播磨の国ブログ検索

映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2019年2月24日日曜日

「落ちこぼれる子供がひとりもいなくなるように、子供達が自信と明るさを取り戻すのを手伝う」、大島吾郎の物語

昨日の放送が最終回であったドラマ「みかづき」、良かったですね。
このドラマでは「学校は太陽で、塾は月」と表現していました。
太陽に育まれながらも、その強い光に堪えきれず、陰に身を潜めた子供たちを、月の優しい光で包み、もう一度、光の中に戻してあげられたら・・・
大島吾郎という人の念いは、「落ちこぼれる子供がひとりもいなくなるように、子供達が自信と明るさを取り戻すのを手伝う」ことであったように思います。

学校が、子供達の安心のよりどころとなって、また学ぶことにより自信と明るさが育つ場所であったなら、どんなに良いでしょう。
そして、それでもこぼれる子供を、専門的な知識と愛で、救う(大島流にいえば塾)が補完として機能すれば、すべての子供が救われるのではないかと想像します。

でも現実は、真逆の道を逆走していると感じます。
この四月から、子供達の小中学校通学時の携帯電話持ち込みが容認されるというニュースには愕然としました。
これまでは建前であったとしても持ち込みは禁止でした。
学校は、これまでは学校に携帯電話を持ち込まさないための責務を負っていました。でもこれからは、学校運営、学校生活に支障が無いように、携帯電話の使い方を指導する責務を負うことになります。そして急造で、「正しい携帯電話の使い方」が検討され、制定され、指導されることになるでしょう。
でも「正しい携帯電話の使い方」、もっと正確に言えば「正しい情報端末の使い方」なんてできるのでしょうか?
情報端末はどんどんと進化して、あらゆることが情報端末を介して可能になりつつある時代です。一方で、大人の世界がスマートフォンとSNSで、モラルハザードに陥っています。
現在の悩める学校に、それはさらに過酷さを押しつけることだと思います。

私は、学校教育と情報教育は、切り離すべきだと考えます。
学校は、教育を通じて人間を学び、個々の子供が自信と明るさと道徳を身につける場に特化すべきと考えます。そして、学校とは別に新たに情報技術を学ぶ学校の補完機関を作るべきと考えます。そこで情報技術を学び、また情報技術に溺れないためのトレーニングを学びます。

学校で使う情報技術は、教師の負担軽減にこそ活かすべきだと考えます。
今朝ふと見たがっちりマンデーという番組で、フランチャイズレストランの新たな取り組みが紹介されていました。精算は現金レス、すべて電子マネーで、従業員から金銭管理の負担を無くしていました。また調理は、セントラルキッチンで半調理された食品を、プロの料理人の調理手順を学習したAI型の電子レンジで完成させ、従業員は接客に特化するだけでよいようにシステム化されていました。
学校も、そうあるべきだと思います。
教師から事務や金銭管理の負担を取り除き、子供に向き合うことに特化できる職場環境にすべきです。

子供(だけではなく人間というもの)は、個人として認められること、そしてプラスに評価されることで、自信が育ちます。その自信が、一歩踏み出す勇気となります。またそれが教師への感謝や尊敬の念を生み出すのだと思います。
これこそ、社会が、学校が、一番大切にしなければならない事だと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