兵庫県知事選挙は、終盤まるでロックスターの様に老若男女から熱狂的な支持を受けた様に報道された前兵庫県知事齊藤元彦氏が当選しました。
※参考 2024年度知事選結果
当日有権者数 4,463,013人
投票者数 2,483,814人
投票率 55.65%
得票数
齊藤元彦 1,113,911票(有権者数分母得票率:24.96% 得票者数分母得票率:44.85%)
稲村和美 976,637票(21.88% 39.32%)
清水貴之 258,388票(5.79% 10.40%)
大沢芳清 73.862票(1.65% 2.97%)
立花孝志 19,180票(0.43% 0.77%)
福本繁幸 12,721票(0.29% 0.51%)
木島洋嗣 9,114票(0.20% 0.37%)
※参考 2021年度知事選結果
有権者数
当日有権者数 4,529,865人
投票者数 1,861,986人
投票率 41.40%
投票数
齊藤元彦 858,782票(有権者数分母得票率:18.96% 得票者数分母得票率:46.12%)
この選挙結果を考察するニュース番組はどこも、SNSが有権者への投票行動に大きな影響を与えたことを検証結果として問題視していました。
私は日本のインターネット黎明期からインターネットを利用してきました。インターネットは現実世界の様々な制約や制限に影響されず、世界中のインターネット利用者と自由に交流や物品などの売買を行うことができました。私など英語もろくに出来ないけれど、好きが優って、オーストリアのワインネットショップで貴腐ワインをフランス産に比べ破格の安さで購入した自慢話を持っています。これがインターネットの魅力です。そしてインターネットはその自由さ故に、利用者として公正でなければなければならないことを自覚して使用してきました。公正でなければならないということは、事実を自らの責任で調べ認知することに努めることと、他人の間違いに対しても寛容でなければならないということです。
今回の選挙期間中、前知事在職中に前知事の不正疑惑を通報した元職員の方を貶める真偽不明の個人情報がSNS上で拡散し、「齊藤知事は、貶められた」という真偽不明の論説がネットを利用する大勢に支持されることとなり、齊藤知事を糾弾した既存メディア(テレビニュースや大手新聞)や百条委員会を開き齊藤知事の不正疑惑を追及してきた県議会のメンバーが、ネット民からSNSを通じて、やり玉に挙げられ、誹謗中傷の標的とされるに至りました。それに乗じてか、SNSのインフルエンサーたちも、既存メディアや前齊藤知事に異を唱える論説者への糾弾を始めました。現実の選挙活動においても、前齊藤知事を支持するためと表明して知事選に立候補した立候補者が、齊藤候補に追い風となる真偽不明な発言や既存メディア、県議を糾弾する発言で、大いに観衆を沸かし熱狂させました。
そもそも不正疑惑通報に関係の無い通報者の個人情報が知事の独断による強制調査で暴かれ、その個人情報を利用して不正疑惑の通報自体が不正であるとする歪曲こそ許されないことであると私は思います。
知事選の本分は、これからの兵庫県を如何に良くしていくか、そのリーダーとして立ちたい人たちがマニフェストを県民に表明して支持を問うことだと思います。それが、前知事に対立する人々の声がSNSによる誹謗中傷や実際の脅迫行為によって封じられてしまった、それがこの選挙期間中に起こった重大で悪辣な出来事であったと思います。
私は、この出来事を見聞きして、1975年以後に突如として全国津々浦々の中学校で始まった「校内暴力」を思い出しました。
1975年は、私が中学校を卒業した年です。何故に1975年を境にして起きたのか、私なりに考察してみました。そして三つの理由が思い当たりました。
一つめは、日本人の道徳観、価値観のパラダイムシフトです。
私は1960年生まれで、親の世代は戦前生まれです。そして中学を過ごした1972年から1975年の頃の教師もほとんどが戦前生まれであったと思います。戦前の学校教育で行われた道徳教育は修身教育で、忠孝、つまり主君への忠義と親への孝行が最も重んじられる道徳教育です。目上の者の言葉や命令には絶対服従が求められました。ですから苛烈な上司上官教師からの暴力は肯定され、十死零生の戦地派兵にも従うしかなかったのです。それが平民には当たり前の時代でありました。
しかし1945年、日本は第二次世界大戦の敗戦国となり、進駐軍が日本を占領して、軍国主義全体主義思想から欧米型のデモクラシー思想への転換が、日本国民に指導されることになりました。それが行われたのが公学校教育の現場です。
デモクラシーの根幹をなすのはヒューマニズムです。あらゆる人々の生命、行動、言動は守られ尊重されるという理念が根底にあっての平等主義、自由主義、そして誰もが政治参加を認められる国家の維持形成こそがデモクラシー思想だと私は思っています。
しかし、抑圧された忠孝からの解放が、当時の平民出身者には響いた様に思います。それがヒューマニズムが求める利他への思いやりや寛容から、利己的な平等主義や自由主義に私たちがパラダイムシフトした切っ掛けであった様に思うのです。
そして二つめは、立場のある人々の脆さや弱さの露呈です。
私は「校内暴力」の火に油を注いだ一番の原因はこれではないかと思っています。
