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不寛容にもほどがある!

現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤...

2024年5月17日金曜日

パックス・ヒュマーナ

 NHK BSで先日放送された『パックス・ヒュマーナ~平和という”奇跡”』というドキュメンタリー番組を観ました。『平和という”奇跡”』の物語を、佐々木蔵之介さんが南イタリアで、濱田岳さんがルワンダで、辿りました。


佐々木蔵之介さんが辿ったのは、『フェデリーコ二世の十字軍』の物語です。


番組を観終わった後に、『フリードリッヒ二世の十字軍』についての講演記録を読みました。1976年に日本人の有志によって設立されたイタリア研究会のホームページで公開されていました。

https://itaken1.jimdo.com/2015/07/09/フリードリッヒ2世の十字軍-講演記録/

2015年7月9日フリードリッヒ二世の十字軍(講演記録)

第421回 イタリア研究会 2015-7-9

報告者:高山博(東京大学教授)


講演記録を読んで理解が進みました。

一般的にはフリードリヒ二世として知られる人物のイタリアでの俗名が、フェデリーコ二世でした。

まず、十字軍から語らなければなりません。十字軍は、ローマ・カトリック教皇がカトリックの西欧諸侯に下した神命『聖地エルサレムの異教徒からの奪還と異教徒征伐』を果たす為の遠征軍の総称です。騎士が鎧に十字を刻んでいた事から十字軍と名付けられました。11世紀末から13世紀末に掛けて、十字軍は教皇の神命によって、何度も南イタリアから海を渡り、異教徒が支配する聖地エルサレムを目指しましたが、その遠征は二度を除いて全て失敗に終わりました。

事の起こりは、東ローマ帝国の支配地がイスラム諸侯に占領され、東ローマ帝国の皇帝がローマ・カトリック教皇に救援を求めた事が発端です。東ローマ帝国の国教はカトリックとは異なるキリスト正教会です。東ローマ帝国の皇帝は、西欧の法王に救いを求めたのです。

4世紀に古代ローマ帝国は、それまでの多神教信仰を改めキリスト教を唯一の国教と定めます。各地に教皇庁を設置して、広大な支配地を一神教であるキリスト教化することにり皇帝の権威と支配力を浸透させる事が目的であったと考えます。しかし、その後すぐローマ帝国は二人の皇帝による東西分割統治となり、その一つである西ローマ帝国は支配地域の西欧諸侯の台頭によって5世紀に消滅、以後、西ローマ帝国の国教であったローマ・カトリックの教皇の権威が西欧諸国に浸透していきました。

10世紀にドイツ王が神聖ローマ帝国を興し、ローマ・カトリック教皇を再び皇帝の支配下に置こうとして、教皇との覇権争いを起こしますが、既に西欧諸侯に権威を浸透させていた教皇は、第一回十字軍遠征を西欧諸侯に号令し、聖地エルサレムを奪還する戦果を挙げた事から、覇権争いに終止符が打たれ、西欧はローマ・カトリック教皇の権威の下に、支配され続ける事になりました。


高山教授は、十字軍は西欧諸国の人々のカトリック信仰心と宗教的情熱により引き起こされたが、

①教皇の政治的野心

②諸侯や騎士の領地獲得欲

③商人の利益拡大

こういったものが絡み合って、当初の目的から次第に逸れていき、そして十字軍の失敗により、教皇の権威は失墜し、参加した騎士の多くは没落したと考えられると述べられています。

そして現在に続く影響として、

①西欧諸国の人々の異教徒、異端への不寛容を増大させたこと

②そしてイスラム教徒の側にも異教徒に対する不寛容を増大させたこと

であると指摘されています。


この様な末路を辿る十字軍遠征ですが、唯一、戦争ではなく、交流・交渉により10年間、平和裏に聖地エルサレムをイスラムの王から譲り受けたのが、フリードリヒ二世でした。

フリードリヒ二世は、ノルマン王国の血を引く王子とシチリアの王女との嫡男として生を受けますが、シチリア王である祖父と父母を幼い頃に相次いで亡くし、幼くしてシチリア王となります。

