関西テレビで放送されたドラマ「僕達はまだその星の校則を知らない」は、私のフィーリングに合ってとても心地よい、しかも見応えのあるドラマでした。主演の磯村勇斗さん、堀田真由さんのお二人だけでなく、ベテラン、若手と出演する全俳優の気持ちの入った演技にとても心を動かされました。
このドラマは、子供の頃から対人的孤立を自覚し、それがために学校でいじめにあっていた主人公が、法律が自分も守ってくれることを知って法律を学びはじめ、大人になって弁護士となり、そして、ある高等学校のスクールロイヤーに派遣されるところから始まりました、そして、生徒や教師が直面する様々な不条理な事柄に真摯に対応しながら、学校というものの意義や価値を見出していく物語でした。
最終回で主人公が、心を通じ合った生徒や教師を前にして語った言葉です。
『僕は学校が嫌いです。ヌメヌメ、ベトベト、多種多様な人類が無作為に集まる秩序のない場所。でも、そう、だからこそみんな、もがこうとするんです。少しでもわかり合いたくて行動する。言葉にする。それは輝いてもいるれど、ものすごく難しくて、繊細で、傷つくことの方がずっと多くて、僕達はまだ、この星でうまく生きていく術を、何も知らない。でも、それを探し続けることこそが、僕達の幸いなのかもしれない。』
同じフィールングを感じ取った本があります。日下公人氏の著書『日本人に読ませたい戦前の教科書』です。読みながら印象に残った箇所をメモに取りました。以下、その部分を書き出してみます。
『学んで面白く、印象に残るのは歴史上の人物の人となりだったり、それを示す逸話である。「何年に何が起きたか」よりも「偉人が何を考え、どう行動したか」のほうが、子どもの人格形成にとってよほど大切である。』
『今も昔も、国語はすべての勉強の中心だ。算数も歴史も理科も、どの教科も日本語で習うわけだから、国語力なしには勉強が進まない。漢字を読むことができなかったり、文章の理解が間違っていたのでは困る。概して国語の成績のいい子どもは、他の教科書も平均点以上であることが多いものだ。しかし、国語が大切だとしていたのは、テストでいい成績を取るためといったような、そんな単純な理由からではない。そこには、もっと本質的な理由がある。我々は、言葉を通じて他人の考えを理解し、自分の意見を伝える。自分と他人を区別しているのも言葉による。母国語である日本語は、コミュニケーションの大切な手段である。すなわち「どうして自分はそう考えたのか」を表明する方法、記述する体系を学ぶのが国語である。』
『昔の小学校では、なにも難しい表現や言い回しを覚えた訳ではない。社会に出て、職人の親方や会社の先輩から用事を言い付かったり、こちらがわからないことを質問したりという、当たり前の会話が出来る様になるために、情緒豊かな美しい日本語で書かれた教科書を通じて、様々な常識を国語として学んだのである。』
『現場の先生に大きな裁量があったとうことだ。先生という存在自体、尊敬すべき職業だったし、事実、とても尊敬されていたから、そういうことが可能だった。最近の学校は、利己的な要求をするモンスター・ペアレントに手を焼いているようだが、戦後教育を受けて育った親が、滅茶苦茶ないちゃもんを付けているようである。戦前にも手前勝手なことを要求する親はいただろうが、学校はそれをちゃんと追い払っていた。小学校であっても学校は、俗世間とは違う権威を毅然と持っていた。』
現在の日本社会は、「オレオレ詐欺」に代表される詐欺行為や脅しや強迫によって市井の人々が犯罪に巻き込まれ、しかも泣き寝入りするしかできない社会情勢に何年も前から陥っています。犯罪は海外にまで及ぶ広域なもので、しかも高度なITやAIが駆使されていて、一国の治安を与る警察機関だけでは、到底、犯罪組織の全貌に辿り着くことなど敵わない状況です。しかし、この問題を一歩踏み込んで考察すると、姿の見えない犯罪の黒幕の元で、手下となって犯罪を実行する人間もまた被害者であることが見えてきます。
彼らは安易に金儲けができるという勧誘の罠にはまって、姿の見えない犯罪の黒幕に精神も肉体も強迫されて、奴隷状態に落とされるのです。そして自ら善悪の判断ができず、強迫に抗うこともできないために、強迫され命令される犯罪行為を躊躇することもなく実行してしまうのです。そして、その中から、本当の犯罪者に変質していくものも生まれているかもしれません。
なぜ彼らは、自ら善悪の判断ができず、強迫に抗うことができないのか?
そこには、本来、事の善し悪しを判断して、強迫にも屈せず、善き行動を取ることができるように、修養や鍛錬を積む場であった筈の公教育の現場である学校が、その機能を失ってしまったことが原因であろうと考えます。
校内暴力に始まった学校現場の犯罪は、現在ではITやAIを駆使した更に陰湿さを増した虐め行為となって蔓延し、それは、低学年へと広がりを見せています。それだけではなく、生徒や学生を導く側である筈の教師や保護者という大人側にも広がりを見せています。そして、犯罪の被害者や学校に拠り所を失った生徒は、唯一の解決法とされる、その場から逃げることを要求されて、どこにも安心して教育が受けられる環境を用意されぬまま、自宅に逃れ引きこもりとなるのです。そして、学校教育で身に付けなければならない、この後の人生を生きていく術が何一つ身に付けられないまま大人になってしまうのです。
この状況を見直すためには、これ以上の新たな犯罪の奴隷を生み出さないために
・まず学校の秩序を取り戻すこと。
・教師が尊敬される職業にすること。
・教師が自らの裁量で教育ができる余地を権限として与えること。
・そして、学校が、生徒の安全な教育の拠り所のなること。
の早期実現を求めたいと思います。
それから、犯罪行為を犯した人を、単に前例主義で罰を与えるだけでなく、精神をケアしながら、善き行動ができる人に生まれ変わらせるために教育機会を与えて修養と鍛錬を積ますことを制度化することを求めたいと思います。
また、現在の犯罪行為を犯して捕まった人は、世間からの冷たい視線や疎外感によって、また罰が心を入れ替える修養や鍛錬となっていないがために再犯を犯しやすい状況になっているのではないかと思います。世間の、更生した人々を差別することなく受け入れる認識を醸成する努力も合わせて行うことが求められます。
この提案を実現するには、時間も予算も労力も、並大抵のものではないだろうと思います。でもこれは日本国の現在、そして将来の安全保障に関わる最重要な課題であると認識します。政治家を任ずる人々は、この国の未来のために、それこそ一身を賭けて取り組んでほしいと思います。