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デモクラシーの国の、リーダーの有るべき姿

新型コロナウィルスのパンデミックは、私たちに一つ、とても重要な事を気づかせてくれました。それは「リーダーの有るべき姿」です。 デモクラシーを標榜する国家において 平時にリーダーに求めるものは、誰もが活躍することができる社会を作り、それが維持出来るように見守ることです。それに...

2024年8月23日金曜日

信仰心について

「戦争になったら人が殺せるなぁ」という言葉を、軽口の中で話す人がいました。陽気で威勢のよいおじいさんでしたので、思わず「そんなこと言ったら、お釈迦様に叱られますよ」と返しました。

そういえば、今朝ドラ『虎と翼』でも、同じ様な不穏な言葉が発せられる場面がありましたね。新潟編で、寅子も一目置いていた、名士の娘で、清楚で美人でとても勉強が出来る高三の女生徒(この後、東大に合格)森口美佐江が、良家の子息たちが起こした集団暴行窃盗事件や子女たちが起こした売春未遂事件に関与していることを察した寅子が、美佐江に直接問い掛けたときに、美佐江が話した言葉です。美佐江はこんな話をしましたね。

「悪い人(美佐江の偏見)からものを盗んで、何故悪いのか」

「自分の体を好きに使って(売春してお金を稼ぐ、欲望を満たす)、何が悪いのか」

「人を殺して(もしかしたら自殺も含む?)、何が悪いのか」

「(法律では罰せられる罪であるが)何故悪いのか、私には分からない(納得出来ない)」

寅子は、美佐江が、良家の子息子女を「特別な人」という優越感を与えることで美佐江の思考で洗脳し、まるで実験でも行う様に犯罪行為に誘導して、その経過を冷徹に眺めていたことを理解し、戦慄を覚えます。


まず、戦争での殺人について、

戦闘行為以外で、捕虜の人権を侵害したり殺害する行為は、また、民間人の人権を侵害したり殺害する行為は、戦争犯罪行為に当たります。戦争犯罪が国際法で制定されたのは1946年です。ですから、先述のおじいさんの意見は間違いです。たとえ戦争の最中であっても、殺人は許されず重い罪になります。


ただ美佐江の様に、賢く、知識として法律の条文を理解していても、条文で禁止、あるいは規制された行為が、本質的に何故だめなのか、自分自身を真に納得させる理由が見つからず、自分を規制できない、抑制できない、或いはそのことで苦しむ人がいるということも、私たちは知っておかねばならないのだと思います。


『悪について』(英題 The Heart of Man: Its Genius for Good and Evil)という20世紀半ばに書かれた本があります。作者は、ドイツ国籍のユダヤ人精神分析学者エーリッヒ・フロムです。

人間以外の動物は、生きるため、子孫を残すため、その本能の銘ずるままに、弱きもの、それが同種族であっても、親子兄弟であっても、殺し、その肉を喰らい、また強き子孫を残すために自分の体を差し出します。

しかし、人間社会には法があり、人間社会に生きる人間は、法の定めに従いながら生きなければなりません。そのために私たちは、法であったり善行を教育によって学び体得します。それを用いて私たちは、動物として本来もつ本能を、押さえ込み、人間社会を生きています。

この法や善行に逸脱する行為を、私たちは『悪』と呼びます。『悪』は、むき出しの動物的本能であったり、また病的に逸脱した欲望の衝動であったりします。

『悪』が動き出す時、そこには同調者が集まり、『悪』は肯定され、ブレーキの無いまま暴走します。そして、筆舌に尽くし難い、残虐行為、非道徳行為が起きてしまうのです。フロムのそれはナチズムが引き起こしたホロコーストであり、その悪の権化はヒトラーでした。

しかしフロムは、慈しみやヒューマニズムを尊重する心を、人間社会で生きていくためにしっかりと育み、悪の予兆があっても、早期に摘み取る術を人間社会が持つことで、悪の栄えを抑制できると述べていました。


