前知事が不祥事疑惑に対して知事職失効を選択し、イレギュラーで兵庫県知事選挙が11月に行われることになりました。
まだ記憶に新しい、東京都知事選挙で民主選挙を貶める行為を犯したN党が、日本全国に注目されることになった兵庫県知事選挙に再び介入してきたことに、非常な苛立たしさを感じています。また、前知事を百条委員会で追及し、且つ知事の辞任要求を率先して行っていた自民党系議員会派は、所属する議員に誰を支持するかは各議員に委ねることを決めたことにも責任の取り方として一貫性がないことに疑問を感じます。
ネット上では、真偽不明な流言が県民の困惑を招いています。
戦後の民主政治が始まってからも、民主主義だと暗記教育で覚えさせられただけで、民主主義が何たるか、参政の権利と義務とは何なるかを、自らで考え、身に付けるという機会が与えられることの無かった大多数の日本人にとって、選挙は、一言でいえば苦痛であったと思います。一票で何が変わるのかという思い、普段から政治と無縁の生活をしているために誰に一票投ずべきかわからないという思い、皆私利私欲の候補者ばかりで一票の投じる意味が見出せないという思い、それにもう一つ加わったのが、自分には関係ないという思いから、国民の権利足る選挙で自らの意思を一票に投じるという行為が蔑ろにされているのが現在の状況です。まさに投票率が低い状況こそ、非民主制を希求する扇動家にとって自らの支持者を増やして彼らに投票行動を促すことが、権力を掌握するための策となっています。そして一度権力を掌握してしまえば、絶大な権力がわれわれに牙をむくことになるでしょう。
そうならないためにも、冷静になって、何を信じ、何に委ねるのが最善かを、私たち一人ひとりが真剣に考えて、投票行動を行わなければいけないのだと思います。
前知事の、知事職時代にどんあ成果があったとしても、それは県職員全員の活躍があったらばこそであり、如何に知事はトップとして、県職員の遣り甲斐を喚起して、チーム力で県民に貢献するか、そのマネジメント力こそ重要なのだと考えます。
そしてもっとも恐れることは、独善であってはならないということです。前知事の不祥事疑惑の中でもっとも悪辣であったことは、法律として不十分な内部告発制度を蔑ろにして、独善的に自分を貶めようとした一職員を罰してしまったことです。そこに反省のかけらもみられない前知事は、やはりトップを務める資質が欠如していると云えるのではないかと私は思います。