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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2011年5月20日金曜日

ドラマ『坂の上の雲』主題歌『Stand Alone』、私にとっての『Stand Alone』はこれです!

21世紀スペシャル大河ドラマとして、NHKが2009年から今年2011年の、3年に渡って放映する『坂の上の雲』。司馬遼太郎原作の、明治日本を途方もないスケールで描いた物語を、テレビドラマとしては、破格の費用と時間を掛けて制作されたドラマでです。

伊予・松山で生まれた三人の少年、秋山真之、秋山好古兄弟と正岡子規を主人公に、彼らの成長と、明治期の日本が如何に、極東の小国から列強国への道を歩んだかが描かれます。

このドラマの主題歌として作られたのが『Stand Alone』、ヒットメーカーの久石譲さん作曲、小山薫堂さん作詞で、第1部では、世界の歌姫サラ・ブライトマンが参加し、ドラマのエンディングではボイスレスバージョンが流れていました。
第1部のサウンドトラックCDには、サラ・ブライトマンが日本語歌詞で歌うバージョンも入っています。

久石譲さんが制作されたボレロ調の曲は、物語のスケールの大きさに呼応する、共鳴する力強さがあり、また小山薫堂さんの詞の『一朶の雲を目指し』のフレーズは胸にじんときます。

歌いたい、という願望が強くなり、今日、歌唱したビデオを制作しました。
ベースは、サラ・ブライトマンさんのボイスレスバージョンの曲です。
その曲を聴きながら歌をICレコーダーに吹き込み、Voice編集ソフトでmp3のミュージックファイルを作成しました。

もう一つ、私にとっての『Stand Alone』は何であったろうか考え、思い至ったのが、20歳の時に、私にとっては極めて大胆な行動を伴う、初めての富士山登頂だと思いました。

古いアルバムから30年前の写真を見つけ、スキャナーで取り込み、背景に使用しました。

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20歳当時、静岡県に文通をしていた(文通って分かりますか?)2歳年上の女性がいました。(当時は文通というのがそこそこ流行っていたのでした。)
その年の夏休み、深夜の明治製菓アイスクリーム製造のアルバイトで金を貯め、富士山に登る計画を立てました。その文通相手にその事を手紙で伝えると、お金もないことだろうから、自宅に(当然ながら家族で住まわれている自宅へですよ)泊まる様勧めて頂き、結果、ご好意に甘えました。
でも、やはり一人で行くのは気恥ずかしい、それで地元の悪友の一人、藤原某君に声を掛けると『行く』と間髪入れずの返事で、とんちんかんな二人旅と相成りました。

一日目は、浜松で下車して、文通相手の車で浜名湖など観光に連れて行って貰い、夜は自宅でご馳走を頂きました。本当にまぁ、下品で礼儀も知らない若造二人を、ご家族総出で持て成して下さいました。30年ぶりですが、改めて、有り難うございました、と感謝の気持ちを伝えたいと思います。

そして、次の日、浜松から在来線で静岡に、静岡から甲府行きの電車に乗換、富士宮駅で下車しました。
富士宮駅を出ると、人気がない、富士山を見上げると低い雲で上が見えない。天気は大丈夫か、その時、初めて不安になりました。

とにかく五合目まで行こうと決め、バスを探していたところ、タクシーの運ちゃんが『上は晴れてるよ』と声を掛けられ、言われるままにタクシーに乗り込み、五合目で下車。
富士宮口登山道の五合目にあるレストハウスも閑散としていて、でもここまで来たら後へは引けない、向こう見ずというより、後ろを見るのが怖かった、というのが本音で登り始めました。

6合目、7合目と過ぎた当たりで何かおかしいと感じ始めました。その道中、愛知から一人で別の登山口から登られたA氏と合流、A氏は一人で別の登山口から登られたのですが、道に迷われ、さ迷っている内に我々とばったり出会ったとの事。そこからは三人で頂上を目指しました。

ろくな装備もない。水も食料も乏しい。今では絶対に考えられない無謀さ、無知、危険きわまりない行動でした。道中で、藤原某君が突然『死んでまう~』を連呼し始めました。顔は蒼白です。二人とも、富士宮の駅前で買ったビニールのレインコートはズタズタに破れ、パンツまでびしょ濡れです。その時、藤原某君のおかあちゃんの顔が浮かびました、『死んでもたらどうしょう~』、とりあえず手を引いて登りました。そして、8合目の山小屋に陽が沈み掛けた頃到着しました。

