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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2010年9月11日土曜日

料理のリベンジ

9/9、長男18歳誕生日で料理をしたとき、大量にスパゲティーを茹で、まだ普通サイズのホーロー鍋に軽く一杯余ってしまいました。
そこで、9/10(もう昨夜となりますが)、残ったスパゲティーを使い切り、かつ誕生日の料理の失敗を取り返す為、連日の夕食作りと相成りました。
作るのはスパゲティーグラタン、昨日と同様に、食材を買いにスーパーマーケットに行き、ハインツのグラタンソースを2缶、マッシュルールの代わりにしめじを1パック、鶏肉そして濃厚牛乳を買いまして、家にあったタマネギ2個を足して、いざ調理。
オリーブ油で大まかにカットした鶏肉を炒め、次にタマネギを、そしてしめじを順に炒めて、グラタンソースの中に入れ、固形コンソメを2個砕いて入れて中火でグツグツ煮、ほどよく煮立ったところで、
グラタン皿にスパゲティーを盛りつけて、上からたっぷりグラタンソースを掛け、最後にグラタン用チーズをたっぷり掛けて、オーブン・レンジへ。
そこでまた判らない、オーブンかグリルか、時間は…、よくオーブン・レンジの操作盤を見たら『5.グラタン』という表示が目に留まり、それにセットし、待つ事15分くらいかなぁ、
出来上がりました。
子供らの感想も上々で、リベンジは何とか勝利したようです。

2010年9月9日木曜日

長男18歳の誕生日に、夕食を作りました

今日、2010/9/9は、長男の18歳の誕生日。ということで、久し振りに夕食を作ることにした。
得意料理!?はスパゲティー、カリー、そしてクラムチャウダー、全て私が大好きなメニューなのです。
今日は、スパゲティー・ボンゴレペペロンチーノに挑戦しました。
ということで、スーパーマーケットに買い物に行き、ボンゴレ・ソースとペペロンチーノ・ソースの箱の裏で材料を確認し、ソースは買わずに、生きアサリを2パックに、しめじ2パック、鷹の爪、そして七束入りの乾燥パスタを購入。
まずアサリを塩水に入れて50分砂出し、それと並行して、唯一自分で買ったパスタ鍋に水を満杯に入れて湧かし…、ふと戸棚を見ると前に使い余ったパスタが三束あり、子供と私(特に私)がいるのだから、8束くらい食べるわなと思い、湧いた湯の中に次々とパスタを放り込み、木製へらでかき混ぜる事約10分、そこで直ぐに湯切りをしなかったのがいけなかった(いけなかった理由その1)、そして茹でたパスタを放って、鷹の爪を8個、ニンニク10かけをスライスして、オリーブオイルを多めに入れた鍋に入れて炒め、次に砂出ししたアサリ、しめじとつぎつぎに入れて炒め…味見をすると、辛いの大好きな私でさえ、痺れるほどの辛さ、これはいかんと、つい水を大目に入れたことがいけなかった(いけなかった理由その2)、
長男だけが学校から帰ってきたので、早速盛りつけ、食べさせたところ、怪訝な顔、もしやと思って自分も皿にパスタに盛り(この時点で気付きましたが時既に遅し)、スープを掛けて食べたところ、
ふやけた麺の何とも言えぬ食感と辛いだけで味が薄い。
台所には、3名分どころか、まだまだ6名はいけそうな程の量のパスタが残っている。
これでは、帰ってきた妻にどやされそうです。
最初に、息子の為に皿に盛りつけたパスタを写メしました。見た目はまあまあでしょ、ハハハ



