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不寛容にもほどがある!

現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤...

2015年10月30日金曜日

絵本「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」を朗読しました。

南米の国ウルグアイ、ムヒカ大統領の素晴らしいスピーチが、
くさばよしみさん編の訳文と
中川学さんの絵で
心に染みます。

素晴らしい本です。
どうぞ本を手に取り、人間愛に満ちたスピーチを堪能して下さい。

この朗読が、この絵本を手に取ることに、一分でも貢献できれば幸いです。




2015年10月29日木曜日

「小学校でスマホ教室」の記事を読んで

スマートフォンが絡んだ、いじめ暴力や性暴力が後を絶たない事態となっています。
それに対して、国や地方自治体が重い腰を上げて、ある取り組みを始めたようです。

それは「小学校でスマホ教室」です。
子供たちが、いじめや性被害の犠牲者に(また加害者にも)ならないようにと”正しい使い方”を指導するという取り組みです。
しかし、何が正しい使い方なのでしょうか?
そして、誰が正しい使い方を指導できるのでしょうか?
大いに疑問です。
また、スマートフォン有りきで話が進んでいることも
大いに大いに疑問です。

一昔前までは、「学校に携帯電話は持って来るな!」が常識でした。それがいつの間にかうやむやとなって、学校からの通信や部活の連絡を電子メールやLINEなどのSNSで行う事が日常茶飯事となりました。
・性分として使わない人がいます。
・機械音痴で使えない人がいます。
・月々の利用料が不明瞭で高くて使わない、使えない人がいます。
そんな少数派(マイノリティ)の事はお構いなしに、どんどんと大勢に迎合してしまっている様に思います。また、昨今の教育も学校も、どんどんとITを活用して、変わらなければいけない、効率良く運営しなければいけない、という風潮が否応なしの導入を加速させているようにも思います。

そして、何が正しい使い方なのでしょうか?
LINEにしても、オンラインゲームにしても、まだほんの子供が誰に指南されなくても、直ぐに遊ぶ事が出来るほど操作が容易に作られています。
しかし問題は初期設定です。初期設定を変更するのがとても至難なのです。LINEにしてもオンラインゲームにしても設定を変える事で安全性を高めることができるのですが、初期設定はほとんどの場合安全性が考慮されていないというのが実態だと思います。ソフトに精通しているとか十分に分別がある人であれば、あるいはそのまま使っても問題は無いかと思いますが、そうでなければまた子供であればあるほど初期設定のまま使い続けるのは、大きなリスクを伴います。

・匿名であったり別の誰かになって遊ぶことができます。
・見ず知らずの人と簡単に親しくなれます。
・写真や動画を簡単に共有できます。
・普段なら出来ない事や言えない事が、簡単にできます。
これがネットで遊ぶ面白さや魅力の本質です。

これが大きなリスクを呼び込みます。
ですが、この面白さや魅力に一度でも虜になれば、麻薬と同じです。「魅惑」は早晩「強迫」に変わります。そして心身共に疲弊させてしまうのです。
そして、学校で一時間「このように使いなさい」、「このように使ってはいけません」といくら説明したところで、もうすでに面白さや魅力に虜になってしまっていたら馬耳東風です。聞く耳がありません。それが自明だと思います。

この様な問題が顕著化してくると、有識者会議などという諮問会議が開かれますが、
・まず実態を調査して
・何が原因かを話し合い
・提言する
と時間と金ばかり浪費して、まったく役に立ちません。
有識者には、危機感も想像力もないからです。
先だって行われた諮問会議が出した提言は、通信会社やソフト会社に「対策を講じよ」というものでした。これも馬耳東風です。聞く耳がありません。

ならスマートフォンがらみの事件から、どうやって自衛するか生徒を守るかですが、てきめんなのは、学校での無線通信を一切できなくする事です。電波を遮断するのです。
これならば、もし隠れて持っていたとしても使えません。当然、先生も学校では使えません。子供たちのお手本にならなければいけないからです。
これほどのことでもやらなければ、対抗できない事態に陥っていることを理解しなければいけないと思います。

そして社会の取り組みとして、
無線通信ができない区域を設ける事です。そこでは一切携帯電話やスマートフォンなどのモバイル端末の使用を禁止するのです。公園とか、図書館とか、病院とか、人々が集う公共の空間を安全地帯にすることです。この様な取り組みは、すでにドイツなどのヨーロッパ諸国では行われています。

社会はスマートフォンを持っている人だけで構成されているのではありません。
スマートフォンを持たない人、スマートフォンから逃げたい人の権利と安全も守らなければいけません。
子供たちには、まずこの事を納得し、社会の一員として守って欲しいと思います。

近くてとても遠い存在

満月の光が照らす道を、連中4人でとぼとぼと歩きました。向かったのは、おばちゃんが亡くなった連中の家です。
おばちゃんと対面するのは、もしかしたら十年から経っていたかもしれません。
白無垢の布団に眠るおばちゃんは、とても小さく見えました。
小さなお顔には薄化粧がされ、とても高齢とは思えないほど、また長く闘病されていたとは思えないほど、安らかで可愛らしい寝顔でした。

連中とは言ってもいつも会っているわけでなく、今では祭りを除いたら一年に一度会うかどうかの連中もいます。おばちゃんならなおさらです。
ですから、おばちゃんの面影として映るのは、もう何十年も前、しゃきしゃきとした話し振りの若々しいお姿です。私ら連中が、いつもほたえあっていた時代の頃です。