山小屋は開いていて、宿泊することにしました。山小屋の中のコタツで暖を取りながら、じいさんの話に耳を傾けていると、富士山の夏登山のシーズンは終了し、この山小屋だけしか開いていない事、また沖縄当たりまで台風が接近しており、高地である富士山は、もう台風の影響を受け荒れ始めているという事を聞きました。

翌朝、4時か5時頃ですが、8合目山小屋の辺りは靄が晴れ、雲海、そしてご来光を拝む事が出来ました。

そして、3人で頂上を目指し、登り切りました。山頂では、お鉢巡りを試みました。が、経験した事のない上昇気流の剛風が、這いつくばって進もうとする体をこわばらせ、断念しました。断念して正解だったと思います。

A氏がウィスキーを持っていました。岩肌から落ちる雫をグラスで受けて、水割りを飲みました。岩肌と根雪に覆われた頂上は、別世界でした。特にその時は酷い天候で、内心はびびりまくり。雫で割ったウィスキーは旨いと同時に、勇気をも与えてくれました。

そして下山、8合目まで登ってきた道を戻り、8合目から砂走りのコースで一気に5合目まで駆け下りました。藤原某君は、すっかり体調が戻り、わたしを置いて奇声あげながら飛ぶが如く落ちてゆきました(下りてゆくの誤りです)。

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初めての富士山登頂、ここまで読んで下さった方は既にお分かりですね。旅は初日だけを決めた行き当たりばったりの無計画だったのでした。

これまで生きてきて、あんな無謀な事は、その後、と振り返ると、やはり何度かやっています。懲りない性格ですね。

でも、私にとっての『Stand Alone』は、やはり、初めての富士山登頂です。何せ命がけで何かをした、というのはこの時が生まれて初めてであった訳ですからね。

asahi.comニュースから『超ハイビジョン対応の液晶画像公開 NHKとシャープ』を読んで思った事

asahi.comニュース
2011/5/20 4/:24掲載

記事引用----------
NHKとシャープは19日、次世代テレビ放送の「スーパーハイビジョン」に対応した液晶ディスプレーを初めて開発したと発表した。これまでは映像をスクリーンなどに投影するプロジェクター方式だけだったが、初めて家庭用を想定した液晶画面で実現したという。

NHK放送技術研究所(東京都世田谷区)で公開されたディスプレーは85型(横1.9メートル、縦1.05メートル)。現行のフルハイビジョンの16倍のきめ細やかさで、見ている人が画面に入り込むような臨場感を実現したという。

スーパーハイビジョンは、NHKが2020年の試験放送開始を目指して開発を進めている。画面の精細度を示す画素数は、フルハイビジョンの207万に対し、約3300万。画素を細かくして大画面につくりこむには高い技術が求められるという。

NHK技研は26~29日に一般公開を予定しており、このディスプレーを目玉として展示する。(山村哲史)
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日本では、今年の平成23年7月24日(日)にアナログ放送は停波し完全デジタル放送への切り替えが始まる予定だ。
テレビは、この10年でブラウン管からプラズマ→液晶→有機ELと薄型で省エネ、長期使用できるタイプに移行が進んできた。

ハイビジョン映像化、画面の大型化、音響の高度化、そして3Dテレビも実現した。

それでも尽きぬ物作り精神が、スーパーハイビジョンというコンセプトを生んだのだろう。
でも、それはマスプロダクト重視という、旧態依然の産業重視があらたまっていない、未来の人や社会を中心とした社会システムの再構築、またその為の技術革新とは一致しないと考える。

高密度、高細度が進めば、初期のアナログからデジタルに移行した時にいわれた、アナログ波が持つ微細な特徴をデジタル化では引き継げなかったものが、よりアナログ波の微細な部分までデジタル化し再現できるメリットはある。アナログコンテンツは減衰するが、デジタル化すれば完全コピーに寄って未来への継承がしやすくなるというメリットある。
その有効性は素晴らしいと思う。

