈黙し不寛容になっていく様が、これ以上ないほどに恐ろしかったからです。

カオルさんが、このドキュメンタリーに込められたのは、「自由を求めることは罪なのか」という不条理への問い掛けでした。そしてもう一つ希望されたのは、香港で起こった事実を、いつか葬られてしまうかもしれない事実を、一人でも多くの人に、知ってほしいということでした。

私は、中国人に対して、実は悪い印象を持っていません。ずっと若い頃、ウェリントンの街角で道に迷って困っていたところを、声をかけてくれて、英会話のおぼつかない私にジェスチャーを交えて親切に道を教えてくれたのが、中国人の青年であったのです。1991年のことです。
また最近のことですが、友だちや家族と一緒に日本を旅行して回っている中国人は、よく言われる爆買いというイメージからは程遠い、洗練した印象さえ受けます。
しかし、天安門事件から始まり、過激な反日デモ、まがい物から危険物まで何でも金に換えてしまう、そして最近の力による現状変更、そんな横暴な中国も、また中国から受ける印象となりました。
平和呆けしていた日本人である私は、世界第2位の経済大国に発展し、先端科学立国としても勇となった中国は、その大国の身分にふさしい振る舞いとして、他国に対して寛容な国に進化することで、中国は、中国の指導者がきっと欲しているであろう、他国からの称賛と尊敬と信頼を得ることになるだろうに、と思います。

中国は、香港を喰らい、次には台湾を喰らおうとしています。国内問題であるから他国は干渉するなと中国は警告しますが、国内問題とするところから歴史の歪曲ではないか、と私は思います。
香港は1898年に不平等条約とはいえ、イギリスが清朝政府から99年間租借した土地です。台湾(中華民国)は1911年に辛亥革命によって清を倒し、1912年に中国大陸に建国された国です。そして現在の中国(中華人民共和国)は、日中戦争後に勃発した内戦(国共戦争)で毛沢東率いる共産党軍が、蒋介石率いる国民党軍を台湾に追いやって、1946年に中国大陸に建国されたもっとも若い国と言えます。イギリスが香港を、アメリカが台湾を見放さず、民主国家の一員として迎えていたならば、この二つの国が、こんなに早くに存亡の危機を迎えることは無かったのではと思います。

最後に、私は中国に警告したい。
もし中国が、人権も自由も踏みにじりながら、万一地球の覇権国家となったとしても、不寛容さが内部に疑心暗鬼を次々に生み出して、発展どころか、自滅の道を進むことになるでしょう。
決してデモクラシーは人類を平和に導く唯一の手段ではないかもしれません。アメリカや欧州の先進国と呼ばれるデモクラシーを標榜する国も、様々な問題をその腹の中に抱え、国民は苦しんでいます。しかしデモクラシーは、国民の寛容さの裏打ちがあって成されるものであり、デモクラシーが幾分でも機能している国家の国民は、寛容な国民と言えるでしょう。
寛容な国民を有する国には、将来の成長や発展という希望があります。
中国には、ロシアの轍を踏まず、これ以上の一線を越えずに、寛容さに立ち戻って、本当に世界から信頼される立派な国へと歩んでほしいと思います。
心から願います。