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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2011年2月24日木曜日

小説『朗読者』読後感想、映画『愛を読むひと』視聴感想

『壊れゆく女、沈みゆく少年』の半世紀にわたるラブストーリーです。愛(育まれる愛、失われた愛)という主軸で読み進めるだけでも十分に感動しましたが、第二次世界大戦が招いた悲劇、そしてタイトルで示された『朗読』が醸しだすサスペンス、これらの要素が物語を深遠にしています。

ドイツの大学教授であるペルンハルト・シュリンク氏が書かれた小説で、1995年に出版されました。英語翻訳版もそうそうに発売され、ドイツやアメリカでベストセラーとなりました。日本では2000年に松永美穂氏の訳書が刊行されました。
2009年に日本で上映された、ケイト・ウィンスレット主演『愛を読むひと -The Reader-』の原作となる小説です。ケイト・ウィンスレットさんは2009年、この映画でアカデミー主演女優賞を受賞されています。

この小説は、私の楽しみの一つ書店探訪の際に見つけました。『朗読者』というタイトルに、朗読も楽しみの一つである私は引かれました。また帯に『映画「愛を読むひと」の原作』と書かれてあったことが購入の決め手となりました。
読み終えてからもう二、三ヶ月くらい経ちます。直ぐに読後感想を書き留めようと思いましたが、たぶん十分に反芻できていなかったからでしょう、書けませんでした。
先日、映画『愛を読むひと<完全無修正版>』を観ました。小説も読み直し、漸く読後感想を書こうと立ちました。

物語のあらすじです。
[第一章]
全編の語り部となる少年が15歳の時、20歳近く年齢が離れた女性と出会います。
少年が街角で具合が悪くなったとき、偶然出会し、母のように優しく、てきぱきと彼を介抱してくれた女性のアパートにお礼に訪れた際、あけすけな女性の振るまいの中に甘美なものを感じ、再び女性のアパートを訪れます。仕事帰りの女性から指示を受けて暖を取る燃料のコークスを地下室へ取りに行きますが、作業中コークスの山が崩れ彼は真っ黒になり、女性から風呂に入るよう指示され、いわれるままに裸になって風呂に入ります。バスタオルを持って部屋に入ってきた女性に背を向け、体をふいて貰った後、女性も真っ裸であることを感じ、女性から『このために来たんでしょ』と誘われるまま彼は初めてSexをします。女性にすれば行きずりの関係のつもりであったでしょうが、少年はSexにそして女性に溺れてゆき、遂には愛を育む関係(Make Love)に進展します。
何度目かの情事の後、二人は名乗りあい(少年はミヒャエル・ベルク(映画ではマイケル・バーグ)、女性はハンナ・シュミッツであることがわかります)、また女性は少しだけ少年に素性を話します。ある時、ベットの中でハンナは、ミヒャエルに学校で習っているテキストの朗読をせがみます。そして以降の情事は朗読の後に、という約束が交わされます。ミヒャエルは、ホメロスの叙情詩から『オデッセイア』、父親の書棚にあるカントの哲学論まで朗読します(映画では友だちから借りた『チャタレー夫人』を朗読中、ハンナから『卑猥だわ』『恥を知りなさい』と母親の如く指摘されるシーンがありました)。
しかし、夏の終わり、突然ハンナはアパートを引き払い彼の前から姿を消します。

