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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2011年2月16日水曜日

石平著『私はなぜ「中国」を捨てたのか』読後感想

2月14日、東加古川のマイカル内未来書店を訪れ、幾つかの本を手に取り、パラパラとめくり読みしながら時間を過ごした。

そして、一冊の本に目が留まった、それが、石平著『私はなぜ「中国」を捨てたのか』である。目次だけをみると、『中国を何故捨てたか』『中国共産党の脅威』『愛日主義』『天皇礼拝』とあって、危険思想の本かと、書棚に戻そうとしたが、中国との関係が不穏な現在、2007年に日本に帰化して中国系日本人一世となられた石平氏が中国を、また日本を実際にどう観ているのか知りたいと思い、購入し、自宅に戻ってから読んだ。
237頁の本であったが、半日もかからず読み終えた、最初に手に取ったときに感じた危険な代物ではなく、そこには中国共産党への激しい怒り憤りとともに、古き良き中国文化への郷愁が溢れていた。
この本は2006年、当時まだ中国籍であった石平氏が出版された『私は「毛主席の小戦士」だった』を改題・改訂し2009年に出版された本です。『尖閣諸島付近での中国漁船による日本の巡視船体当たり事件』に端を発した、以降の日本への中国政府の高圧的な態度を見せつけられ、多くの日本人が中国を脅威と捉えるようになった以前に書かれた本です。

東アジアの一民族、日本人は、明治維新以後、急速な『富国強兵』『西洋化』に走り、東アジア諸国を軽視した施策を採り続けた。昭和期に入ってからは、東アジアを欧米から開放すると称して、併合・植民地化を推し進め、二流日本人化施策により名を奪い(日本名に強制改名)、言語を奪い(日本語の強要)、人権を甚だしく打ち砕いた。たかだか70有余年前の出来事である。
しかし日本は、第二次世界大戦の無条件降伏の後、軍国主義、全体主義と決別し、与えられた平和・民主主義の理想を追った新憲法の下、理想郷としての民主主義国家として日本を再生してきた。しかし、政治的な民主主義の理念を疎かにした、つまり志在る者が民の審判を受けて国政を委ねられ、民のために働くということを疎かにした。外交がその最たるもので、武力放棄、戦争放棄を盾にして、日米安保によって、日本の安全保障を全てアメリカに依存し、1980年半ば以降からの約20年間、ついには経済力に偏重した経済大国と呼ばれるようになった。

日本が以上の様な戦後を歩んでいたとき、隣国である中国がどの様な歩みをしたかを、同世代の石平氏がこの本の中に記されている。

戦後、日本の軍国主義・膨張主義の嵐が過ぎ去った中国では、毛沢東がマルクス主義をテーゼとした共産主義社会主義国家建設の為と称した共産党を興し、文化大革命と称した施策によって、毛沢東思想を布教し、過去の偉大なるいにしえの中国文化を破壊した。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が、建国の立役者である金日成を、現在にいたり父として崇めるよう思想弾圧が徹底されたように、現在漸く民主主義国家として歩み出したカンボジアでかつてポルポトが、いにえのクメール文明を破壊し尽くし、教養人、医師、教育者を迫害したように、それらの悪行の先兵を毛沢東と彼が率いた共産党が自国民に強制実践した。
毛沢東の後、共産党を支配した鄧小平は、毛沢東思想および文化大革命を否定し、1980年代、中国では民主化の芽が、高等教育に籍を置く学生の中から吹き始めた。
そして1989年、世界中で疲弊した社会主義国家が次々と斃れ始め、ベルリンの壁が崩壊したその年、中国では6月4日、鄧小平は共産党政権を脅かす脅威・敵と見なして、民主化を標榜する知識人、学生を一掃した。生き残った中国人民主化活動家が『血の日曜日』と呼ぶ、『天安門事件』である。
1990年代、共産党支配を引き継いだ江沢民は、人民の共産党への非難の矛先を変えるべく、反日教育を徹底して行い、若い世代を共産党支持者へと変貌させた。一方で上海を中心に経済の自由市場施策を実行し、膨大な外貨を引き込んだ。民主主義国家から金をそして技術をどんどん引き込んで共産党政権を盤石のものとした。

1962年、四川省の教育者家庭の一粒種として生まれた石平氏は、時代に翻弄されながらも、1980年代の民主化の風の中で学び、1988年日本の神戸大学、大学院に留学、以後日本から中国を直視し続けた。

