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「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」

8時15分、町に鳴り響いたサイレンを合図に、広島で原爆によって殺された被害者に黙祷を捧げました。 74年前の1945年(昭和20年)8月6日、広島市は快晴でした。 1944年(昭和19年)の秋からアメリカ軍による日本の都市部への無差別絨毯爆撃が始まりました。広島市上空にも何...

2025年6月14日土曜日

母郁子が、今朝2時15分頃に永眠しました。

夜半から母が横たわる介護ベッドの側で見守っていた姉は、その瞬間の様子を、水がすっと落ちるが如く、また鹿威しが水が満ちてコツンと切りの良い音を立てるが如く、瞬間にスッと目を閉じ、それに呼応するように、胸のかすかに続いていた揺れも止まったとその情景を描写しました。すぐに家族は銘々の部屋から母が眠る部屋に集まり、姉の描写を聞いて、良い最後の時を、母の旅立ちを感謝し、喜び、安堵しました。

1925年、大正14年7月28日生まれの母郁子は、享年百一歳、満年齢では百歳に一ヶ月ちょっと足らない99歳の大往生を遂げました。

 

2025年6月13日金曜日

人はパンのみにあらず

3月3日、誤嚥からの発熱と重篤さを増した心不全症状により、完全寝たきりで水分補給しか出来なくなった母ですが、奇跡的にとでも云うか、誤嚥が引き起こした諸症状は治まって、そして比較的安定した状態で3ヶ月間を過ごして来ました。
しかし、日曜日の夜に衰弱が一段進み、頼みの綱であった水分補給が難しくなりました。そして五日が経過しました。
火曜日に母の様子を見に来て下さった訪問診療の医師から、次回の定期訪問日の予定日である16日を迎えることは厳しいと話を伺っていましたので、いよいよかと云う気持ちで、母を今見守っています。
「人はパンのみにあらず」という言葉は、キリスト・イエスが山頂の垂訓として弟子たちに語られた御言葉の一節ですが、この御言葉の意味を、この数日で私は母から気付かされました。
この五日間、スポンジで口元を湿らせる程度しか出来ていませんが、その分というか、私が大切に思う聖書の箇所や曹洞宗の教文などを繰り返し母に声を出して届けています。妻も同じように母に御言葉を届けてくれています。
この言葉が、母の命の火を灯し続ける糧となっているのだと、母を見て本当に実感します。