[第二章]
8年後、ミヒャエルは法科を学ぶ学生となり、担当教授の勧めで、ナチス戦犯裁判を傍聴します。傍聴したのは、被告として数名の中年女性が、1944年当時、アウシュビッツ強制収容所の女性棟の看守として『死の選別』に加担していた罪および、クラクフ収容所でユダヤ人を『死の行進』に追いやり、ある村で一晩ユダヤ人を詰め込んだ教会棟が空爆の直撃を受け出火したのに閉じ込めたままにして、今法廷で証言する母子二人を除く全員を死に追いやった罪での公開裁判です。そこで、被告席に座るハンナの姿を目にします。
ハンナは、ミヒャエルにとって、今も愛し、と同時に憎む存在となっていました。
ミヒャエルは講義を欠席し、結審するまで傍聴を続けます。そして、ハンナの隠された秘密、ハンナが去っていった理由に辿り着きます。それは、ハンナにとって有利な証言となりうるものでしたが、ハンナは最後まで隠し通し、ミヒャエルも公にはしません。
ハンナは17歳の頃、ルーマニア地方の田舎からベルリンに出、その後シーメンスに務めます。21歳の時、SSに入隊し、ユダヤ人女性収容所の看守となります。そして戦後、ミヒャエルの住む町で、市電の車掌の職に就きます。町に住むに際し、ハンナは当局に届けも出していました。
被告の中で、ハンナだけが罪状を認めます。アウシュビッツでは収容所が収容者で溢れないよう、命令に従って、それぞれの看守が毎日10名を選別するという職務を全うしたことを話し、また、あの時、私はどうすればよかったのかを裁判官に訴えます。
審議の中で、ハンナがお気に入りを毎夜部屋に連れて行ったという事実にも言及されました。しかし、その本当の理由は、証言席に座る生き残った子からもたらされました。
ハンナは、ユダヤ人の少女らを辱めたのではなく、少女らに暖かい食事とベットを提供する替わりに本を朗読させていました。
しかし、審議は、被告全員が関わっていたとするハンナの証言を、自らの罪を軽くしようとする虚偽と決めつけ、ハンナは厳しい立場に立たされます。
そして、『死の行進』、『出火した教会からユダヤ人達を開放せず焼き殺した罪』の証拠として当時の報告書が提出され、それはどの様にして書かれたものかという詰問に対して、ハンナ以外の被告全員が、ハンナが命令を下す立場であり、私たちは従っただけ、報告書もハンナが書いたと証言します。ハンナは追い詰められます。そして、裁判官が筆跡鑑定のため、ハンナにペンと用紙を渡して書くことを求めます。そしてハンナは筆跡鑑定には応じず、報告書は私が書いたものだと認めます。映画では、この場面でミヒャエルのハンナと過ごした夏の日の思い出が回想されます。二人で自転車旅行に出かけたカフェでの出来事、彼女はメニューをろくに見ずにミヒャエルに決めてといいます。旅行のガイドブックも地図も全く見ず、『坊やのサプライズを楽しみしている』とだけ告げます。そして、あれだけ朗読を求めるのに自分で本を読もうとしなかったこと・・・ミヒャエルははっと気づきます、ハンナが文盲であることに気づきます。
何故、ハンナがシーメンスを辞めたのか、市電の車掌の職を辞めたのか、その時期が明らかになります。彼女は職務に忠実でしっかりと仕事をこなすために昇進を打診されます。普通なら大喜びのところが、彼女は逃げるように職を辞していました。
すべては彼女の小さな恥が、自ら道を閉ざし、大きな罪を背負い、彼女の人生を狂わしてきたことが明らかになります。
そして結審の日が訪れ、ハンナには殺人の首謀者として無期懲役が言い渡され、他の被告は殺人幇助として期間の短い懲役刑が言い渡さました。

[第三章(終章)]
ミヒャエルは、修士を納め、国家試験に合格し晴れて法学者となりました。結婚し、ひとり子を授かり、離婚もしました。彼は仕事においては成功しましたが、我が子にさえ心を開く事ができない、人を愛せない者となっていました。
時が過ぎ、彼は自宅でしまい込んでいた古い本を見つけます。ハンナに朗読したかつての本です。
彼は、カセットテープレコーダーを取り出して、テープに朗読を吹き込みました。そしてついに彼は一歩を踏み出したのです。朗読テープを服役しているハンナに送り届けたのでした。

