私の妻は、大学生であった頃に友人の誘いを受けて教会に通うようになりました。彼女は教会で聖書のメッセージに触れるなかで、ある日込み上げるほどの感動を覚えたそうです。それは、それまで何事にも引っ込み思案な性格であった彼女が、キリスト教の信仰への強い意志を固める切っ掛けとなりました。
そんか彼女と結婚することになった私は、特定の宗教に関わったこともなく関心を抱いたこともなく過ごして来ました。ただ、家庭内の躾や十代のころに関わることになった祭り等の神事、十代から二十代のころに数多く触れた書籍や映画などから影響を受けたと思われる、アニミズム的な信仰心というか畏怖の念を心に留めるようになっていました。
妻と結婚し、妻に付き添って教会に通うようになり、聖書を学んでみたいという気持ちが起こりました。丁度その頃は仕事に就いて十年目くらいで、進路への迷いや長時間通勤の疲労が顕在化し、精神的な不調や腰痛という悩みを抱えていました。ですから、信仰を持てば、救われるのか、救われたいという、非常に身勝手な答え探しをしていた様に思います。
時が過ぎ、色々な事があって、色々な経験をして、いま六十半ばをして信仰について思う事は、日本の曹洞宗の開祖道元禅師の言葉である「自未得度先度他」、つまり他者へのおもいやりを持ち続けることではないかと考えるようになりました。そしてこれは、聖書の福音書で語られるイエスの生涯に通じる信仰ではないかとも考えます。
私のこれまでの人生は、私の父母が経験した戦争で命を脅かされることもなく、誰かに隷属させられる様なこともありませんでした。しかし、現在の日本では人権が蔑ろにされ、市井の人々が隷属されるような状態がそこかしこに見られる様になってきました。学校は人間味を育む場所では無くなってきました。社会はますます閉塞感と孤独感、そして行き場の無い憤りが充満するようになってきました。戦争も身近に感じられるようになってきました。毎日ウクライナやパレスチナで何十人何百人という戦争犠牲者が生み出され続けています。しかし私たちは、私たちの身近な生活問題ばかりに感けて、戦争をいまだ対岸の火事のように扱い続けています。世界からはグローバルな視点が失われ、ナショナリズムやエゴイズムが台頭しています。行き着く先は戦争です。このままでは私たちも戦争にあっと言う間に呑み込まれてしまうことになるでしょう。
今こそ、「他者へのおもいやり」という信仰を、末法の時代にイエスや釈迦尊者が虐げられた人々に施された救いを、この世の隅々にまで届けなければいけないのではないかと考えます。キリスト教や仏教の修行者は、祖の教えや生き方に立ち戻り、利己的な大望の成就などは望まずに、「他者へのおもいやり」という信仰を、人々に、この世の隅々に生きる人々に届けると同事に、自ら率先して実践してほしいと願います。
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