私の中学時代も理不尽と思える行動をする教師はいました。気に入らない生徒は感情的に暴言を吐き叩くなどする美術教師、逆らう生徒を叩くための棍棒を持ち歩く理科教師、そして日常的な体罰で指導を行う部活動教師たちです。それでも生徒たちは、理不尽と思いながら、生徒同士でそんな教師を秘かに笑いものにしながら中学時代を過ごしていました。まさか親に忠告するという考えは当時の私たちには無かったように思います。親に言いつけようものなら、親から教師に逆らった不良扱いを受け、それこそ叱られる理由になってしまうからです。
ですが、ゆっくりとしっかりと「利己的な平等主義や自由主義」が、生徒や保護者側(また教師の方にもです)に浸透し始めていたのでしょう。それが表沙汰になったのが1975年後であったのだと思います。一部の生徒が教師の指導に従わなくなった。それを教師が押さえつけられなくなった、それだけでなく、教師が怖じ気づいてしまった。生徒を恐れてしまった、それが感受性の高い生徒側に伝わってしまった、そして中学校内での力関係が徐々に混沌を極めるようになってきたのだと思います。そして道徳が未発達な生徒や沸々とした感情を抑えきれない生徒が、暴発して「校内暴力」へと進んだのだと思います。
それは家庭内でも同じで、子供による「家庭内暴力」も同時進行で始まりました。そして、親は学校に責任を求め、学校は親に責任を求めるという風に、責任の押し付け合いが始まり、それが更に暴力を増長する原因となった様に思います。そして遂に公教育の現場の安全管理に司法が介入する様になりました。
最後、三つめがテレビの普及です。
昭和期の世帯テレビ普及率
白黒TV:7.8%(1957)→88.7%(1963)→96.4%(1968)→65.4%(1973)
カラーTV:0.3%(1966)→75.8%(1973)→90.3%(1975)→99.0%(1988)
※出典資料 内閣府「主要耐久消費財等の普及率」
https://www.esri.cao.go.jp/jp/stat/shouhi/0403fukyuritsu.xls
世帯テレビ普及率を見ると、白黒TVは1960年代にはピーク時96.4%普及率を示していました。またカラーTVの普及率は1973年に白黒TVを逆転し、1975年には90%を越えました。これにともない地方でも民放局が次々に開局して、東京から全国への発信だけでなく地方から全国への発信が始まったように思います。地方の言葉や地方の出来事が全国に伝わり始めたのだと思います。
そうなると、以前は地方のどこかで起こった出来事などが全国に知れ渡ることなど無かったのに、それがテレビを通じて、知れ渡ることになった。情報の伝達が中央発信から双方向発信への進んだのだと思います。カラー映像だと更に生々しいですよね。そして、報道の仕方も変わったのだと思います。以前のニュースは粛々と伝えられていたのに、それが煽動的にエンタメに報道されるように変わってきたと思います。
そして「校内暴力」や「家庭内暴力」は、テレビの報道にも煽られ、全国に波及したのだと考えます。
以上が、私の「校内暴力」現象の考察です。
今回の現象とも、非常によく似ていると感じています。
一つは、SNSのインフルエンサーが既存メディアが報じない真偽不明の情報を真であるように報じて、既存メディアの隠蔽や企みと強烈に糾弾したことを受けた、SNSが生活のほとんどとなった、慎重さや鈍重さを嫌い、軽薄でも軽快に断定する・断言する言動に共鳴してしまう人々が、感化され煽動され、インフルエンサーが敵と見なしたものに、大群となって攻撃した。
二つめは、既存メディアや政治に司る人々が、SNSの攻撃に、真っ先に怯んでしまったことです。一度怯んだところ、弱さを見せれば、そこを突いて攻撃の手を止めないのが利己的な考えの持ち主たちです。自らを正義と訴え、大衆を扇動して、自らが主となるパラダイムシフトを仕掛けているのです。
そして三つめがSNSです。SNSがどういうものか、SNSをどの様に使えば最大限有効活用できるか、それを知り尽くしている人々が、本来性善説で作られてきたインターネットやSNS技術を自らの利己的な目的のために最大限活用したのです。SNSはただの道具です。善にも悪にも利用されるただの道具に過ぎないのです。
私はTwitter(現X)が出来た当初から馴染むことができませんでした。EメールやLINEですら、手紙の様に慎重に文面を考えて投稿します。ですからショートメッセージを矢継ぎ早に投稿するというシステムに馴染むことができませんでした。
そのTwitter(現X)で、現世の世界中の主要な政治家や起業家、だけに留まらず様々なインフルエンサーが、利用することにずっと違和感を覚えてきました。慎重さに欠けるから、言い争いが起こり、それに大衆が振り回される、そういう出来事ばかりです。
戦争当事者であるプーチンも、イスラエルのネタニエフも、次期大統領に決まったトランプも然りです。軽薄な情報に私たちは振り回されてしまっています。
繰り返しますが、
デモクラシーの根幹をなすのはヒューマニズムです。あらゆる人々の生命、行動、言動は守られ尊重されるという理念が根底にあっての平等主義、自由主義、そして誰もが政治参加を認められる国家の維持形成こそがデモクラシー思想だと私は思っています。
他者を思いやることが、自らが他者に思いやってもらえる術であること、これが自明です。それを無くするということは、つまり自らの権利を放棄することです。権力者、専制主義者、独裁者に、身を委ねることになってしまいます。
このことを私たちは、絶対に忘れてはならないのだと思います。
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