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風に立つライオン

 お願いだから幸せになってください。 2015年に公開された日本映画「風に立つライオン」を観ました。 アフリカ、ケニアの風土病を研究する長崎大学の現地研究所に二年の任期で赴任した日本人医師が、赤十字の要請で短期間、ケニア・ロキチョキオにある赤十字戦傷病院に医師して派遣されます。 ...

2025年9月23日火曜日

私たちの未来が幸いとなるために

関西テレビで放送されたドラマ「僕達はまだその星の校則を知らない」は、私のフィーリングに合ってとても心地よい、しかも見応えのあるドラマでした。主演の磯村勇斗さん、堀田真由さんのお二人だけでなく、ベテラン、若手と出演する全俳優の気持ちの入った演技にとても心を動かされました。

このドラマは、子供の頃から対人的孤立を自覚し、それがために学校でいじめにあっていた主人公が、法律が自分も守ってくれることを知って法律を学びはじめ、大人になって弁護士となり、そして、ある高等学校のスクールロイヤーに派遣されるところから始まりました、そして、生徒や教師が直面する様々な不条理な事柄に真摯に対応しながら、学校というものの意義や価値を見出していく物語でした。

最終回で主人公が、心を通じ合った生徒や教師を前にして語った言葉です。

『僕は学校が嫌いです。ヌメヌメ、ベトベト、多種多様な人類が無作為に集まる秩序のない場所。でも、そう、だからこそみんな、もがこうとするんです。少しでもわかり合いたくて行動する。言葉にする。それは輝いてもいるれど、ものすごく難しくて、繊細で、傷つくことの方がずっと多くて、僕達はまだ、この星でうまく生きていく術を、何も知らない。でも、それを探し続けることこそが、僕達の幸いなのかもしれない。』


同じフィールングを感じ取った本があります。日下公人氏の著書『日本人に読ませたい戦前の教科書』です。読みながら印象に残った箇所をメモに取りました。以下、その部分を書き出してみます。

『学んで面白く、印象に残るのは歴史上の人物の人となりだったり、それを示す逸話である。「何年に何が起きたか」よりも「偉人が何を考え、どう行動したか」のほうが、子どもの人格形成にとってよほど大切である。』

『今も昔も、国語はすべての勉強の中心だ。算数も歴史も理科も、どの教科も日本語で習うわけだから、国語力なしには勉強が進まない。漢字を読むことができなかったり、文章の理解が間違っていたのでは困る。概して国語の成績のいい子どもは、他の教科書も平均点以上であることが多いものだ。しかし、国語が大切だとしていたのは、テストでいい成績を取るためといったような、そんな単純な理由からではない。そこには、もっと本質的な理由がある。我々は、言葉を通じて他人の考えを理解し、自分の意見を伝える。自分と他人を区別しているのも言葉による。母国語である日本語は、コミュニケーションの大切な手段である。すなわち「どうして自分はそう考えたのか」を表明する方法、記述する体系を学ぶのが国語である。』

『昔の小学校では、なにも難しい表現や言い回しを覚えた訳ではない。社会に出て、職人の親方や会社の先輩から用事を言い付かったり、こちらがわからないことを質問したりという、当たり前の会話が出来る様になるために、情緒豊かな美しい日本語で書かれた教科書を通じて、様々な常識を国語として学んだのである。』

『現場の先生に大きな裁量があったとうことだ。先生という存在自体、尊敬すべき職業だったし、事実、とても尊敬されていたから、そういうことが可能だった。最近の学校は、利己的な要求をするモンスター・ペアレントに手を焼いているようだが、戦後教育を受けて育った親が、滅茶苦茶ないちゃもんを付けているようである。戦前にも手前勝手なことを要求する親はいただろうが、学校はそれをちゃんと追い払っていた。小学校であっても学校は、俗世間とは違う権威を毅然と持っていた。』