以下、本文の引用 第3章6節 -----

カセットによる多弁で寡黙なぼくたちの接触の四年目に、彼女からの挨拶が届いた。
「坊や、この前のお話しは特によかった。ありがとう。ハンナ」
その紙には線が引いてあった。書き方練習帳から一ページを破って、皺を伸ばしたものだった。その挨拶は上の方に書かれていて、三行にわたっていた。文字は青の、インクの出が悪いボールペンで書かれている。ハンナが力を込めて文字を書いたために、文字が紙の裏にまで浮き上がっていた。住所も力一杯書いてあって、真ん中でたたんで封筒に入れた紙の上半分と下半分に住所が筆圧で写って、読むことができた。
ぱっと見ると、まるで子どもが書いた文字のようだった。しかし、子どもの場合には不器用でぎこちないという表現が当てはまるのだろうが、ハンナが克服しなければならなかった抵抗のあとを見ることができた。あっちこっちへそれたがる子どもの手は、文字のきまりのなかにとじこめておかなければいけない。しかし、ハンナの手はどこへも行きたがっておらず、無理矢理前へ進ませなければならなかった。文字を形成する線は、上へ行ったり下へ行ったり弧や輪を描いたりする際にぷつぷつと途切れ、また新しく書き始められていた。どの文字も、新たな戦いの成果であり、規格外の斜線や急カーブがくっついていたし、しばしば長すぎたり幅が広すぎたりした。
ぼくはハンナの手紙を読んだ。そして、歓喜に満たされた。
「彼女は書ける、書けるようになったんだ!」
それまでの何年にもわたって、ぼくは文盲についての記事を探しては、目を通してきた。文盲の人々が日常生活を送る際の寄る辺なさや、道や住所を見つける際の困難、レストランで料理を選ぶときの大変さ。与えられた規範や確立されたルーティーンに従う際の不安や、読み書きできないことを隠すために、本来の生活とは関係のないところで費やされるエネルギー。そうした事情をぼくは知るところとなった。文盲であるということは、市民としての成熟に達することができない、とうことだった。ハンナが読み書きを習う勇気を持ってくれたことは、未成熟から成熟への一歩を踏み出したことでもあり、それは啓蒙への一歩だった。
それからぼくはハンナの筆跡を見、書くことが彼女にとってどれほどの力と戦いを必要とすることだったかを理解した。彼女を誇らしく思った。と同時に、その努力が遅すぎたことや、彼女の人生が失われてしまったことを思って悲しくもあった。正しいタイミングを逸してしまい、あまりにも長いあいだ拒んだり、拒まれたりしていたら、最終的に力を注いだり、喜びを持って取り組んだりしたとしても、もう遅すぎるのだ。それとも「遅すぎる」ということはなくて、単に「遅い」というだけであり、遅くてもやらないよりはましということなのか?ぼくにはわからない。
最初の挨拶のあと、次の手紙が一定の間隔で届くようになった。いつもほんの二、三行で、お礼とか、あの作家の作品がもっと聞きたいとか聞きたくないというような希望とか、ある作家や詩、ストーリーや小説の登場人物についての感想、刑務所で気づいたことなどが書かれていた。「中庭ではもうレンギョウが咲いています」とか、「この夏は雷がたくさん鳴るのがいいですね」とか、「窓から鳥たちが南へ渡る準備をして群れているのが見えます」など。ぼくはよく、ハンナからの手紙のおかげで初めてレンギョウや雷や鳥の群れに気づいたものだった。文学についての彼女のコメントは、しばしば驚くほど正確だった。「シュニッツラーが吠えるのに比べて、シュテファン・ツヴァイクは死んだ犬のようです」とか、「ケラーには奥さんが必要ですね」とか、「ゲーテの詩はきれいな額縁に入れた小さな絵のようです」「レンツはきっとタイプライターで書いているのでしょうね」など。彼女は作家について何も知らなかったので、そんなことはあり得ないとはっきりわかる場合を除いて、多くの古い文学作品がまるで今日の話のように読めることや、歴史の知識のないものから見れば、過去の生活環境というのは、遠い地域にいまでも存在している生活環境として理解できることを知って、ぼくは驚いた。
ぼくからハンナには何も書かなかった。しかし、朗読テープはどんどん送り続けた。一年間アメリカに滞在したときも、そこからテープを送った。休暇で出かけるときや、特別仕事が忙しいときには、次のカセットが完成するまでに間があくこともあった。決められたリズムではなく、毎週テープを送ることもあれば、十四日で一本、あるいは三、四週間で一本ということもあった。字を読めるようになったハンナにはぼくのカセットはもう必要ないのではないか、と頭を悩ませることはなかった。彼女が自分で読むことは構わない。朗読がぼくの流儀であり、彼女に対して話しかけ、ともに話をする方法だった。
彼女からの手紙は全部とっておいた。筆跡は変わっていった。最初、彼女は文字を同じ方向にそろえ、正しい長さや幅にしようと奮闘していた。それができるようになってからは、筆跡も軽く、確かなものになっていった。しかし、流れるような筆跡になることはなかった。しかし、生涯にそれほど字を書かなかった年配者たちの筆跡にふさわしい、ある種の厳しい美しさがその筆跡にはあった。