しかし、家庭において、それは必要だろうか。
日本人の学力の低下が社会問題化して久しいが、テレビの影響が顕著であると考えいる。そして現在は、携帯電話、パソコン等々しかりだ。
自宅で新聞や読書を楽しむという時間が限りなく減少している。携帯電話、パソコン、そしてテレビさえも普及していなかった時代は、新聞を読んで日常の出来事を知りそして時代の流れを学び、読書によって知識欲、読解力を育んできたのである。

『リテラシー』という単語があるが、日本語でいえば、『どの様に使うか』『使うにあっての守らなければならない規範は』『それによって何を求めるのか』、単純に言い換えれば『使い方』『ルール』『目的』である。
『リテラシー』を私たちは、しっかりと学び、守らねばならない。

国家や大学、NHK放送技術研究所の様な機関、企業が、これまでと何ら変わらず、組織の営利追求とマスプロダクト重視を変えなければ、未来はない、淘汰されてゆくだろう。

それよりも、例えばNHKであれば、ニュース資源の正確性を堅持した入手経路を如何に拡充するか、また、付加価値が高い資産となる映像コンテンツを如何に作り出すか、そこに力点を置いて、一流のメディアを目指して欲しい。

また、個人的な意見であるが、電化メーカーのテレビを売るキャッチコピーとしてホームシアターを標榜しているが、映画大好き人間としては、映画館のあの大空間の中でやはり映画を楽しみたい。その文化の衰退に拍車を掛けるような事は止めて欲しい。

また、映画館ビジネスへも注文したい。新作映画、興行的に成功が見込まれる映画だけを上映するのではなく、様々な作品が観たい。その様なユーザのニーズを汲んで欲しい。
映画館の映写もデジタル化が進んでいる。過去の名画をそのデジタル映写室で、テレビ番組の様に番組スケジュールで単発放映するという事をやってはどうか。過去の名作、地方にいて見られなかった作品、見逃した作品、そういう作品を映画館で見たい。それが、フィルムでなくデジタルデータ化されたデジタル映写機では、これまでのリバイバル上映よりももっと技術的にも簡単にできるのではないか、素人考えである。
著作権や上映権の問題、また技術的にもハードルがあるのかもしれないが、映画館という空間が、かつての様に、毎日、人で賑わう社交場として栄えるために、この様な方策は大変有効ではないかと考えます。

2011年5月19日木曜日

何故にアメリカは『オサマ・ビンラディン』を殺害したのか?

日本時間5月2日、アルカイダの指導者で2001年9月11日のアメリカ同時多発テロを指揮したという 『オサマ・ビンラディン』をパキスタン国内、潜伏先の豪邸で家族もろとも、アメリカ海軍特殊部隊が殺害したと、ホワイトハウスが公に報じました。

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今日5月18日、明石市立図書館に本の返却の為、訪問した際、雑誌コーナーにあったNewsweek 5/16/2011(Original Weekly Magazine)を手に取りパラパラと眺めました。(主要な記事は一週遅れで日本語版に掲載されます)
ほとんど、『オサマ・ビンラディン殺害』関連記事で溢れ、その中に驚くべき写真が掲載されていました。
ホワイトハウス内コマンドルーム(小部屋でした)で、バラク・オバマ大統領、ジョセフ・バイデン副大統領、ロバート・ゲーツ国防長官、ヒラリー・クリントン国務長官等々そうそうたるメンバーが、作戦遂行をモニターを通じて見入る写真が掲載されていました。
作戦が成功し、その後先に述べた様に、オバマ大統領は全米に向けて『オサマ・ビンラディン』死亡を報告しました。

アメリカ中が異様に熱狂し、911で破壊されたWTC跡地であるグラウンド・ゼロにもニューヨーク市民が大挙して訪れ歓喜の声をあげているニュースを5月2~3日のニュース映像で観ました、
ヨーロッパ諸国、ロシア、中国、日本、そして国際連合事務総長までもが肯定的な声明を出しました。

しかし、アメリカを敵視するイランはイスラムからの撤退を要求する声明を出し、またアルカイダは報復テロを行うと宣言しました。

『オサマ・ビンラディン』は、アルカイダの精神的指導者であり、個人的な財力を基にした経済的な後援者でもありました。既にアルカイダはナンバー2であった『アイマン・ザワーヒリー』が後継者となり、より一層イスラム原理主義色と反米色を強め、アメリカとそれに与する国々に対し、聖戦を行うと宣言しています。