現在の日本社会は、「オレオレ詐欺」に代表される詐欺行為や脅しや強迫によって市井の人々が犯罪に巻き込まれ、しかも泣き寝入りするしかできない社会情勢に何年も前から陥っています。犯罪は海外にまで及ぶ広域なもので、しかも高度なITやAIが駆使されていて、一国の治安を与る警察機関だけでは、到底、犯罪組織の全貌に辿り着くことなど敵わない状況です。しかし、この問題を一歩踏み込んで考察すると、姿の見えない犯罪の黒幕の元で、手下となって犯罪を実行する人間もまた被害者であることが見えてきます。

彼らは安易に金儲けができるという勧誘の罠にはまって、姿の見えない犯罪の黒幕に精神も肉体も強迫されて、奴隷状態に落とされるのです。そして自ら善悪の判断ができず、強迫に抗うこともできないために、強迫され命令される犯罪行為を躊躇することもなく実行してしまうのです。そして、その中から、本当の犯罪者に変質していくものも生まれているかもしれません。


なぜ彼らは、自ら善悪の判断ができず、強迫に抗うことができないのか?

そこには、本来、事の善し悪しを判断して、強迫にも屈せず、善き行動を取ることができるように、修養や鍛錬を積む場であった筈の公教育の現場である学校が、その機能を失ってしまったことが原因であろうと考えます。

校内暴力に始まった学校現場の犯罪は、現在ではITやAIを駆使した更に陰湿さを増した虐め行為となって蔓延し、それは、低学年へと広がりを見せています。それだけではなく、生徒や学生を導く側である筈の教師や保護者という大人側にも広がりを見せています。そして、犯罪の被害者や学校に拠り所を失った生徒は、唯一の解決法とされる、その場から逃げることを要求されて、どこにも安心して教育が受けられる環境を用意されぬまま、自宅に逃れ引きこもりとなるのです。そして、学校教育で身に付けなければならない、この後の人生を生きていく術が何一つ身に付けられないまま大人になってしまうのです。


この状況を見直すためには、これ以上の新たな犯罪の奴隷を生み出さないために

・まず学校の秩序を取り戻すこと。

・教師が尊敬される職業にすること。

・教師が自らの裁量で教育ができる余地を権限として与えること。

・そして、学校が、生徒の安全な教育の拠り所のなること。

の早期実現を求めたいと思います。


それから、犯罪行為を犯した人を、単に前例主義で罰を与えるだけでなく、精神をケアしながら、善き行動ができる人に生まれ変わらせるために教育機会を与えて修養と鍛錬を積ますことを制度化することを求めたいと思います。

また、現在の犯罪行為を犯して捕まった人は、世間からの冷たい視線や疎外感によって、また罰が心を入れ替える修養や鍛錬となっていないがために再犯を犯しやすい状況になっているのではないかと思います。世間の、更生した人々を差別することなく受け入れる認識を醸成する努力も合わせて行うことが求められます。

この提案を実現するには、時間も予算も労力も、並大抵のものではないだろうと思います。でもこれは日本国の現在、そして将来の安全保障に関わる最重要な課題であると認識します。政治家を任ずる人々は、この国の未来のために、それこそ一身を賭けて取り組んでほしいと思います。 

2025年9月22日月曜日

日本が好きだ、日本人が大好きだ!  I love Japan and I love the Japanese people!

ユダヤ系フランス人である社会人類学者クロード・レヴィ=ストロース(1908年11月28日-2009年10月30日)は、日本人が育んできた日本文明を、他に比類ないほどの優れた文明であると評価しました。その理由として三つを挙げています。

一つ目は、西洋文明が破壊と創造を繰り返してきたのに対し、日本文明は異質なものであっても取り込み、それを完全に自らのモノとして消化した上で、より高次元のモノを創造する「編集能力」を持っているということです。それは、人間が本来その誰もが持っている筈の根源的な知性のことで、ストロースはこの知性を「ブリコラージュ」と名付けています。