湊かなえ著『告白』読後感想

書名:『告白』
著者:湊かなえ著
分類:ミステリー小説
出版:双葉文庫

本を買って、一気に読み切りました。


第一章、森口悠子先生の『告白』、独白は、章の最後、独白が終わるまで、その教室にいて、独白を実際に聴き入っている様な錯覚、臨場感、緊張感を覚えました。

本を構成する六章それぞれに、事件の当事者、関係者の告白が述べられていますが、第三章以外は、独善的で身勝手、そして躊躇のない行動をひたすら肯定しながら語る独白には、思量深さや迷いが微塵もなく、暴走列車の如く、破滅へ一気に進んでいく恐ろしさを覚えました。

そして、物語のエンド、救済はなされず、最悪なシナリオで物語の幕が降りました。


何気ない日常の風景、どこにもいる登場人物・・・、告白がなければ、事件は時間の経過と、新しい事件の発生と共に、いつのまにか闇の彼方に忘れ去られてしまう事を、私たちはこれまの現実社会であった過去の重大事件、猟奇事件で何度も経験しています(忘れ去っています)。

湊かなえさんの本は、この『告白』が初めてでしたが、日常に潜む狂気を題材にして、問題提起され、深遠な議論が沸き上がることを狙っておられるのではないかと感じます。

実際に、中高生のロングホームルームやタウンミーティングで話し合う、良いテーマではないか、と思います。

昨今は、コミュニケーション至上主義といわれるほど、コミュニケーションの大事さが声だかに叫ばれ、誰もが実践しているものの、実際は、携帯メールがその実態を明らかにしているように、本質は、稚拙で身勝手、一方通行で、およそ相互理解を前提とするコミニュケーションからかけ離れたものに成り果ててしまっていると思います。

その恐ろしさ、それがこの本で描かれている恐ろしさの本質だと感じています。

映画鑑賞・感想『inception -インセプション-』

『inception -インセプション-』
クリストファー・ノーラン監督作品
レオナルド・ディカプリオ、渡辺謙出演
観賞日:2010/9/1(映画の日)ワーナー・マイカル・シネマズ加古川

他者の夢、深層心理に侵入し、アイデアを盗む、もしくはある意志を植え付ける。階層化された深層心理の最下部まで潜り(ダイブ)、クライマックスでは、現実世界、ターゲットの夢の世界(それも三階層)、そして主人公の夢の世界と、5つのパラレルワールドが階層のルール(創造世界では、階層が深くなるほどに時間の流れが遅くなり、かつ世界がもろく不安定になっていく)に従って、同時進行で描かれる様は、ジェットコースターどころか、並列コンピュータになって、演算させられている様な異常なほどの興奮と歓喜の連続だった。

また、事前に仕入れた映画紹介でCGだけには頼らず、大がかりな仕掛けとアクションも見所、という点についても、一級品であった。

エンドロールが流れる間、キューブリックの『2001年宇宙の旅』を劇場でリバイバル上映を見終えた時と同じく、映画のクライマックスを何度も頭の中でめくり、まずはしっかり見たことを記憶に留めることに努めた。全てを解き明かすには、暫く時間が掛かるだろう。

7月末に上映が開始されたこの映画、すぐにでも見たかったが機会を逸し、9月になった。これほどまでに、好評で上映期間が長い映画を作ってくれた、希代のストーリーテラーかつ映像作家のクリストファー・ノーランに感謝したい。また、ラストシーンで、クリスは私達にプレゼントを与えてくれた。『これは現実か否か』、心憎い映画である。

民主党代表選に対して - 今、大切なのは言論ではないのか?

日本国民の多くが、希望を失いつつある現実に対して、立法府、行政府はもとよりメディア、特に言論の砦であるはずの新聞さえ、右から聞こえた情報を左に伝えるだけの伝書鳩でどうするか。
評論に終始して言論を滅ぼすのか。

民主党は、国家の危機に直面して尚、お家騒動に終始している。
何故に糾弾しないのか。

伝えるだけのメディアに価値などない、何故言論しないのか。

もはや死に体の日本に付け焼き刃の処方など、意味がない。
経済はグローバル化しているのに、乗り遅れた国内の産業界に雇用を押しつけても、誰が国に変わって国民を救済できるのか。