『オサマ・ビンラディン』を殺す事は、アルカイダにとって大変大きな殉教者を生み出す事になります。
『オサマ・ビンラディン』は、アルカイダにとって、生きる精神的指導者から、その死によって『神』のような存在と化します。
アメリカは、未曾有の火薬庫の導火線に火を付けてしまったのではないか、そう感じてしかたがありません。『オサマ・ビンラディン』を逮捕し、身柄を拘束して、国際法廷で裁くという選択があったのでは、と思えてしかたがありません。

今年の初めから中東、アフリカのイスラム圏  絶対君主制を引いた国や超長期政権(ほとんど独裁政権)が、その国内の一市民からのSNS(ソーシャルネットワークサービス)を利用した不当な扱いを告発する投稿と、最近すっかりおなじみとなったウィキリークス(WikiLeaks)が、高度な政治・外交の秘密文書を公にし、まずチェニジアで長期政権が国民運動(呼称はジャスミン革命)にて倒れ、その国民運動は他国へも飛び火し、エジプト、そしてリビアでも凄まじい国民運動が(リビアは内戦状態)行われています。

ですが、1989年に崩壊した社会主義諸国の内政が未だに混沌としている様に、彼らが望む豊かさを得る事が、どの様に体制が変わろうと実現が至難である事に気付くのは時間の問題です。

混沌とした状況化にある彼らが、先進諸国の幻想を追い求めているとすれば、それは幻滅に終わり、彼らの沸騰した欲求のエネルギーは、反先進諸国に向けられるのではと危惧します。そうなればアルカイダは力を盛り返し、先進諸国は地球規模で、見えざる敵、亡霊と戦う事になります。

『見えざる敵』、これは先進諸国側の見方です。
アルカイダには、アルカイダの正義があり、いってみれば、これは21世紀の光と光の戦争です。

あらゆる物は、光と影の部分を備えています。それは表裏、一対です。それは磁石のS極とN極が引かれる如くです。

しかし、それがS極同士、或いはN極同士であればどうでしょう。永遠に結びつく事はありません。私たちは、そういう戦争状態に向かおうとしているのです。

私たちは、経済的な成功が最重要目標であった世界から一転し、競争や争いを止めて、それぞれが身勝手な『正義』を振りかざすのではなく、『公正』『奉仕』『誠実』を柱に、互いの違いを認め合い、手を取り合って前に進む、そういう世界規模の連帯社会を築かなければならないと思います。

その方策は、1月の国民運動で一躍注目されることとなった、SNSを活用する事だと思います。
持たざる者は、必要なモノのリストをSNSで発信し、持つ者は、提供できるモノのリストを発信する。仲介するコーディネーター(コンピュータプログラムかもしれない)が、適切なマッチングを行い、互いを結びつけて公正な取引、或いは提供を促進し、信頼の輪を広げ、その絆を強めていく。

国民運動から発生した人間の欲望のエネルギーは、人間の繋がりで解決していく、これが21世紀型の解決手段だと思います。国家が介入し、力で押さえつける事の悲劇をこの10数年、私たちは嫌というほどメディアを通じて見せつけられました。
もう、その様な解決手段とは決別する時です。そう思って止みません。

2011年5月16日月曜日

第34回加古川地区中学校大会 鹿島中 優勝!

