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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年1月27日火曜日

至高の横綱白鵬関

私は大相撲には余り関心がない方なのですが、横綱白鵬関には感服します。
前人未踏の33回優勝もさることながら、その浮世絵から抜け出たような男っ振りと、そして富士山の如く悠然とした立ち居振る舞いに感服するのです、惚れ惚れするのです。

そんな白鵬関が、初場所優勝後の会見で発言した一言で、思わぬ苦境に立たされています。
初場所優勝を決めた13日目の稀勢の里戦で審判部が下した取り直しの判断を「疑惑の相撲」と表現したのです。勝負判定への疑念を
「こっちは命をかけてやっている」
「(勝敗を正しい判定は)子供が見ても分かる」
と、少し感情の高揚が見て取れる発言ではありましたが、
日本のメディアや相撲協会は、このような審判部批判ともとれる発言は、横綱の会見にふさわしくないと批判し、横綱白鵬関の資質を問うたのです。

大相撲はこの数十年、日本人の名力士が生まれなくなりました。
日本人の保育が過保護となり、ハングリー精神が育たなくなった
そして、本来厳しい社会である角界に入門できるものがいなくなった
それがため、入門者を過保護に育てたり、また力量が未成熟のまま上位に引き上げたために、名力士と呼ばれるまでに廃業する者が後を絶たすという状況を生んでいるのではないかと察します。

そんな中、外国人の入門者は、海を渡って日本に来、言葉も通じぬ、作法もしらない世界で、自分だけを信じて、強くなろう、偉くなろう、出世しよう、と相撲道に邁進したのだと思います。時には外国人ということで不快な思いもした事でしょう。そして今、彼ら外国人力士は、相撲界を担う者となったのです。

大相撲は日本の国技であり、興行であり、見世物でもあります。
ですから、たとえ外国人力士であっても髷を結い、着物を羽織り、力士の立ち居振る舞いを身に着けねばならない。そういうものだと思います。
ですが、大相撲はもっともっと現実的に、力士にとって、ファンにとって、良いものに変革しなければいけないと思います。
横綱白鵬関の素直な発言は、大相撲の慢心への警句だと思います。
そんな警句を、旧態依然とした相撲協会の体質や、旧態依然の国技を礼賛しかできないメディア、そして日本人贔屓の大衆心理が、葬ろうとしているのではと思います。

横綱白鵬関は、モンゴルの宝です。そして日本の宝です。
横綱白鵬関は、横綱を真摯になって生きているのだと思います。
私たちはもっともっと横綱白鵬関を大切にしなければならないと思います。

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