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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2017年12月4日月曜日

司馬遼太郎記念館で珈琲を飲む

昨日夕方、はじめて司馬遼太郎記念館を訪れました。
展示室で展示物を見、ホールで映像を観た後、館内のカフェで珈琲を飲みました。そして思いを馳せました。大書架は、まるで伽藍や廟の様であったなと。
瞑想には適した場所です。ですが伽藍や廟の装飾品である彫刻や絵画であれば、たとえ触れることができなくても、見るだけで、作品に宿る思いや価値を見出すことは可能です。
でも大書架に飾られた二万冊もの司馬さんの蔵書は、その本の頁を開き読まない限り、内容を知ることはできず、その価値を見出すこともできません。
司馬さんは「二十一世紀に生きる君たちへ」の中で、目には見えないけれど人間の心の中に宿る思いやりや逞しさを賛歌し、その心が21世紀を担う人々に引き継がれることを希望されました。そんな司馬さんなら、21世紀に生きる人々に役立つ形で蔵書が活かされることを望まれているのではないか、そう思えてきました。

一服の珈琲はとても美味しかったです。でもこの珈琲を抽出するために、集められ、選別され、配合され、焙煎され、挽かれ、漉された珈琲豆は味を失い価値のないものとなりました。でも司馬さんの蔵書は違います。それは知識の泉であり、歴史の証人ででり、人の目に触れて、誰かの知覚で読み解かれることにより、何度でも新しい発見や物語を生み出すでしょう。でも司馬さんの廟の装飾品である限り、それは叶うことはないでしょうね。それがとても残念に思います。


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