出生国であるシチリア王国は、そもそも異教徒との文化交流により栄えたノルマン王国の継承であったため、臣下には異教徒もいました。そして、フリードリヒ二世を養育し支えたのはイスラム教徒の臣下でした。そのためでしょうか、フリードリヒ二世は、イスラム教徒の文化や習慣にも親しんでいました。

フリードリヒ二世は、神聖ローマ帝国の皇帝を継いでから、教皇から十字軍の遠征の命を受けます。しかし、フリードリヒ二世は教皇からの度重なる遠征の命を無視し続けます。そのために生涯三度も破門を言い渡されました。フリードリヒ二世は、エルサレムを支配するイスラムの王と手紙を交わし、また使節団を派遣し合いながら、親交と交流を深めていきます。そして信頼が醸成できたのを見計らい、エルサレムの返還交渉を行いました。そして遂に、10年間の期限付きではあるもののエルサレムの平和裏の返還を実現します。そして返還後の10年間、様々な圧力にも耐え、エルサレムの平和を守り通します。これは、二つの文化に精通したフリードリヒ二世にしかできなかった芸当だと思いました。


二つめの物語、濱田岳さんが辿ったのは、『ルワンダ虐殺の生存者』の物語です。

アフリカ・ルワンダ共和国でジェノサイドが起こったのは1994年です。今から丁度30年前の出来事です。

ルワンダは19世紀にドイツの植民地となり、ドイツは少数のルワンダ人を高貴な人種ツチとして、その他大勢をフツとして意図的に選別し、教育によってそれを既成事実化し、ルワンダをツチを利用して間接統治していきます。第一次大戦後、敗戦国となったドイツに代わってベルギーが間接統治システムを引き継いでルワンダを支配し続けます。この間接統治によって、ツチとフツの人々の間に憎しみと対立が生じていきました。

そして1962年にルワンダが独立国家となって、多数派であるフツが政権を担う事になってから、少数派ツチへの迫害が始まり、続いて国軍と亡命ツチが組織したルワンダ愛国戦線との内線が勃発します。それにより、フツによって、ツチによって、何度も虐殺行為が繰り返されました。しかし、1994年4月に突然起こったジェノサイドは、比較にならないほどに、凄惨で甚大な被害者を生み出しました。それはフツ至上主義者のラジオから発せられたプロパガンダ・メッセージが起因となりました。ツチとの宥和政策を進めていた大統領が搭乗する旅客機が何ものかに撃墜されたことを受けて、フツの住民に対して、「愛国戦線が襲ってくる、殺しにやって来る、釜や鍬を持って立ち上がれ!敵であるツチを殺せ!」と恐怖と憎しみを煽り、従わぬフツも敵だ!殺せ!と隣人と仲良く暮らしていたフツ住民を恐怖に突き落とします。

ツチに殺されてしまう。従わなければ自分が、自分の家族がフツの殺害の標的になってしまう。という恐怖がフツ住民を襲い、フツ住民の理性を狂わせ、狂気に転じさせて、遂に100日間で100万人もの隣人を虐殺するという前代未聞の殺戮行為に向かわせました。そして隣国には100万人を超えるルワンダ人が着の身着のまま避難のために押し寄せる事態となりました。

100日を過ぎて、愛国戦線が首都を制圧し、ジェノサイドは終焉を迎えます。

愛国戦線は、フツの大統領、ツチの副大統領を立て、ルワンダの再建を図ります。最初に実行したのが、植民地時代に携行を義務付けられた、ツチかフツかを識別するための身分証明書の廃止でした。これによって植民地時代に意図的に作られた人種の選別が廃止され、すべてのルワンダ人が、ルワンダ人と名乗れるようになりました。


濱田岳さんは、ジェノサイドの生存者と会って、その言葉に耳を傾けます。

印象的であったのは、30歳の娘を持つ41歳の母の言葉です。

30年前、彼女は穏健なフツの家族の子どもで11歳の少女でした。家族で隣国ザイールに避難する途中、瀕死のツチの女性と乳飲み子に遭遇します。少女が女性に近づこうとすると、祖母から「本当ならば殺さなければいけない」と注意されますが、さらに少女が女性に近づくと、女性から「私の子どもを一緒に連れて行ってください。神のご加護がありますように」と頼まれます。家族から「災いを招く」と叱られますが、少女を乳飲み子を抱きかかえ、家族と離れて歩きます。