本の第1章から第3章まで、
第1章 私は「毛主席の小戦士」だった
第2章 いかにして「反日」はつくられるのか
第1章 中国を覆う「愛国主義狂乱」
恐ろしい見出しの中で書かれた記述は、何度も欺かれ裏切られた中国共産党の悪行告発とともに、中国人として生きた半生、文化大革命の嵐の中でいにしえの中国文化を伝えようとした祖父と過ごした思い出、民主化を語り合った友との思い出、そして友を凄惨な死に追いやった中国共産党が支配する中国との断固たる決別表明が、理知的に記憶を辿りながら語られていた。しかし、その文面から激しい感情、哀悼、そして郷愁がひしひしと伝わってきた。

後半の第4章、第5章では、
第4章 日本で出会った論語と儒教の心
第5章 わが安息の地、日本
彼が出会った日本人の礼儀正しさとやさしさの中に、いにしえの中国儒教の精神が息づいていることを学び、また京都や奈良にいにしえの中国の詩人が詠んだ風景を眺めた。
私は、彼の日本人感、日本感に感謝すると共に、近年の日本人の歴史認識の疎さ、いにしえの日本文化の軽視は、彼が感嘆するに値するのかと、恥ずかしさも感じた。

この100年間で日本の四季折々の美しい風景は、開発という御旗のもと破壊され続けてきた。一貫性のない教育施策と軽薄なメディアの台頭によって、各土地で息づいた方言、美しい日本語は軽視された。日本精神文化の根源である(いにしえの中国から渡来した儒教を源流とした)「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八徳は絶滅の危機に瀕している。
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仁・・・思いやり、慈しみ。
義・・・人道に従うこと、道理にかなうこと。
礼・・・社会生活上の定まった形式、人の踏み行なうべき道に従うこと。
智・・・物事を知り、弁えていること。
忠・・・心の中に偽りがないこと、主君に専心尽くそうとする真心。
信・・・言葉で嘘を言わないこと、相手の言葉をまことと受けて疑わないこと。
考・・・おもいはかること、工夫をめぐらすこと。親孝行すること。
悌・・・兄弟仲がいいこと。
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彼、石平氏が2007年末日本人として帰化したときの手続きのくだりは、とても奇異に感じた。彼は帰化申請のとき、当局から日本に対する「忠誠心」「愛国心」を求められなかった。これが不満で、その後、伊勢神宮に参拝し、五十鈴川で身体を清め、靖国神社を参拝し、この二つの「通過儀礼」をもって、身も心も日本人になったと書いている。
私は小学校の修学旅行で、伊勢神宮を見学し、五十鈴川の清水で遊んだ記憶がある、しかしその後、38年間、参拝もしていないし、また靖国神社に国会議員が公式に参拝することについて、パフォーマンスと思っているし、その行為には嫌悪感を感じている。

私は日本人の精神世界の原点は、自然崇拝から育まれたもの思っている。それは、あらゆる文明が中国から朝鮮半島を経由して日本に渡来する遙か昔のことである。
豊かな実りも、飢餓も、自然が招くものであり、自然の中に、多くの神(八百万の神)を見いだし、畏怖の念を抱くと共に愛でた。それが、石平氏の大好きな日本語『やさしい』の原点なのだろうと思う。

皇室についての論評であるが、漢詩の如く、端的に真理を書き綴られていた。これまで漠然としか見ていなかった皇室の存在について改めて考えた。皇室が神代の時代から不変成るものとして今日まで存続したのは、権勢を放棄し、権力を時の勢力者に委ね、慎ましく、また皇室を高尚に営まれ続けたことが、日本人が、皇室を敬い養護し永続させた主因であるという考えに到達した。

ドラッカーがその著書『マネジメント』の中で、『意見の対立を見ない時には決定を行わない』と記されている。
権力が一握りのものに握られ、独裁を許すことの罪悪、悲劇的な末路は歴史が証明している。
ドラッカーの言葉は、経営だけではなく、すべての意思決定の議論の場において当てはまり、対立軸があって議論が白熱し、ベストあるいはベターな選択に辿り着くと思う。
論評や思想、哲学もそうだ、忌憚ない意見を出し合い議論を尽くすことによって、一歩前に前進できる。

自分の生き方然り、日本人の生き方然り、隣国との付き合い方然り、熟慮が必要な時代である。

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