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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年1月7日水曜日

人間の糧

人間が生きてゆく為には、必ず摂らなければならないものがあります。
空気であり、水であり、食物です。
ですが、これだけでは人間は生きられない。

人間は欲深い生き物です。欲を満たさなければ生きてゆけないのです。
欲のため生きている、といっても過言ではないでしょう。
ですから欲を満たさなければならない。
先に述べた食欲、そして性欲、腕力欲、権力欲・・・これだけでは人間と他の動植物との差異は無い。
しかし、人間が人間たらしめる欲があります。それが知識欲です。
これまでの知識を調べて、見つけて、学ぶ
そしてさらに新たな疑問を見つけて
また、調べて、見つけて、学んで、そして考える
その繰り返しで新たな知識を開くのです。

知識欲を広げる為には
知ること
定着させること
そして、伝えること
が必要です。
それを可能とするのが、社会です。
ですから、人間には社会が必要です。

では社会とは何か?
親子関係から始まり
家族という集合を作り
隣近所という小集団を形成し
やがてそれはどんどんと多くなって
やがて学びの場(学校)、糧を得る場(仕事場)
そして守る場(国家)へと広がります。

社会に所属する意義は、先の知識欲を広げる為だけではなく
安心を得るという事だと思います。
では人間にとって至福の安心とは何でしょうか?
それは「信頼される」という事だと思います。

信頼される社会に組している
これこそが、人間の最大の至福です。

信頼を得る為には、個人が費やす時間や努力が必要です。
でも、それだけで信頼は実現できるものでありません。
社会の側に、信頼を育む、信頼を良しとする土壌がなければなりません。

昨今、絆という言葉が大流行です。私たち人間は絆を安易に叫びます。
絆とは、社会の中の人間と人間を結ぶ血脈です。
そして絆は、真に信頼の具現化であるべきものです。

ややもすれば、安易に絆を持とうとします。
親子関係、友だち関係、恋人関係、そして仕事関係もあるでしょう。
しかし、安易に持った絆は、信頼の裏書きが無い事を悟らなければいけません。

信頼の無い絆ほど、不安なものはありません。
不安は、何を呼び込むか?
自分を守るという欲求です。そんな時、人間は暴力性と狡猾性を露わにします。

そしてもう一つは、
性急な信頼への欲求です。大いに自分を欲するものに惹き付けられて、身も心も捧げてしまうのです。たとえ信頼すると叫ぶものが人間で無いとしても、構わないのです。
そしてそれは既に実在します。
ネット社会です。
そしてネット社会に暗躍するものたちです。
最たるものがイスラム国ではないかと思います。

そして気付きます。気付かなければならないのです。
それは、真の信頼が保たれる実社会の再興です。
人間同士が、自他ともに愛し、信頼を育むために我慢し、努力する
そんな社会を実現し、維持し続けることを

現在、罪と罰は人間を吊し上げますが、本来罰は罪に対するものであり、人間に対するものではありません。人間は不完全な生き物です。ですから罪を犯します。罪でなく、人間を見ることです。
人間を見て、できうる限り罪を許して、活かす。そして、絆に見合う者に育て上げることです。
それが信頼を育む、信頼を良しとする土壌なのだと思うのです。

人間を人間たらしめる糧、
それは「信頼されている」という安心です。


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