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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2011年2月15日火曜日

映画鑑賞・感想『太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~』

昨日2月14日、 受験を終えた長男(18)と映画を観に出かけた。
2月11日(金)から公開された『太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~』である。

昭和初期、日本を支配した軍国主義、帝国主義狂信者達の暴走によって引き起こされた、近隣諸外国を恐怖に陥れた事変、侵略行為の果て、第二次世界大戦でアメリカを中心とする連合国と南太平洋で戦火をを交え、1944年7月、ついに日本の防衛線であったマリアナ沖海戦の敗戦に続き、防衛拠点であったサイパン島も圧倒的な物量、火力に勝る連合国によって奪還された。

この映画・物語は、このサイパン島の戦いで生き残り、サイパン島東端に位置する『タッポーチョ山』のジャングルに身を隠して、ゲリラ戦にて応酬し、1945年8月15日の昭和天皇肉声による無条件降伏と戦争終結を信ぜずに戦い続け、同年12月1日上官の降伏命令を受けて47名の隊員達と共に潔く降伏した大場栄大尉を中軸に置いた、人間ドラマであった。
この映画が特出していたのは、悪人を描かず、また、大場隊そして隠密行動を共にする現地に入植した民間人の視点、そして、対峙しついには降伏を促すために奔走するアメリカ軍兵士の視点、両視点からの二つのドラマを交互に織りなし描かれていた点である。
同手法は、2006年公開のクリント・イーストウッド監督が『硫黄島の戦い』を扱った連作『父親たちの星条旗(アメリカ側視点から描かれた映画)/硫黄島からの手紙(日本側視点から描かれた映画)』で完成したものだが、一本の映画で二つの視点のどちらかに比重が偏ることなく描ききったこの映画は、とても深みのある血の通った人間ドラマであった。

役者の演技がみんな素晴らしかった。大場栄大尉を演じた竹野内豊は、実在の大場栄大尉が元理科教諭であった史実から、理知的で且つ大尉らしからぬ誠実な人が持つひ弱さ、また隊員や民間人を気遣う優しさとともに、神代の兵士の上官の命に絶対服従を曲げられぬ狂気をも漂わせていた。
テレビドラマやバラエティー番組でよく『いじられる』役の多い酒井敏也は、民間人としてサイパンの戦いの最中二人の子どもとはぐれ、その生死もわからぬままに民間人捕虜収容所で過ごす、意志の強い父親を演じた。
中嶋朋子は、入植の地で、年老い病弱な母を看護する幸薄い、すこし呆けているような独身女性を演じた。
全ての役者が、ボロを着、顔も何もかも汚れながらの真実を追い求めた熱演であった。

映画表現についての感想であるが、
オープニングシーンのアメリカ軍がサイパン島に上陸するシーンは、スピルバーグ監督が『プライベート・ライアン』のオマハ・ビーチ上陸シーンでこれまでの戦争映画ではあり得なかった凄惨なまでのリアルさで描く手法が継承されていた。飛び交う機銃の弾丸が怒号とともに赤い光線を放って縦横に飛び交い、爆音が鳴り響く度に、私は体に稲妻が貫くような電気ショックを感じた。
また、同じくスピルバーグ監督作品である『シンドラーのリスト』から撮影としてチームに参加したヤヌス・カミンスキーが同じく『プライベート・ライアン』でリアルな戦闘シーンをクリアな映像ではなく、少し赤みを帯びた粗い映像表現と手持ちカメラで揺れる映像表現で、観衆が現場にトリップし、充血した眼で地獄を逃げ惑う錯覚を与える撮影表現も継承されていた。

そしてサウンドトラック、挿入歌『島崎藤村詩歌:椰子の実』が、南方の地で望郷の念にかられる日本人兵士、民間人の悲哀を切なくそして美しく印象的に高めていた。

ラストシーン、『椰子の実』が流れる中、収容所の裏の浜辺で、竹野内豊演じる大場栄大尉が、大場が敗走時、廃屋で一人生き残っているのを見つけてアメリカ軍に保護されるべく記を付け、その甲斐あって保護され1歳成長した幼子を抱き、その傍らに井上真央演じる、看護婦としてこの地に赴き、家族を殺され、アメリカ兵を憎みながらも幼子と出会い、幼子と共に生きる決心をした黒豹のような風体の女性が並び、遠望を見つめるシーン、漸く訪れた平安と何もかもを失った喪失感、そしてそれでも『生きて日本に帰ろう』という哀愁漂うシーンが、ただただ切なかった。

この『生きて日本に帰ろう』という台詞を聞いて、市川崑監督が渾身の力で二度描いた『ビルマの竪琴』を思い出した。ビルマ(現ミャンマー)の密林を敗走し、遂にはイギリス軍に投降した部隊の一兵卒で、現地の言葉が話せ現地の民族楽器である竪琴を持って斥候を務めていた水島上等兵が、ムドンの労働収容所に送られる部隊から離れ、三角山で抗戦する日本兵に降伏を促すべく向かうが、説得は叶わず、彼を残し三角山の兵士は全滅。
僧侶に助けられた水島は、髪を剃り僧侶に変装してムドンの収容所に向かうが、その道中、山中で、川縁で、置き去りにされた同胞の骸に数多く出会い、遂には日本への帰還を放棄して、この地で同胞の骸を手厚く葬る僧侶として生きる決心をする。ムドン収容所に収容されている戦友達が、明日、日本に帰還するという日、双子のオウムの片割れを肩に乗せて、収容所の外、格子鉄線を隔てて相対し、戦友からの「一緒に日本へ帰ろう」という懇願に対し、『埴生の宿』そして『仰げば尊し』を竪琴で奏でて別離を告げる。