難民キャンプに辿り着いてからも、家族から育てる事を反対されますが、少女は「神の恵み」を信じて、乳飲み子を育てながら生きてゆく決意をします。

その二人は、現在慎ましくも穏やかに生きていました。

母は、「話を聞いてくれてありがとう。心が軽くなりました」と話します。

娘は、「私たちの話をどうぞ伝えてください。知っていただくことで、少しでも平和な世界が作られる貢献になればと思う」と話します。


小学校の女性教師の言葉も印象的でした。

教師たちは、ルワンダに渦巻いた虐殺に向かわせたエネルギーを、平和と団結のために使える様、子供たちを導きたい、という使命感を強く抱いていました。

と同時に、ルワンダの悲劇はどこの国でも起こる可能性があり、でもルワンダ人はだれもがみんな同じルワンダ人と自覚できるようになり悲劇は遠退きました。世界中の人々が、みんな同じ人間だと自覚できるようになれば、ルワンダの悲劇を防げるのではないか、という希望も語られました。


濱田岳さんは、最後に「無智は罪」だと話されました。それは私たち自身への自戒の言葉であったと思います。「無智」は「無関心」と言い換えられます。無智、無関心、利己主義、そして身勝手、無責任のままでいることが、この様な悲劇が、いつも忘れ去られた時に繰り返される。いつか自分たちが、悲劇の加害者、被害者になってしまう。知らぬ間に・・・。


『パックス・ヒュマーナ』


あらためて番組のタイトルとなった『パックス・ヒュマーナ』について考えました。

番組では、最後に「人間の平和」と表現していましたが、どうもしっくり飲み込めないのです。

「パックス・ヒュマーナ」とは何か?調べました。

Google検索すると、”Pax Humana Foundation”というローマに本部がある財団のホームページを見つけました。そのホームページのAbout usのページに次のメッセージが掲載されていました。以下はGoogle翻訳した内容です。

https://paxhumanafoundation.org/en/about-us/

「パックス・ロマーナ」から「パックス・ヒューマナ」へ

パックス・ロマーナとは、ローマ帝国の軍事的優位性によって帝政時代の前半に確保された地中海地域の長期間の平和を指します。

パックス・アメリカーナは、第二次世界大戦後、世界における米国の支配に関連した相対的な安定と世界平和の期間を指しますが、今日私たちはそれに挑戦していると見ています。

この財団は、ニーズ、権利、道徳的資源、回復力、創造性、精神性、願望、尊厳、新たな始まりを生み出す能力を備えた人間を紛争予防の中核に据え、新時代の誕生に貢献することを目的としています。一人ひとりの尊厳と人間性を尊重した関係性を紡ぎながら、解決、変革を目指します。

まさにパックス・ヒュマーナの時代。


ラテン語のPaxは、平和の意味があるそうです。Pax Romanaは古代地中海、ヨーロッパ世界で覇権国家となったローマ帝国が、Pax Americanaは20世紀の後半に世界の覇権国家となったアメリカが、もう一つ加えるとPax Britannicaは19世紀に産業革命によって覇権国家となったイギリスが、世界の警察となり相対的な平和を実現した時代を表すラテン語の言葉でした。

それに従えば、「人間による平和」が訳としては正しいのかもしれません。「ローマによる平和」も「アメリカによる平和」も「イギリスによる平和」も、言い換えれば「人間による平和」です。しかし、それぞれに平和を支える強い力を備えています。

では、「パックス・ヒュマーナ」、私たちの平和を支える強い力とはなんでしょうか。


考えてみると結局は、畏怖なるもの、畏敬なるもの、私たちの心と体を裁く神なるものへの信仰心ではないか、古来から人類がすがってきた信仰心しかないのではないのかと思えてきました。

その信仰心を利用して、古来から権力者は争い、血みどろの殺戮を繰り返してきたというのにです。

本当に、信仰心ではなく、論理的に、かつ倫理的に、「パックス・ヒュマーナ」を実現する解答が見つけられたら、それこそ本当に、戦争の人類史は終焉を迎えることができるのでしょうか。人類史上最難度の方程式が解けたとしても、私たち人類が素直に従い、恒久の平和を得られるとは、どうしても疑念を持たずには居られません。