世界最高といわれる貯蓄とて、殆どが海外に流出して、換金などできるはずもなく、また、国内に残された蓄財も、年金支払いや、寿命に近づいたライフライン、道路・鉄道などの公共建造物の修復で瞬く間に尽きてしまうであろう。

平成21年に食糧自給率が40%まで落ち込んだ日本が、現状のままでは自力で国民を守れるはずが無い。

今大切な事は、言論である。力のない小さなものでも、この国の現状、将来を憂いでいる。

自分の言葉で、この国を救おうとする志士を私は求める。
この国のために、命を投げ出す覚悟で、言論し、行動するものを私は求める。

私は力のない小さなものであるが、以下は、私の言論である。

まずは、国民を生かすための食糧自給率100%を目指すことではないか、それが最低限の国民への補償であり安心である。

そして、新しい産業の創造である。世界中をマーケティングの対象として、早急にしかも十分に吟味された、欲求・価値をリサーチし、実のある新しい産業の創造を、日本の持てる力を総動員して行うことである。

最後に、知性・探求・礼節を重んじた教育、真摯さ・志・心の豊かさを育む教育の実践である。
さらにいえば、教育をビジネスから引き離さなければならない、

次代の担い手を育成するのは国家の義務であり、永続の礎だからである。

岩崎夏海著「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」読後感想

書名:「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」
著者:岩崎夏海著
分類:ドラッカー・マネジメントのケーススタディー&青春小説
出版:ダイヤモンド社(単行本)

※この本は、8/22(日)鹿島中野球部の淡路遠征(第10回うずしお招待新人野球大会2日目の準決勝で、神戸市立住吉中に惜敗した)帰路のバス中で、顧問の先生から『面白いから読んでみる?』と渡されて、読みました。
『感想文宿題ね』と冗談で言われ、9/1(水)に提出しました。以下、その感想文の内容です。


岩崎夏海著「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」は、20世紀の知の巨人と称された、P.F.ドラッカーが提唱した『マネジメント論』を、弱小高校野球部をモデルとして書かれたケース・スタディー・テキストといえよう。

P.F.ドラッカー自身、当時(1970年前後)のGE、或いはGMといったアメリカの巨大企業・組織をケース・スタディーする事によって、『ドラッカー・マネジメント』を導き、大著『マネジメント』として世に発表した。

『ドラッカー・マネジメント』は、原理・原則、或いは基礎・基本を提唱したものであって、特定のマーケットやビジネスに特化した手法を説いたものではない。
たとえ大企業であっても、巨大な組織であっても、それは小さな組織・チームの集合体であり、最小単位は個、つまり人である。それ故『ドラッカー・マネジメント』は、様々なマーケット、ビジネス、或いはビジネス以外(NPO、行政機関等)と、様々な組織で応用が可能なのである。
そしてもう一つ、それは活動期間である。企業等、殆どの組織は永続的な活動、成長を望んでいる。その為に短期、中長期の達成目標を立てて活動している。しかし、組織のところで述べた様に、マーケットもビジネスも人の集合体であり、生きものである、うねりである。そのため、適正な周期で、PDCA手法、つまり、Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)を繰り返す、つまり改善という舵を取り続けなければ、現在の位置や目標の方位を見失う羽目になってしまう。
株式企業の場合、年度毎に株主、つまり出資者に業績を報告すればよい。しかし、現実は、四半期どころか、月単位、週単位、いやそれよりも短い周期で、業績評価・分析を行い、活動手法・戦略を見直し、或いは達成目標の見直しを管理している。

さて、本書である。
ポジティブで活発・利発な女子高生の野球部マネージャーが、P.F.ドラッカーの『マネジメント・エッセンシャル版』を指南書として、弱小野球部を夏の甲子園に出場させるまでに成長させる物語である。
『ドラッカー・マネジメント』を応用して、弱小野球部という組織を、一年という活動期間で、甲子園に出場させるのである。荒唐無稽、或いはファンタジーである。
しかし、主人公である野球部マネージャーのみなみが、ナビゲーターとして読者を誘導し、そして物語中では忠実なる『ドラッカー・マネジメント』のマネジャーとして、登場人物を活かし成長へと導く。青春小説として、二・三の感動的なエピソードが実に巧みに挿入されてもいる。