この『ビルマの竪琴』は終戦後、竹山道雄さんが児童向けの小説として創作された物語である。
1985年に市川崑監督自身がリメイクし、音楽学校出の隊長を石坂浩二、水島兵を中井貴一が演じた映画を、兄と当時まだ存命であった父と三人で観た。
父清造は、20歳の前半から30歳前半までの約10年余り兵役に就き、海軍の一兵卒として、南方洋に赴き、商船の護衛艦に搭乗していた。何度も敵機の来襲を受け、体に二カ所機銃の弾丸で貫かれた傷痕があった。ひとつは左胸の上部、もうひとつは左足首踝あたりにあった。オーストラリア大陸を艦上から望んだ話も聞いた。戦争末期には、海軍陸戦隊としてニューギニアの密林を逃げ惑い、ついには投降して収容所で終戦を迎え、復員した。
当時の下級兵士は、洗脳と絶対服従を強いられ、命は自分のものではなかった。
前線に送られ、殺し殺され、地獄の中をさ迷った。『生きて日本に帰る』、誰もが望みはすれど、声に出すことは許されなかった。そんな時代であった。
父は時々軍歌を歌った。歌は決まって『ラバウル小唄』。夜、南の夜空に輝く南十字星だけが希望だった、そんな思いを込めて歌っていたのではないかと、今はそう思う。

昨年、NHK ETV特集で放映され話題となった『ハーバード白熱教室』のマイケル・サンデル教授をNHKが招待し、東京大学安田講堂で行われた『日本で正義の話をしよう』の公開講義は、本家ハーバードに劣らぬ活発で明瞭な白熱した議論が展開され、見応えがあった。3時間を超える講義は、休憩を挟んで二つのテーマで進行した。前半は『イチローの年俸は高すぎる?』で冨の再分配について議論し、後半では『戦争責任を議論する』で過去の世代が犯した過ちを償う義務があるのかどうかを議論した。
後半の議論では、
「責任はない」
「責任はないが、伝える義務は負っている」
「責任があり、賠償義務も負っている」
と、具体的な相反する意見で討論が繰り広げられた。

私は、この過去の戦争責任について次の様に考えている。
私たちは、過去の世代から命を繋いで今、生きている。過去の過ちにおいて、被害者への謝罪と賠償が完了しているのであれば、賠償責任はない、しかし、過去を繰り返さず、加害者、被害者の子孫、次代を担う者達が、手を携えて歩んでゆけるよう、記憶し伝え、より良き道を歩む義務を負っている、そう考える。
被害者が過去を許してなければ、いつか許され、信頼されるための努力を行う義務を、先の義務に加えて負わなければいけない、そう考える。

最後となるが、近代、特に先の戦争の時代において、人道的な行動をとった日本人がいた事、私たちは知らなすぎる。敗戦の後、戦争の歴史を封印してしまったことが原因であろう。悪しきもの、良きものも日本人自身が誠実に検証しなければいけなかった全てを放棄してしまったことが原因であろう。

スピルバーグの映画で、既に故人であったが一躍時の人となったシンドラー、そのシンドラーと同様に、イスラエルで正義の人として讃えられる日本人が故杉原千畝。彼は第二次世界大戦前夜、リトアニアの在カウナス領事館に赴任していたが、ドイツ・ヒットラーのユダヤ人排斥政策によりヨーロッパ中から迫害から逃れようとしたユダヤ人が、唯一の生き残る道、日本ビザを取得し、東回り、ロシア、日本を経由し、そして希望の地アメリカ、約束の地イスラエルへ渡るために、カウナス領事館に日本ビザを求めて押し寄せた。時に日本はドイツと同盟を結んでいたために、外務省本省からはビザの発行は認められない、そして彼は、自分の信仰(彼は敬虔なクリスチャンであった)と良心に従い、独断でビザを発行した、書き続けた。本省からの命により、カウナス領事館を閉鎖した後も、次の赴任先に移動するまでの数日間、滞在したホテルで書いた、そしてカウナスを離れる汽車が動き出す直前まで書いた。そして現在に至り、そのビザで約6000人の命が救われたといわれる。
日本が大きな過ちを犯す中で、また多くの在野の組織や個人が弱き同胞や諸外国の友人を助けるために、危険を顧みず行動したことだろうか。戦後日本人が負の歴史と共に、輝ける歴史までも封印してしまったこと残念に思う。

杉原千畝を検証した大書『千畝―一万人の命を救った外交官 杉原千畝の謎』(ヒレル・レビン著)が1998年に発刊された。素晴らしい本であった。

今回取り上げた映画『太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~』も原作があり、当時サイパン島で大場隊と対峙したアメリカ海兵隊員の一人であったドン・ジョーンズ氏が1982年に日本で発刊した長編実録小説『タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日』がそれである。

そして、映画のサウンドトラック・挿入歌として重要な役どころを担った『椰子の実』について貴重な記事(Wikipediaに掲載されている)を紹介します。
以下、記事の参照です。
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1898年(明治31年)夏、東京帝国大学2年だった柳田國男が愛知県の伊良湖岬の突端で1か月滞在した時、「風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ、岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した」といった話を親友だった藤村にし、藤村はその話にヒントを得て「椰子の実の漂泊の旅に自分が故郷を離れてさまよう憂い」を重ね、この詩を詠んだ。

「椰子の実」 
名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月

旧(もと)の木は生(お)いや茂れる 枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ

実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂
海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ異郷の涙

思いやる八重の汐々 いずれの日にか故国(くに)に帰らん

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私の住む播州地方から出た民俗学の第一人者柳田國男が、この美しい日本語詩歌『椰子の実』を生み出すに大いなる貢献をした逸話を知り、また改めて、この詩歌の奥深さを学ぶに至ったこと、この映画に感謝したいと思います。

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