二つ目は、世界の殆どの神話が歴史と明確な連続性を持っていないのに対し、日本の歴史だけは神話と固く、そして有機的に結びついているということです。日本人は当たり前のように、正月には神社に詣で、御盆には先祖の霊を迎えるという習慣を継承してきました。それは、目に見えない永遠の型、その精神、その魂こそが最も尊いことであると神代の時代から現代にまで血脈を断たれることなく継承できたことが理由であると述べています。

そして三つ目は、西洋の歴史がその始まりから終わりまで、血で血を洗う殺戮と支配と、そして征服のおぞましい記録でしかないのに対し、一万年という遙か太古の昔に縄文文明が興ってから調和を何よりも大切にしてきたことです。日本古来の宗教である神道の信仰や儀礼が、あらゆる排他的発想を拒み、あらゆる存在に霊性を認め、自然と超自然、人間の世界と動物や植物の世界、更には物質と生命とを結び合わせてきたからだと述べています。


私は、YouTubeで

99%が知らない「世界が嫉妬する日本人の本当の強さ」

https://www.youtube.com/watch?v=7V4W9D10UJI

という動画を観て、クロード・レヴィ=ストロースを知りました。そして、彼の著書『月の裏側-日本文化への視角』を今読みながら、私たち日本人は何ものであるのかを考えています。

動画は、現代の私たち日本人は、「ただただ波風を立てないためだけに、自分を押し殺し、言いたいことも言わず、その美しい顔から生気と、本来そこにあるべき輝きを失ってはいないか?」と問い掛けます。そして「本来の日本の文化は、自分を殺し、自分を犠牲にすることでは決してなかった。それは相手を殺さず、自分も殺さず、そのギリギリの、そして絶妙な境界線上で、共に生きるための、世界で最も高度で、そして洗練された生存のための芸術的な技術だった筈だ」と訴えかけてきます。


18世紀に産声を上げた近代民主主義(デモクラシー)は、全ての人々個人の人権を尊重すること、そして、宗教や思想、言論の自由を保障することの二つの理念を土台に、王や独裁者などの一握りの権力者に支配を委ねるのではなく、全ての国民が政治に責任を持ち、代表者を選出して運営を委ねるという制度です。

デモクラシーの誕生とその後の歩みは、西洋史で起こった二つの大革命に影響されたものではないかと私は思っています。

一つは16世紀に起こった宗教革命です。4世紀にローマ帝国の国教となったキリスト教はローマに法王庁を設置します。これがカトリックの始まりです。法王は徐々に絶大な権力と富を有することになり、11世紀の終わりには聖地を奪還するという名目で西洋の諸侯にイスラム世界への侵攻を号令します。十字軍の遠征です。そして十字軍遠征に参加するカトリック信徒の武人に免罪符を発行して、免罪符を求めたものは、遠征での罪なる行為を犯しても免罪されることを保証しました。また遠征を拒む者は信徒に一番厳しい罰である破門を言い渡しました。そして以後何度も繰り返された遠征が招いたものは、殺戮と破壊、そして略奪でした。権力者は土地を奪い、商人は貿易で更に富みました。

このような法王の歪んだ権威に異を唱えるものが現れました。彼らは法王の権威ではなく、聖書のテキストに信仰の礎を求めました。16世紀に起こった宗教革命です。

しかし、宗教革命は負の副産物を生み出しました。聖書を礎とした様々な解釈による宗教が起こり、各々の正当性、あるいは正義の名の下に、他の宗教を攻撃し、異なる信徒同士は憎しみ合い、遂には凄惨な殺戮が行われ、国家間の宗教戦争へと発展します。

しかし、為政者や思想家から、憎み合いでは国家の進歩や繁栄は望めないとし、寛容となること、また宗教や思想、言論の自由を啓蒙する者が現れ、それが一つ一つ法律で保証されることになって、憎み合いや戦争は影を潜めることになりました。また同事に、人文主義者が、人道や人権の尊重を啓蒙し、その二つの理念の啓蒙が、近代民主主義を発芽させたのだと思います。