第34回加古川地区中学校大会決勝は、予定よりも20分余り早く始まった。
決勝戦の相手は、加古川地区屈指のサウスポー・エースを擁する平岡南中。

鹿島中のバッテリーは、こちらもサウスポー・エースの雄大-拓樹。

試合は鹿島中の先攻で14:07に始まった。

初回表、平岡南中のエースは、噂に違わぬ力強い速球を遺憾なく見せつけた。

1回裏、1死を取ってから2四球、三塁盗塁、WPで1点を先取される。

2回表、2死から8番レフト帆岳が左バッターとしてクリーンヒットを放つ。この回得点には至らずも、帆岳の闘志がチームを奮い立たせた。

3回表、先頭バッター1番ショート凌がセンター前ヒットを放つ。そしてすかさず二盗。ここで、2番ピッチャー雄大がレフト線にぽとりと落とす二塁打で、凌が生還し同点。

3回裏、サードゴロで幸伍に本来の守備のキレがないのをみると、藤原監督は早かった。この日、全くバッティングにおいてタイミングの合っていないライト孝鯛をベンチに下げ、幸伍をライトに、サードには悠将を起用した。守備固めである。
1死から死球で出塁した走者が二盗、そして牽制悪送球で三塁まで進塁した。
ここで、平岡中はラン・エンド・ヒットの奇襲にでるが、拓樹が外して空振り、しかし、三本間に挟んだ走者に巧く守備陣をするぬけられてホームインされたと思いきや、スリーフィートライン・オーバーでアウトのコール、危機一髪でした。

そして4回表、2死から凌が四球で出塁、二盗し、雄大が右中間にタイムリーを放ち、凌が生還し逆転。見事な速攻でした。

4回裏、平岡南中5番打者のレフトフェンス際の大飛球を帆岳がフォンスを恐れぬランニングキャッチのファインプレー。ここでもまた、帆岳はチームに勇気を与えた。

5回以降、雄大は内野ゴロ1本に押さえる好投で、最後の打者をセカンドゴロに仕留めて、ゲームセット。2-1の勝利、時間は15:42ででした。

チームとして、2本目の優勝旗(この大会では、大会優勝旗と協賛の朝日新聞優勝旗が与えられたため、計3本である)を学校に持ち帰ると共に、エース雄大が、見事な復活を果たした試合となりました。

藤原監督の秘密兵器が、その一躍を担ったのかもしれません。

雄大は、2週間ほどでしたが、投げられない期間があり、エースとして忸怩たる思いでいた事でしょう。それを一気に晴らした。自らの左腕で、タイムリーでチームを勝利に導いた。

祝勝会(夕食会)  の席で、雄大に問いかけた質問への雄大からの返答にそれが表れていました。
試合前の心持ちは→『おなじサウスポー、絶対に投げ勝つ』
試合後の心持ちは→『気持ちよかった』

祝勝会では同じ質問を、この日のラッキーボーイ帆岳にも問いかけました。
試合前の心持ちは→『自分の役割をしっかり行う』
試合後の心持ちは→『気持ちよかった』

※祝勝会で私が質問したにも関わらず、会を終えてから約4時間近く経過し、彼らが語ってくれた言葉をすっかり忘れてしまいました。やはり健忘症にはメモが必要と改めて思い知らされています。ただ、二人の言葉を聞いた時、『気持ちよかった』という印象が強く残り、ここでは、その印象を言葉として書きました。

さぁ、これからの1ヶ月余り、中体連高砂大会から始まる中体連大会をどこまで登り続けられるか、その最終調整の期間に入ります。

野球の練習においても、普段の生活においても、怪我をしない事、一人ひとりが十分に心に留めておいて欲しい事柄です。

そして、この1年間鹿島中野球に取り組んできた、己を信頼し、仲間を信頼し、鹿島中野球を信頼して、一朶の戦う集団へと気持ちを盛り上げていって欲しいと思います。

そして、『勝って』『勝って』『勝って』、中学野球を楽しみ尽くして下さい。

p.s.
日岡山公園野球場についた、13:30、直前に行われた『第33回西日本軟式(二部)県大会決勝』の閉幕式が行われていました。そこで野球というスポーツの礼節の厳しさを思い知る事になりました。

スタンドに着いたとき、丁度、日章旗・大会旗降納、優勝旗授与、そしてダイヤモンド行進が行われました。その直前に、放送席からスタンドの観客へ、起立と脱帽の要請があったにも関わらず、これから始まる試合の準備で全く耳にも入らず、また例え入っていたとしても、他人事として無視していたでしょう。
現実に、一塁側スタンドで控えていた平岡南中は、選手・応援団とも起立し脱帽していたとの事です。私はそれさえ見ていなかった。

藤原監督は、肘やふくらはぎに痛みを訴えていた選手のケアをされていて不在。藤原監督は、その後、事態を掌握されぬまま、審判控え室に挨拶に行かれ、鹿島中の礼儀をわきまえぬ行為に対して叱責を受けられたとの事。

