播磨の国ブログ検索

映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2017年2月13日月曜日

沈黙-Silence- の感想

映画comで、マーティン・スコセッシ監督作品「沈黙-Silence-」の公開を知ってから、それからは毎日「観たいっ!」という衝動でうずうずしていました。
でも、つい物語のあらましをウィキペディアで確認してしまって、観ることに躊躇を覚えてしまいました。それは、遠藤周作の原作に触れなければ、本質には辿り着けないだろうという思いです。

主人公ロドリコ神父が棄教を前にして、はじめて聞いたキリストの声の真意は?(遠藤周作の真意は?)
そして
物語の重要人物と思われるキチジローは何者?

そして一週間前に、大阪に出かけた時に、天神橋筋の本屋で「沈黙」を買い求め、読み始めました。
そして、物語の中盤、ロドリコ神父がキチジローに欺かれ警吏の手に落ち、長崎近くの牢所に収監されたところで、もう堪らなくなり映画を観ることにしました。
小説は、映画鑑賞の翌日、読み終えました。


映画「沈黙-Silence-」は、この中盤辺りまでの描き方に戸惑いを覚えました。小説の文字が醸し出す吐き気をもよおすほどの汚さ、貧しさ、惨めさが、映像からは迫ってこないのです。ある意味、仕方がないことです。これは映画です。小説の中の、色の無い乾いた風景が、彩色された美しい風景として描かれます。恐ろしい海も、恐ろしい山も、恐ろしい夜も、息をのむほどに美しく描かれます。そして、これはアメリカ映画です。貧しく惨めなキリシタンの農民や漁民が、流ちょうな英語でロドリコ神父と会話をします。そこには、言葉もろくに通じずに孤独に追い詰められる神父の苦悩を観ることができません。
しかし、度重なるキチジローの欺きによってロドリコ神父が追い詰められる様子や、キリシタンが水の刑に処せられる場面には、言葉もでないほど苦しみが迫ってきました。背景の風景があまりにも美しく、残酷さがさらに際だって心に迫ってきました。

ロドリコ神父は、その後もキリシタンの残酷な最後を幾度と見せつけられ、ともに日本に密航した友、ガルペ神父のあまりにも惨めな殉教を眺め、そして棄教して日本人となった元フィレイラ神父と面会します。
そして遂には、目の前で殺され掛けている信徒の命を救うために、フィレイラ神父同様に棄教に至ることになります。
小説では、このシーンがクライマックスでした。ですが、映画ではさらにロドリコ神父が日本人となって、江戸の町の片隅で、年老い、唯一の家族となる日本人の妻に看取られて亡くなり、棺桶の中で、火を掛けられて焼かれるところで終わります。彼の手には、キリシタンから託された粗末な十字架が握りしめられていました。

そして、疑問であった
主人公ロドリコ神父が棄教を前にして、目の前の踏み絵に描かれたキリストが彼に掛けた言葉の真意ですが、
これはロドリコ神父が、ずっと気に掛けていた疑問の答えでもありました。
キリストは、欺いて警吏の手に引き渡した弟子の一人ユダに対して、「去って、なすことをせよ」という言葉を告げました。
これは、キリストがユダを切り捨てた言葉ではなく、ユダの苦しみをいつも共にし、充分に苦しんだユダに対して、後は私が頸木を負い続けるから、あなたは頸木を下ろしなさい。もう楽になって良いのだから、が真意でありました。
キリストがロドリコ神父に語りかけた言葉です。
「(踏み絵を)踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう十分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから」
キリストの慈悲に、心が震える思いがします。

そして、キチジローは何者?ですが
文庫本121頁に、キチジローへの想いに悩むロドリコ神父の告解が綴られていました。
「キチジローの言う様に人間はすべて聖職者や英雄とは限らない。もしこんな迫害の時代に生まれ合わさなければ、どんなに多くの信徒が転んだり命を投げ出したりする必要もなく、そのまま恵まれた信仰を守り続けることができたでしょう。彼等はただ平凡な信徒だったから、肉体の恐怖に負けてしまったのだ。」
「人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者と。聖者と平凡な人間と。英雄とそれに畏怖する者と。そして強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎に焼かれ、海に沈められることに耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ。もし司祭という誇りや義務の観念がなければ私もまたキチジローと同じように踏み絵を踏んだかもしれぬ。」
映画では、さらにキチジローは、荒野で瞑想するキリストの前に現れて誘惑するサタンの様に振る舞います。
キチジローは、自分は弱い人間だと叫んでは、ロドリコ神父に告解を求めます。苦しみの中でロドリコ神父は、司祭の務めとしてキチジローの告解を受け入れ、キリスト者として祝福を授けますが、毎回、裏切られ、司祭としての自らの無力さに打たれます。
でも私は、キチジローもある意味、強いキリスト者であるように思えます。
キチジローは、どんなに裏切りものと蔑まれても、生き抜く方を選びます。そして、彼の信仰の火は、陽炎の如くかもしれないけれど、決して消えることがない。そして、棄教したロドリコ神父を、いつまでも司祭として頼り寄り添います。


そして、この「沈黙」は、神父の苦悩に留まらず、あらゆる人々に共通する苦しみだと思います。それは過度な労働、過度な責務に苦しむ人々すべてです。
それぞれがロドリコ神父となって、この物語を通じて、頸木を下ろす事の罪悪感から解放される事ができればと願います。

0 件のコメント:

コメントを投稿