「幸せの王子」は、以前家にもありました。大判の絵本で、物語の挿絵は写実的に描かれていて、挿絵を眺めるだけで物語を楽しむ事ができました。字の物語も、子供向けにやさしく描かれていたように思います。
『幸福の王子と呼ばれる王子の像が、可哀相な人々に心を痛め、像の装飾物である宝石や金箔をツバメを使いにして、可哀相な人々に施しを続けます。その結果、装飾物をすべて失いみすぼらしい姿になって、壊されてしまいます。
ツバメは、越冬地であるエジプトに旅立つ事をせずに、幸福の王子の翼となって使いをし、また王子が目を失ってからは目となり話相手となっていつまでも側に寄り添い、冬になって死にました。
神様は、この二つの魂を善い行いをした報いとして天国に導きました。』
自分を犠牲にして他に尽くす行いは、とても貴いんだよと描かれていたように思います。
でも、清川あさみさんの挿絵と金原瑞人さんの訳で描かれた「幸せの王子」は、まったく別の物語として読み進めていました。それは一言で言うなら、現代にも通じる『人間社会への痛烈な風刺』です。
タイトルの「幸せな王子」も風刺を感じます。
王子は生きていた頃、人間の王子としてサンスーシー(憂いの無い)の宮殿に住んでいて、美しいものに囲まれて幸せしか知らずに生きていました。そんな王子を家来達は「幸せな王子」と呼びました。その呼び名は、王子の耳には心地よく響いたことと思います。でもきっと家来達は、『本当のことは何も知らない、何も見ようとしない、間抜けな王子』と皮肉や悪口を込めて呼んでいたように思います。
そして王子は、純粋に幸せに満ちたまま死にました。でも王子の魂は、天国には向かわずに、王子の死後に立てられた王子の像の鉛の心臓に留められました。像の中で甦った王子の魂が二つのサファイアの目で見たものは、世の中に蔓延る人間の醜さと貧しい人々の苦しむ姿でした。そして生きていた頃から家来や国民にどの様に見られていたかも知りました。それは王子にとって地獄に落とされたと同じであったと思います。目を背けたくても閉じることもできず、何かしたくても鉛の体は微動だすることもできません。王子は泣くしか他ありませんでした。
オスカー・ワイルドは、幸せの王子を通して、如何に高い地位や黄金が、人間を盲目にするか、またそれに群がる人間を醜悪にするか、この物語を通じて風刺しているのではないか、そのように思えてきました。
神様が二つの魂の一つ、二つに裂けた鉛の心臓を祝福した理由も、自己犠牲だけでは無かった様に思います。
王子はこの世の悲惨を見続ける中で、『生きている人たちは、金さえあれば幸せになれると思っている』ことを悟りました。そして純粋に、こんな像の姿でも、装飾の宝石や金箔を使って、不幸な人を幸せにする事ができる、そう願う様になったのだと思います。
そこに使いとなって働いてくれるツバメが現れた。そして王子の願いのために身を犠牲して働いてくれるツバメに、これまで誰にも感じたことが無かった感謝と愛情が芽生えたのだと思います。王子はサファイアの目を失ったことで地獄を眺める苦悩から解放されました。そして同時に心の中が本物の愛で満たされました。それが王子が神様の目に留まった理由ではないかと思います。
こんな風に解釈に時間を要してる間に、返却日となってしまいました。
朗読動画を作るのは、また今度の機会となりそうです。
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