今回の件では、私たち父母会サポーターは大会運営者から、一観客でなくチームの一員と見なされている事を理解しました。
今回の失敗を繰り返さないようにする事は当然ですが、今後、野球に関わってゆく限り、野球全般に関わる作法、運営で戸惑う事が、これからも数多く遭遇する事になるでしょう。

今後は、試合会場に入った時点で、公式な場所に足を踏み入れたという気持ちを持って、細心の注意を払い、不明瞭な点があれば、必ず監督の指示を仰ぐ、そうして、未然に不具合を回避する様、心掛けたいと思います。

2011年5月15日日曜日

第34回加古川地区中学校大会決勝戦。さぁ、感謝を持ってグラウンドに出かけよう!

昨日、鹿島中野球部は、加古川市野口球場で、第34回加古川地区中学校大会準決勝戦を加古川中部中と戦いました。
鹿島中は幸伍、中部中はサウスポー・エース、どちらも力強いストレートが身上です。
試合は0-0のまま、7回裏鹿島中の攻撃を迎えました。

この回先頭打者は打ちたい・打てない症候群の耕太郎、ですが前の打席で四球を選んで出塁しています。打席に向かう前、藤原監督から呼び止められました。何かしらの指示、言葉を頂いてバッタボックスに立ち、バントの構えで相手投手を牽制、しかし2球で追い込まれました。1球ウェストボールを見送った第4球、真ん中高めのボール球を素直にミートしました。打球は、広い野口球場の左中間のど真ん中を転々とし、二塁打。チャンスを作りました。

そして、次打者拓樹、前の打席でも巧いバントを決めています。中部中の内野陣は、1球1球打席近くまで走り込んできます。そのプレッシャーのかけ方は見事でした。そのバント包囲網おも破る絶妙のバントを決め、これが内野安打となり無死1・3塁。

健介の投手後方のバウンドの高いゴロに3塁の耕太郎は自重し、一死2・3塁。
悠将が四球を選んで満塁。

そして、悠介が3-2から押し出し死球を受けて、0-1x勝利しました。


※試合記録写真
Picasa写真ギャラリー 2011-05-14 中部中戦記録写真

試合を鹿島中優位で進めた、バッテリー、内野・外野の守りがよかった、それが結果的に勝利の女神の微笑みを授かったのでしょう。

鹿島中に戻る車中で、藤原先生が『ヒットはそうそう打てるものではないし、本人が理想と思うヒットはなおさら難しい。どんな不格好な当たりでもヒットになれば、それはヒットであるし、幾ら素晴らしい当たりでも野手の正面をついてアウトになれば、それはアウト。耕太郎には、結果をもっと喜んで欲しい。』と耕太郎評を聞かせて頂きました。

野球を始めた頃、どんな形であろうとヒットを打てば、素直に喜んでいました。しかし、中学生となり思春期を迎えると、はにかみ、どうも喜怒哀楽が素直に出せない。
それに、なにか理想のイメージがあるらしく、打席で迷い、それが集中力を欠いたプレーに見える。でも、彼なりに考えて、悩んで野球に取り組んでいるのは、野球が大好きな証拠であり、それはそれで微笑ましく思います。
と同時に、やはり、試合では、どんなに不格好であろうと、チームにとって勢いづく結果であれば、素直に喜ばなければいけない。『幸運の女神』『勝利の女神』に感謝しなければならない。『素直さ』『感謝』そして『信じる気持ち』は、次打者に受け継がれ、『女神達』は微笑み続けてくれます。

グラウンドに放たれた選手は、先に述べた気持ちを常に持ち続けて欲しい、そう思います。これは、野球だけじゃあ無い、これから出会う様々な場面での、人としての心の持ち様の基本だと思います。


今朝も、昨日と一寸違わず、素晴らしい天気で明けました。空は白々とそして徐々に青みを増し、優しい陽光は徐々に町を広く照らし、空気は澄んでいます。

さぁ、決勝です。
鹿島中野球部の選手達へ、今日も『女神達』の微笑みを授かれるよう、 『素直さ』『感謝』そして『信じる気持ち』を持ち続けてグラウンドを駆け回って下さい。