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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年5月25日月曜日

大相撲に見る日本の移民施策の未来

相撲はほとんど見ないのですが、昨日夕方テレビをつけると夏場所千秋楽残り3番という大詰めに出くわしました。
大相撲夏場所千秋楽は、三敗で横綱白鵬と関脇照ノ富士が並び、照ノ富士はこれから始まる碧山との取り組みに勝って、結びの一番で照ノ富士の兄弟子横綱日馬富士が白鵬に勝てば初優勝ということで、場内は至極熱気に満ちていました。

そして取り組みが始まります。
照ノ富士は、危なげなく碧山を押し出して三敗を守り、結びの一番を待ちます。
日馬富士は、ここ何場所を白鵬に勝っていません。解説の親方は、がっぷり四つでは日馬富士に勝ち目はない。しかし弟弟子の初勝利のために何とか勝ちを取る相撲をするのではないか、と話していました。

そして結びの一番が始まります。
張り手の応酬から一転、土俵際に追い込まれた様に見えた日馬富士が、一瞬体を低くしたと思えば一気に白鵬の懐に飛び込み両腕でがっちりと回しを掴みます。そして回しが掴めぬ白鵬を一気に土俵外に突き倒しました。
照ノ富士の初優勝が決まりました。画面に兄弟弟子と抱き合って喜びを噛み締める照ノ富士の姿が映ります。相撲に疎い私も思わずもらい泣きしました。

しかし、表彰式が始まってから親方やアナウンサーの「これでまた日本人力士の活躍が遠くなった」という嘆きを聞いて愕然としました。
大相撲を守り立てるために、親方衆は強い力士の素養がある若者を世界中から見つけてきました。そうして集まってきた若者は、日本人であっても外国人であっても一様に新弟子検査を受けて初めて力士の卵となるのです。力士の卵となった若者は、その後何年も部屋に住み込んで、力士の頂点を目指し精進し続けます。外国人の力士の卵についてさらに言えば、言葉も習慣も違う異国の地で、通訳もいなければ身の回りの世話をしてくれる者も側にいない、師匠や部屋の女将さん、兄弟弟子を信じて一から十まで教わりながら、日本人の若者ならば到底感じる事のない不安を抱えながら力士の頂点を目指しているのだと思います。
それなのに、今さらになって外国人力士の台頭を嘆くのは、甚だ遺憾に思います。彼ら外国人力士は助っ人などではありません。彼らを育てたのは日本相撲協会です。彼らは大相撲の正当な後継者なのだと思います。さらに言うならば外国人力士の台頭を嘆く理由は一分もないと思います。

最近の大相撲では、希代の横綱大鵬の幕内最高優勝記録32回を更新し、尚も記録を34回と更新し続けている平成の大横綱白鵬が逆風に晒されています。取り組みの結果にけちを付けたり、放言が過ぎるなど「傲慢」のレッテルを貼られて叩かれています。
私の勝手な見識ですが、大相撲はスポーツでもなく、見世物色の濃い格闘技でもありません。大相撲は神事なのだと思います。神事であればこそ、様式が重んじられ、また力士が尊ばれるのだと思います。その力士の最高峰である横綱に登り詰め、尚且つその在位を守り続けている横綱白鵬に、「傲慢」というレッテルを貼る日本相撲協会と人気のおこぼれに与るマスコミこそ「傲慢」であり「不遜」であると思います。
白鵬ほどに大相撲の精霊とみまがうほど、品格と美と力を醸し出す力士はかつていただろうかと思います。白鵬に対する「傲慢」というレッテルは、裏を返せば「外国人力士への嫉妬」だと思います。
昨日の照ノ富士の表彰式で解説の親方は「初々しさと感謝の気持ちを忘れず・・・一人で強くなったと決して思わないでほしい」と、まるで白鵬を名指ししたようなコメントを発言していましたが、そんなことは白鵬が誰よりも一番に分かっていると思います。でもそれ以上に白鵬は、誰よりも何倍も何倍も努力して、今も堪えて堪えて苦心して、かつての力士達が誰も見たことのない孤高の道を歩んでいます。白鵬は今や角界の至宝です。至宝は皆で守らなければならないし、決して傷つけてはならない、曇らせてはならない存在です。たとえ親方衆であっても、敬意を払わなければいけない存在なのだと思います。

しかし、実態はそうではなくて、往々にして外国人力士がとてつもなく強くなったとき、彼らは日本人ではない、だから相撲道を理解できない、相撲道を踏み外す等々、「異質な存在」と決めつけられて叩きます。真に迷信そのものです。

この迷信であり狂信的な嫉妬を目にする度に、最近日本政府が積極的に推し進めようとしている移民受入政策の危うさを覚えます。すでに突入した日本の少子高齢社会を下支えするために移民を積極的に受け入れるという政策は、あまりにも近視眼的で、将来を見通した計画も、将来起こりうる問題も、何ひとつ議論せぬままに進んでいるように思います。
近い将来に必ず頭をもたげるであろう「異質な存在」という迷信、狂信が広がる局面を全く無視した政策に思います。

日本に活躍の道を求めて働きに来る人々、また移民として新日本人となる人々を、これまでと同様に「異質な存在」と見なして、活躍の場を制限するのか、生活を制限するのか、日本人の型への同化を強いるのか。
それとは真逆に、日本社会が多様性を受け入れて、彼らを「多様な存在」としてありのままに受け入れて、旧来の日本人と変わらぬすべての権利を与え安全を保証するのか。
そういう決意なくして移民政策を推し進めてはならないと思います。

大相撲は、日本社会の移民受け入れの一つケーススタディだと思います。大相撲が、外国人力士に対して、これからどう変わっていくのか、もしくは変わらないのか。日本の将来を考えながら大相撲を見ること、とても重要に思います。

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