以上引用 -----

ハンナは18年(映画では20年)の服役の後、釈放されることになりました。年老い身寄りのないハンナを案じる女性刑務所長は、唯一ハンナと手紙の遣り取りをしてきたミヒャエルに『ハンナの社会復帰を手助けして欲しい』との手紙を送ります。
そしてハンナの釈放一週間前、ついにミヒャエルは、ハンナが住む刑務所を訪れ、四半世紀振りに二人は対面します。

以下、本文の抜粋 第3章8節 -----

ハンナ? ベンチに座っている女性がハンナなのか? 灰色の髪で、額にも頬にも口元にも深い縦皺が刻み込まれ、重たげな体つきをしたこの人が? 
 ~
ぼくは彼女の顔に浮かんだ期待と、ぼくを認めたときにその期待が喜びに変わって輝くのを見た。近づいていくと彼女はぼくの顔を撫でるように見つめた。彼女の目は、求め、尋ね、落ち着かないまま傷ついたようにこちらを見、顔から生気が消えていった。ぼくがそばに立つと、彼女は親しげな、どこか疲れたようなほほえみを浮かべた。
「大きくなったわね、坊や」
ぼくは彼女の隣に座り、彼女はぼくの手を取った。

「出所できると聞いてうれしいよ」
「ほんとうに?」
「そうだよ、それに、近くに来てもらえるのもうれしいよ」
ぼくは彼女に、自分が見つけたアパートと仕事の話をし、その地区の文化的・社会的催しや、市立図書館のことを話した。
「本はたくさん読むの?」
「まあまあね。朗読してもらう方がいいわ」
彼女はぼくを見つめた。
「それももう終わりになっちゃうのね」
「どうして終わりにする必要がある?」
そう言ったものの、ぼくは彼女にこれからもカセットを送るとか、会って朗読するとかいう相談はしなかった。
「君が字を読めるようになって、とてもうれしかったし感心したよ。なんて素敵な手紙を送ってくれんたんだろう!」
これはほんとうだった。ぼくは彼女が字を覚え、手紙を書いてくれたことで、感心したし、喜びもしたのだ。しかし、ハンナが読み書きを覚えるために払った犠牲に比べたら、訪問したり、一緒に話をすることさえしないぼくの喜びなど、なんてちっぽけなものなのだろう。ぼくは彼女を小さな隙間に入れてやっただけだった。その隙間はぼくにとっては重要だったし、ぼくに何かを与え、ぼくもそのために行動はしたが、隙間は隙間であって、人生の中のちゃんとした場所ではなかった。

「裁判で話題になったようなことを、裁判前に考えたことはなかったの? ぼくたちが一緒にいたとき、ぼくが君に朗読したとき、そのことは考えなかったの?」
「それがとても気になるわけ?」
彼女はぼくの返事を待たずに続けた。
「わたしはずっと、どっちみち誰にも理解してもらえないし、わたしが何者で、どうしてこうなってしまったかということも、誰も知らないんだという気がしていたの。誰にも理解されないなら、誰に弁明を求められることもないのよ。裁判所だって、わたしに弁明を求める権利はない。ただ、死者にはそれができるのよ。死者は理解してくれる。その場に居合わす必要はないけれど、もしそこにいたのだったら、とりわけよく理解してくれる。刑務所では死者たちがたくさんわたしのところにいたのよ。わたしが望もうと望むまいと、毎晩のようにやってきたわ。裁判の前には、彼らが来ようとしても追い払うことができたのに」
ぼくが何か言うかと彼女は待っていたが、ぼくには何も思いつかなかった。

