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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2013年9月24日火曜日

ネット依存の処方箋

先日、明け方までオンラインゲームに夢中になっていた息子と、ちょっとした口論になりました。
私は息子に、「お前は、心が無い様に見える」と言いました。でも、 本当に言いたかったのは、「お前は、心がどこかに囚われているようだ」です。

息子はオンラインゲームを、「これも一つのスポーツ」と言います。仮想世界に集う仲間とチームを組んで、人型マシンを操作し、敵チームの人型マシンを倒すのです。激しい光線が放たれるモニターを凝視し、インカムで仲間と通話しながらゲームパッドを操作する。経験値と集中力が勝利を引き寄せることから、「一つのスポーツ」と見なすはできます。ですが、スポーツならば節度が必要です。節度をわきまえずに行えば、それは一種の暴力です。自分自身を破壊する暴力です。
長時間、緊張状態を続けて、激しく頭と目と指先だけを酷使すれば、頭と心と体の疲労度のバランスが崩れます。バランスが崩れれば、不眠や食欲不振に陥ります。若さと、昼夜逆転しても支障が無い身分(と錯覚している)であるから、まだ保っていますが、いずれは重大な健康被害に陥ると危惧します。

そして、それ以上に危惧するのが、本当に大切な物がどこにあるのか分からなくなる事です。本当に大切な物は、生身の肉体とそこに宿る心です。ですが、ネットに繋がれ、それが常習化すれば、まるでクラウドの牢獄に心が囚われたかの様になって、ネット依存に陥ります。
ネットは、もともと自由な空間です。実態のある支配者や王が存在するわけではありませんが、もしかしたら、ネット依存の者達の崇拝や恐れが、魔物を生み出したのかもしれません。そしてまやかしの技でネットが偽りの安息地となって、心が囚われ続けるのです。

ただ息子は、オンラインゲームに夢中なだけで、それ以外、ネットに支配されることはありません。ですが現在、多くの人々がスマートフォンの浸透によって、ネットに繋がれることを強要されています。職場活動、学校活動、クラブ活動、そしてサークル活動毎に、ネット上にバーチャルサークルが作られて、そこに伝言が延々と綴られます。その伝言を常にチェックしなければサークル活動について行けず、また伝言を発信しなければサークルの中での地位が低下する、という恐れが、私たちをネットに繋ぎ止めます。

私は、声を大にして言いたい事が三つあります。
一つは、私たちの一番大切な物は、生身の肉体とそこに宿る心だ、ということです。
ネットの彼方は、虹の彼方ではありません。希望も夢も存在しない、心の安息地でもありません。そこはクラウドの世界、膨大なデータの宿る冷徹なマシンの世界でしかありません。

二つ目は、私たちは、伝える行為にもっと真摯になろう、ということです。
私たちは、伝える相手に、正確に確実に伝言内容をを伝達しなければなりません。相手がしっかりと伝言を受け取るまでが、送る者の責任と自覚しなければなりません。無責任な伝言は、相手を混乱に陥れ、いつか自身が多大な損害を被ることになる事を自覚しなければなりません。

そして三つ目は、ネット利用のルールと節度を取り戻そう、ということです。
一昔前までは、電車の中、学校、また病院などの公共の場所でのネット利用には節度が重んじられました。それが今や野放し状態です。一事が万事で、あらゆる良識や節度が瀕死の状態に陥っていまっています。私たちの社会の安定を取り戻すためにも、ネット利用のルールと節度ある利用に立ち戻らなければいけないと思います。

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