二つ目は、18世紀に起こった産業革命です。15世紀に始まった大航海時代は、西洋での影響力の低下したカトリックが、未開地、新大陸への冒険に向かう野心家と手を組み、第三世界への進出を目指して行われました。そして野心家たちは大海原を越えて未開地、新大陸を侵略し、再び殺戮と破壊、そして略奪を行いました。彼らは未開人をカトリック教徒化し、土地は植民地にし、人々は奴隷にしました。そして略奪した資源や宝物、そして奴隷の労働力によって大規模農園や鉱物資源の発掘事業を興し、その富を本国に送致して、西洋の国は富み、為政者、商人、貿易商は、大いに富みました。このような超富裕層が産業革命では資本家として君臨し、科学技術の進歩が生み出すあらたな産業のオーナーやパトロンとして、無産階級である多くの労働者を厳しい労働環境のもとで苛酷な労働を強いました。

その反動として、社会主義や共産主義なる平等や互助を啓蒙する主義が興り、現代に続く資本主義との対立が始まりました。デモクラシーは、この人権や平等という人文主義と資本主義の均衡という問題を以後、抱えることになりました。


20世紀に起こった二度の世界大戦も、その後の世界の歴史を動かす起点となりました。

重工業の飛躍的な発展です。デモクラシーの国では、その恩恵は労働者階級にも広がって、労働者は中産階級となり、消費者となって、産業発展の両輪である需要と供給の需要の受け皿となり、産業は更に飛躍的発展を遂げました。

しかし、社会主義や共産主義の国では、指導者の計画のもとで産業が行われたこと、そして平等の名の下に、平板な製品が単調に生産され続けたことから、労働意欲も購買意欲も失われ産業は衰退の一途を辿ることになります。

しかし、20世紀の終わりに社会主義の盟主であったソ連が崩壊して、資本主義が勝利した以後、デモクラシーの国の人文主義と資本主義の均衡も崩れだし、資本主義偏重へと傾きました。そして第四次産業となるIT産業やAI産業の爆発的な発展は、人類史上まれにみるほどの貧富の差を生み出しました。IT産業やAI産業は膨大な情報を収集し、加工し、新たな情報を生産するという人の手が必要となる工程があるために、大量の優秀な労働力を必要とし、そのために自国ではまかない切れずに、労働移民や他国に製造拠点を必要としましたが、それが恩恵を受けない大多数の自国民の反感を買い、遂には扇動政治家が現れて、次々に自国ファーストなる主義を扇動し、自国民は熱狂し、現在では、デモクラシーの礎である全ての人々個人の人権を尊重すること、そして、宗教や思想、言論の自由を保障することの二つの理念が攻撃され、デモクラシーの存続が危ぶまれる事態となってきました。


「日本が好きだ、日本人が大好きだ!」


私が皆さんに気付いてほしいのは、

「日本が好きだ、日本人が大好きだ!」は、日本ファースト、あるいは日本人ファーストではないということです。

日本をアメリカと言い換えてみましょう。「アメリカが好きだ、アメリカ人だ大好きだ!」は、アメリカファースト、あるいはアメリカ人ファーストではないということです。

中国、ロシアに置き換えても同様です。

日本人が、アメリカ人が、中国人が、ロシア人が、世界中の人々が、主語は全ての人です。全ての人が「日本が好きだ、日本人だ大好きだ!」となれば幸いです。

全ての人が「アメリカが好きだ、アメリカ人が大好きだ!」となれば幸いです。

全ての人が「すべての国が好きだ、すべての国の人が大好きだ!」となれば幸いです。

しかし、この様にならなければ、クロード・レヴィ=ストロースが西洋文明に悲嘆して残した言葉「世界は人間なしに終わるだろう」が現実のものとなることでしょう。

それを阻止する為にも、ストロースが日本文明に見出した、他者との調和と共生、そして他者への尊重と尊敬に、私たち日本人が立ち返り、この理念を世界の人々に啓蒙し、共感と実践の輪をを広げていくしかないのではないかと思います。