私は、それが『信仰心』であると考えています。

『信仰心』は、人間が人間として目覚めた太古から、人間の心に芽生え育まれてきたものだと思います。『信仰心』とは、読んで字の如く、信じ敬うものに服する心です。誰からか強制されたり命令されたりして服するものではなく、自分の心が善と信じ服すると決めたのです。ですから、私たちは、自らの『信仰心』を裏切ることはありません。


私には、『信仰心』に服した人物で、見習いたいと思う人物がいます。

ひとりめは、ソクラテスです。

ソクラテスは、今から2500年前のデモクラシー都市国家アテナイの一市民でしたが、アテナイや古代ギリシャ世界で民衆を指導する、教育する、煽動する、地位があり発言力のある人物たちを訪問しては、彼らの土俵で対話することによって、彼らの愚かさを民衆に明らかにしました。現代でいえば、危険を顧みず真実を明らかにするジャーナリズムを体現した人であったと思います。このことで恨まれたソクラテスは、70歳を前に冤罪で訴えられて死刑に処されましたが、裁判では自らを弁明し、『もし私を死刑にしたら、もう簡単にはこんな人物を見出すことはないでしょうから。実際、可笑しな言い方かもしれませんが、私は神によってポリスにくっ付けられた存在なのです。大きくて血統は良いが、その大きさ故にちょっとノロマで、アブのような存在に目を覚まさせてもらう必要がある馬、そんなこのポリスに、神は私をくっ付けられたのだと思います。

その私とは、あなた方一人ひとりを目覚めさせ、説得し、非難しながら、一日中どこでもつきまとうのを止めない存在なのです。ですから、皆さん、こんな者はもうあなた方の前には簡単には現れないでしょう。むしろ、私の言うことを聞いて、私を取っておくのが得策です。』とアテナイ市民に訴えかけていました。

ソクラテスは、真実にしっかりと目を向けて、自分の考えを持って、責任ある行動をすることを、時代を超えて、私たちに訴え続けているのだと、私は思います。


ふたりめは、お釈迦様です。

お釈迦様は、同じく、今から2500年前の古代インドの小国釈迦国の王子として生を受けましたが、王子という地位を捨て、人間の根源的な苦しみ、生老病死の苦しみ、際限のない欲望を渇望する苦しみから人間を救う術を求めて修行生活に入り、35歳で覚り(人間を苦しみから救う智慧)を開かれました。そして以後は、亡くなるその日まで、身分や性別、年齢に関係なく、苦しむ人々を救うための活動と、自らの智慧をあらゆる人々に布教することを願い弟子の育成に努められました。

お釈迦様をはじまりとする仏教には十六戒というものがあります。その戒には、悪業に手を染めず、善業に励むこと、利他に励むこと、そして、盗んではならない、淫らな欲を持ってはならない、欺いてはらない、言葉や暴力で傷つけてはならない、そして殺してはならないと、私たちを戒めます。この戒めを守り、お釈迦様の智慧に近づくことで、私たち人間の苦しみは、軽減され、そしていつか苦しみから解き放たれ、永久の平安の境地に達すると言われます。


さんにんめは、ナザレのイエスです。

ナザレのイエスは、今から2000年前の地中海東岸のローマ帝国の属地であったユダヤ人の国で大工の子として生まれますが、ユダヤの祖といわれるアブラハムの神を篤く信仰し、ユダヤの国の支配者層の腐敗や差別によって虐げられたあらゆる人々を慈しみ、神の子として愛されていることを布教し続けました。そのことが支配者層に恨まれて、ローマの総督に訴えられて、磔刑に処されました。

ナザレのイエスは、神のもと、人間は平等であると説き、その教えは現在に至り、キリスト教として人間の信仰の対象とあり続けています。


「(法律では罰せられる罪であるが)何故悪いのか、私には分からない(納得出来ない)」と問う森口美佐江さんに、彼ら聖人の生き様を学び、善行と利他を尊ぶ『信仰心』を育んでくれることを願うと、回答したいと思います。 

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