若い親が、乳飲み子を殺すという事件です。
泣き止まないから、罰を下す。
しかし、泣くというのは罪ではありません。
罪は、子を泣かす親にあるのだと思います。
私は、体罰を一括りに「駄目だ!」と云うものではありません。
中学の頃、こんなことがありました。
クラブ活動が終わった後も、遅くまで体育館で遊んでいると
一人の先生がやって来て、
「今度見つけたらどつくぞ!」と口頭で叱られました。
そして先生は笑顔で、生徒を体育館から追い出しました。
それでも性懲りも無く、別の日また体育館で遊んでいると
その先生がやって来て、
「一列に並べ!」と号令をかけ、整列した生徒は一人ずつ思いっきりどつかれました。
生徒には大丈夫も弱虫もいましたが、皆歯を食いしばり鉄拳を受けました。
何故、こんなに素直に生徒は罰を受け入れたのでしょうか?
一つは、先生に信頼があったからです。
生徒を叱る一つにしても、その先生にはめりはりがあった。
一度は許し、しかし二度目は無い事を告げていました。
それから、どつくのにも一人として手加減はありません。
殴られる痛みは、そっくり殴る痛みでもあります。
それを何人もの生徒に行うのです。
そして生徒は、殴られても身から出た錆と分かっているのです。
仲間と痛みを共有するという連帯感もあった様に思います。
体罰は、行う側に真摯さと真心が必要です。
決して矛盾がなく、直球であること、別件を持ち出すこと無く
明らかな罪に対して、受ける側が許容できる罰をすぐに与える。
それが肝なのだと思います。
そして少しでもよこしまな気持ちがあれば
それは体罰なのではなく、罪であることを肝に銘じなければいけません。
公に罪を犯した場合、裁判にて罪の重さが計量され、罪に見合った刑罰が下されます。
刑罰には、
①金品を没収する
②身柄を拘束し、自由を奪う
③身体に苦痛を与える
④精神に苦痛を与える
そして極めつけが
⑤命を奪う
です。
しかし、たとえ公であっても、命を奪う刑罰を行う事には至極慎重です。
それは、たとえ罪人であったとしても、その命は尊いという通念があるからです。
それが親なら、先生などの指導者ならばなおさらです。
罰は、しっかりと計量して行う事
罰は、真摯な気持ちで行う事
罰は、真心を持って行う事
そして、痛みを分かつこと
それ以外は、罪であること
重々肝に銘じなければなりません。
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