「来週迎えに来るよ、いいね?」
「ええ」
「静かに来ようか、それとも少しにぎやかに、愉快にしようか?」
「静かな方がいいわ」
「わかった。静かに、音楽もシャンペンもなしで迎えに来るよ」
ぼくは立ち上がり、彼女も立ち上がった。ぼくたちは互いに見つめ合った。二度ベルが鳴り、他の女たちはもう建物の中へ入っていった。ハンナの目はもう一度ぼくの顔をなぞった。ぼくは彼女を抱きしめたが、しっかりとした手応えなかった。
「元気でね、坊や」
「君も」
そうやってぼくたちは、建物の中で別れる前に、別れの挨拶をしたのだった。

以上引用 -----

ハンナは、彼女はミヒャエルが迎えに来るその日の早朝、自殺します。
彼女は遺書を彼に残しました。彼女の部屋の中においてある古いお茶の缶に残っているお金と、銀行に入っている七千マルク(1990年半ばのレート換算で1マルク約65円、7000マルク≒約45万円)を、教会の火事で生き延びた娘さんに渡して欲しい。そのお金をどうするかは、その娘さんに決めて貰って欲しい、という遺志と、そして、ミヒャエル・ベルクに、私からからの挨拶(I seds "Hallo")を伝えて下さい、という内容ででした。
彼は、彼女の遺志を叶えるため、現在はニューヨークに豪奢なオフィスを構えるまでになった、かつての生き残った少女に会いに行きます。かつての少女は、お金は受け取らなかったものの、彼から文盲者の読み書きを支援するために使うのはどうか、とう提案を「文盲は、ユダヤ人には似つかわしくない問題かもしれないけれど」という言葉を付け加えながら了承します。
彼は、ハンナのお金を彼女の名前で寄付し、その足で、初めてそして最後となる墓参りに出かけました。

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誰もが人には言えない、話したくない、知られたくない秘密は二つ三つはあるでしょう。
しかし、日本語はまあ普通に扱える私にとって、ハンナの文盲として、さらに重い不幸を背負い込んでも一生隠し通したいという恥の気持ちは、何度本を読み返しても、映画を観ても、理解しがたい点です。
ハンナは仕事も日常生活もきっちりとこなす、几帳面でそしてとても真っ正直(バカ正直?)な性格です。また自尊心も相当に強そうです。にもかかわらず、出来ない事を出来る様にするという向上心が見られない。もしかしたら、あの時代が、体制が、思想が、彼女から向上心を奪ってしまっていたのなら、とても不幸なことです。またそれが真理だとするならば、現代に生きる私たちが直面している状況、政情不安、世情不安、格差社会の到来、それに伴う教育差別、就労差別が、近い将来、大多数の人々から、向上心のみならず、夢や希望まで奪いかねないとしたらそれこそ大変な問題です。
この様な問題は、広く世間に呼びかけ、訴えかけて、改革の運動へと繋げなければいけない、そう思います。但し、現在、中東諸国で起こっているような、武力闘争は断固反対ではありますが。


最後に、映画『愛を読むひと』について書きます。
この映画は、本の第一章に当たる、前半部で性行為が具体的に描かれ、性器も隠されることなく、ぼかされることなく、写っています。社会派ドラマ作品として私が観た映画では、『シンドラーのリスト』とこの作品だけではないかと思います。
物語のあらすじ、第一章で表現した、あけすけな、ありのままの日常を切り取った場面や、登場人物の仕草、会話からエロティズム以上に内面の葛藤が裸である故か、ストレートに伝わってきました。