そして、私が一番感心したのは、配役の妙である。
『ドラッカー・マネジメント』のケース・スタディーとして、配役が妙なのである。
『ドラッカー・マネジメント』は、大きくマーケティング、そしてイノベーションで語られる。
ドラッカーはマーケティングについて、顧客の現状・要求・価値、即ち今どういった状況に置かれ、現状に対する不満や更なる欲求、そしてどの様な価値基準を抱いているかをリサーチし、そして評価・分析して、真に顧客が求めるサービスを見極めて提供する事である、と語っている。
物語の前半、親友の夕紀と共に、野球部員、もうひとりのマネージャー文乃、野球部監督を顧客としてマーケティングが進められ、各自から、現状・要求・価値を引き出し、各自の欲求に答える組織に野球部を再建し、各自が求めていた役割、モチベーションを与えて、やる気のある組織に作り替える。
マーケティング活動のテキストとして、申し分ない配役設定である。

しかし、そこまでして初めて、みなみは、やはり甲子園の道は遠いと自覚する。

そしてイノベーションの登場である。
ドラッカーはイノベーションについて、全く新しい価値・戦略の創造、と語っている。そして、その新しい価値・戦略が組織内だけではなく、組織外にも影響をもたらすこと、と語っている。
物語の終盤、野球部のトップマネジメント・メンバー(野球の専門家である加地監督、加地の通訳として参画し、いつかマネジメントの面白さに目覚めていく秀才の文乃、起業家を志す野球部員の正義は、次々と改革を立案し実行する)は、(そして)現代野球の常識を打ち破る『ノーボール、ノーバント』(投手は全てストライクを取りにいき、打者はバントをせずに、相手投手の投球を見極め、ストライクがきたら打ち返す)戦略を打ち出し、程高野球部は、夏の都大会までの短い期間に、これまでの常識的な野球を捨て、新しい戦略に特化した練習のみに打ち込んだ。

そして、強豪校を打ち破って、『甲子園に行く、連れて行く』というみなみの目標が達成される。

ドラッカーは『マネジメント論』の中で、あらゆる組織において、存立の定義付け、そして役割を明示することが不可欠と説いている。組織の一体性と志向性が統一されていなければ、どんなに小さな組織、チームでさえ、一歩も前には進めないのである。

そして、組織の活力は、その組織を構成する人を活かす、働きがいを与えることと説いている。適材適所で個々が持つ強みを活かし、責任を与え、競争させ、結果に対して賞罰を与えること、と説いている。

最後に、ドラッカーは『マネジャー』の資質として、スキルは学習や経験で補うことができるが、マネジャーとして、重く厳しい責任(人事や賞罰を行使する等)を全うするための『真摯さ』、この『真摯さ』が、最初から備わっていなければならない、と忠告している。

責任ある立場の者は、誰であれ、この『真摯さ』を備え、かつ常に自分を律しなければならない。
そして、付け加えるならば(ドラッカーの金言に、私事を付け加えるとは何とも大胆不敵で真摯さのかけらもない行為であるが)、『志』であろう。今年の大河ドラマでは、幕末の英雄『坂本龍馬』を主人公とした物語を描いているが、龍馬を含め、当時の志士達は、短い生涯を、ただ『志』の一字の為に、奔走し、命を投げ出した。
ドラッカーの『マネジメント』に触れ、『真摯さ』と同格に『志』がなければならないと強く感じた。
もし、ドラッカーが日本人であったならば、幕末期の志士の心根に触れていたならば、きっと『真摯さ』と共に『志』を記したのではないかと、思わずにはいられない。