同じ町に住んでいたというのに、近くてとても遠い存在になっていました。
おばちゃんのご冥福を、心からお祈りします。

2015年10月27日火曜日

「躾が出来ていない」事の考察

私の子供は、躾が全く出来ていない。
躾が全く出来ていないのは、私が躾をちゃんと指導出来ていないからだ。
躾をちゃんと指導出来ないのは、私がちゃんした躾が出来ていないからだ。

でも、私がちゃんした躾が出来ていないからといって、
子供に躾を指導できない理由にはならない。
ただ、やらなかったと言う事なのだと思う。
何もさせなかったりとか、
先回りして、する必要を与えなかったりとか、
でも一番は、本当に大切な事に私が気が付かなかったからだと思う。

でも、躾を身に付けるのに、遅い早いはない。
「マイフェアレディ」の例がある。
大事な事は、躾が如何に人間としての素養を高めてくれるものであるかに気付くことだ。
そのためには、
愚直に
目に付いたとき、直ぐに指導を入れる。
出来るまで、やはり直ぐに指導を入れる。
と同時に
何故に躾が(美しい所作が)、出来なければいけないか、指導する者も学び続けなければいけないし
また指導する者も、いつも出来る様に修練し続けなければいけないのだと思う。

だから、子供たちへ
一緒に躾を、美しい所作を身に着ける努力をしようではないか。

世界一貧しい国・・・それはニッポン!?

先日、図書館で「貧しい国」で検索したらヒットした
谷本真由美著「日本が世界一『貧しい』国である件について」というエッセーを読んでいます。
著者は、日本と欧米を股に掛けて最先端ビジネスであるIT関連のコンサルティングに従事し、欧米のビジネス慣習にも欧米人の世界観(そして日本感)にも日々触れているからでしょうか、著者が指摘する「現代日本の様々な不条理な事柄」の羅列は、シビアで端的で、そしてとても的を射たものでした。

特にシビアな指摘の的となっているのが、日本で働く労働者に課せられるイデオロギーです。

著者は、労働とは
あくまでも自分の時間や体力や知力を相手に「販売」し、「対価」としてお金を受け取る「活動」に過ぎません。働いた分の報酬を貰うという「取引」なのです。
と定義をします。
そして世界のどこに出て行っても働ける人になるためには、
・プロフェッショナルに仕事ができること、
・人生観(哲学)があること、
・道義的に行動できること、
だと指摘します。

しかし、翻って日本の労働概念は
「労働者を犠牲にした、企業の繁栄(国の繁栄)」だと指摘します。
この本の中で「社蓄」という単語をはじめて目にしましたが、この言葉が意味する事は「人権蹂躙」です。現代の日本は人権蹂躙がまかりとおる社会に成り果ててしまっているという指摘です。
しかし、著者の非難は労働者へも向けられます。
・何故に自分の生命や家庭を守るために、訴えないのか?
・労働環境を正すために立ち上がらないのか?
そして
・何故にプロフェッショナルになろうとしないのか?
・何故に道義を踏み外すのか?
と指摘します。

沢山の指摘は、正さなければいけないものばかりです。
そして特に次の二つは不条理の極みで、今すぐにでも正さなければいけない事柄です。

「日本の『お客様』の中には、払った費用以上のサービスを要求する人が少なくありません。会社や店を経営する側は、それに応えるために、従業員に無理な労働を要求します。
(中略)
外国の人からすると、なぜ日本の『お客様』はあんなに無礼でも許されて、働く方や経営者は文句を言わないのか、となるわけです。働く方は守られない仕組みとなっているのです。」(P75 ニッポン人の働き方はこんなにおかしい)

「会社の人や近所の人にはバカ丁寧だが、レストランの店員や宅配便の配達員には信じられないぐらい横柄な父親」(P157 第四章文明未開の国-本当に「貧困」な日本社会)

日本では今、「クールジャパン!」だとか「(外国人を使って)日本のすごいところを自分達で褒めまくる」という番組がもてはやされています。
しかし、著者はP78ページで
「確かに日本のサービスや製品は精巧で繊細です。でも日本で実際に働いた人達は、
『あそこじゃお客になるのはいいけど、働くもんじゃないよ』と口コミで『日本の労働実態』をさまざまな人に伝えているのです。」
これこそが世界の人々の今の日本感、日本人感なのだろうと思います。

働き手を蔑ろにする会社は、国は、社会は、良い働き手を呼び込めず、良い働き手を育てられず、また、良い働き手の流出を止める事ができず、早晩衰退するのだろうと思います。
日本の会社や国はその衰退の道をひたひたと歩んでいる様に思います。
それにあらがうために、私たち一般市民でもすぐにできることがあります。それは「おもてなしの心」に対する「節度の心(求めすぎない)」と「感謝の心」をいつも忘れないということです。
私たち一人一人が、「提供する側」そして「提供を受ける側」の二つの面を持っています。「おもてなしの心」と「節度の心」「感謝の心」は表裏一体です。それが実践できた社会こそ、きっと人に優しい社会なのだと思います。

すぐに会社が変わらなくても、国が変わらなくても、私たちの行動が一つ変わるだけで、社会を一つ良い方向に向けることができるのだと思います。
そして日本を、「本当の豊かな国」へ向かわせられることもできるのかもしれないと思います。