そして後半部、ミヒャエルが迎えに来る当日の早朝にハンナが自殺するシーン、本では描かれていないプロットです。彼女は自室の本棚から分厚い書籍を数冊抜きだして、机の上に平積みします。そして、靴を脱いで、その本の上に素足を置き、首つり自殺を図ります。
彼女の死の理由について、原作では刑務所長の一般的な意見として、『長期収監された者にとって、社会復帰は相当なストレスとなる』で彼女の死を暗示します。
しかし映画では、ミヒャエルからの朗読テープを聴き続ける内に、自分で本を読みたい、彼に朗読の感想を伝えたたい、彼と気持ちを通わしたいという欲望が芽生え、彼女はミヒャエルの朗読と彼が読む本を図書室から借りて、単語を一つ一つ数えながら覚えるという戦いを始めます。そして、彼からの荷物を受け取る際のサインですが、始めの頃は、ただの波線であったものが、やがてしっかりと"Hanna"とサインできる様になります。彼女が文盲を克服したサインです。彼女は文盲を克服し、彼女の旺盛な読書欲はいつしか文字の源泉である書籍を従わせるまでになります。それが、先の彼女の死の所作で表現されていると思います。
彼女は、文盲という頸木を下ろし、ついに彼女を抑制するものから開放されます。と同時に、彼女は、自ら、罪を精算すべく進んで死を選びます。彼女は逃げるのではなく、前に進むために自死を選択したのだ、そう映像作家は語っていると思います。

[The Reader Official Web Site]
http://www.thereader-movie.com/

少年時代のミヒャエルを演じたダフィット・クロスは、ひ弱さ、優柔不断さとともに、彼女を知る事で、彼女から褒められることで、自信や自立心も芽生える、そんな難しい役どころを感情豊かに演じていました。
ハンナ・シュミッツを演じたケイト・ウィンスレットは、ほぼデビュー作品といっていい1997年の超大作『タイタニック』から14年、闊達なうら若きレディーから、一転、闇を抱える中年女性を時に大胆に、時に切なく演じていました。ケイトはハンナを36歳から70歳まで演じました。壊れてゆく、年老いてゆく女性を切々と演じていました。
そして、大人になったミヒャエルを演じたのがレイフ・ファインズ。『シンドラーのリスト』で演じた非情な収容所長アーモン・ゲート役が今でも強烈な印象として残っていますが、『イングリッシュ・ペイシェント』の飛行機事故で大火傷を負った影のある男、『ナイロビの蜂』で世界的な製薬会社の陰謀を暴く外交官、など様々な社会派ドラマで重要な役どころを演じられています。その演技は素晴らしいの一言です。ファンタジー作品では悪役が冴え、『ハリーポッターシリーズ』ではヴォルデモート卿、ギリシャ神話の英雄ペルセウスの活躍を描いた『タイタンの戦い』では、冥土を司る神ハデスと、善悪を描く物語で強烈な悪を演じ、対峙する善を引き立てています。
監督はスティーブン・ダルドリー。作家ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ婦人』から着想を得て書かれ1999年ピューリッツァー賞フィクション部門を受賞したマイケル・カミンガム作『めぐりあう時間たち』を見事に映像化した素晴らしい才能の映画人。次作となった本作も、ベストセラーのエッセンスを余すところなく取り込むという離れ業とともに、複雑な心理描写を、しっかりと映像に表現されていました。
ミヒャエルとハンナが自転車旅行した旅先の教会でハンナが子どもたちが歌う賛美歌に涙するシーン、裁判所で筆跡鑑定のためにペンと用紙を渡されたシーン、そして二人が再開するほんの短い時間の中での会話のシーン、三度も泣かされてしまいました。

映画ではもう一つ、小説では描かれていない、ミヒャエルのひとり子ジュリアとの和解が描かれています。ミヒャエルがハンナを永遠に失った後、ラストシーンで家族への愛を取り戻そうとする場面です。ミヒャエルの心の再生、明日への希望を伺わせます。


是非、『朗読者』手に取って読んでみて下さい。映画『愛を読むひと』を観賞してみて下さい。ミヒャエルとハンナが美しい朗読を貴方に届けてくれることでしょう。

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