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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年1月8日木曜日

体罰について

体罰が社会問題化して久しいですが、また凄惨な事件が起こりました。
若い親が、乳飲み子を殺すという事件です。
泣き止まないから、罰を下す。
しかし、泣くというのは罪ではありません。
罪は、子を泣かす親にあるのだと思います。

私は、体罰を一括りに「駄目だ!」と云うものではありません。
中学の頃、こんなことがありました。
クラブ活動が終わった後も、遅くまで体育館で遊んでいると
一人の先生がやって来て、
「今度見つけたらどつくぞ!」と口頭で叱られました。
そして先生は笑顔で、生徒を体育館から追い出しました。
それでも性懲りも無く、別の日また体育館で遊んでいると
その先生がやって来て、
「一列に並べ!」と号令をかけ、整列した生徒は一人ずつ思いっきりどつかれました。
生徒には大丈夫も弱虫もいましたが、皆歯を食いしばり鉄拳を受けました。
何故、こんなに素直に生徒は罰を受け入れたのでしょうか?
一つは、先生に信頼があったからです。
生徒を叱る一つにしても、その先生にはめりはりがあった。
一度は許し、しかし二度目は無い事を告げていました。
それから、どつくのにも一人として手加減はありません。
殴られる痛みは、そっくり殴る痛みでもあります。
それを何人もの生徒に行うのです。
そして生徒は、殴られても身から出た錆と分かっているのです。
仲間と痛みを共有するという連帯感もあった様に思います。

体罰は、行う側に真摯さと真心が必要です。
決して矛盾がなく、直球であること、別件を持ち出すこと無く
明らかな罪に対して、受ける側が許容できる罰をすぐに与える。
それが肝なのだと思います。
そして少しでもよこしまな気持ちがあれば
それは体罰なのではなく、罪であることを肝に銘じなければいけません。

公に罪を犯した場合、裁判にて罪の重さが計量され、罪に見合った刑罰が下されます。
刑罰には、
①金品を没収する
②身柄を拘束し、自由を奪う
③身体に苦痛を与える
④精神に苦痛を与える
そして極めつけが
⑤命を奪う
です。
しかし、たとえ公であっても、命を奪う刑罰を行う事には至極慎重です。
それは、たとえ罪人であったとしても、その命は尊いという通念があるからです。

それが親なら、先生などの指導者ならばなおさらです。
罰は、しっかりと計量して行う事
罰は、真摯な気持ちで行う事
罰は、真心を持って行う事
そして、痛みを分かつこと
それ以外は、罪であること
重々肝に銘じなければなりません。

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