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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2019年8月23日金曜日

映画「ひろしま」を観て

8月16日の深夜零時に放送された映画「ひろしま」(1953年)、観られましたか?
私は観ました。ですが、家族には録画した映画の鑑賞を薦めましたが、重いと拒絶されてしまいました。

私は、以前のブログでも書きましたが、長田新さんが1951年に編纂された「原爆の子 広島の少年少女の訴え」を今年読み、その関連として映画「ひろしま」を知りました。でも同時に、まだ連合国軍(ほぼアメリカ軍)の占領下にあり、朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発したことで、連合国軍の主導のもと施行された新憲法で第9条が謳われながら、再び戦争に加わる事になった当時の日本では、反原爆、反戦、そして反米の訴えが汲み取れるこの映画「ひろしま」は公に上映することができず、それは今日に至っても続いていることを知りました。ですから、テレビで放送されることを知った時は驚きがありました。

映画「ひろしま」は、文集「原爆の子 広島の少年少女の訴え」を下敷きとして、原爆を経験した広島の市民8万8千人がエキストラとして参加した、原爆罹災者による再現ドラマと言えるかも知れません。健康な男子は戦争に兵隊として取られ、銃後の、女、子ども、お年寄りが中心の日常生活の頭上に突然、太陽の様な閃光を伴って炸裂した原子爆弾は、一瞬にして、半径1㎞の範囲を焦土にし、半径4㎞の範囲を爆風と放射能で破壊しました。それが真に一瞬の出来事であったか、映画は閃光の後、破壊された家並みと下敷きになった人々の姿で物語っていました。その破壊された、なぎ倒された建物から次々に火の手が上がり、それはすぐに猛火となって広島の市街地を焼き尽くし始めます。多くの人々が、瓦礫の下に埋もれたまま焼け死にました。瓦礫に埋もれなかった人々も、重度な裂傷や火傷を負った人々は、苦しみの末に亡くなりました。歩いて逃げられる人々も火の海に阻まれて逃げ道を失い次々に亡くなりました。そして、避難所に辿り着いたとしても、原爆の放射能に冒された人々は、原爆症によって次々に亡くなりなりました。そして焼き尽くされた街に残されたのは、家族を失った人々、親を失った子供達、そして原爆症に怯える人々でした。そんな映画で描かれた悲惨な光景は、「原爆の子」に掲載された罹災者である子供達の記憶を再現したものでした。原爆投下時、下は4,5歳から上は中学生までの子供達が実際に体験した光景でした。

この映画「ひろしま」には、現在の私たちも直面する普遍的な二つの問題への問い掛けがありました。一つは、知ろうとしない事(無知)の罪悪です。

それは冒頭シーン、原爆投下から7年後の、高校の一クラスでの出来事です。
ラジオから流れる「0の暁」の朗読を視聴中にひとりの女学生、大場さんが鼻血を流し倒れます。入院して検査を受けると白血病でした。クラス担任は終戦後に広島に赴任してきた人で、誠実な人柄でしたが、これまで原爆のことに関心を持つことはありませんでした。しかし、この一件が、先生を原爆の罹災者である人々、特に子供達が抱える問題に目を向けさせることになります。
先生は、クラスの生徒に問い掛けます。

原爆の罹災者は手を上げて下さい、するとクラスの約三分の一が手を上げました。
これには意味があります。「原爆の子」の後書きに書いてありますが、広島市は戦前40万人を越える人口がありました。しかし、終戦時には9万人になっていました。原爆の罹災によって二十数万の人々が亡くなり、また他所へ転出する人も多くいたからです。しかし、広島市の復興事業が興るとともに他所から転入する人が増えて、6年後には戦前の人口ほどに戻ります。広島市は、今や三分の二以上の市民が原爆の惨劇を知らない人たちとなっていました。

一人の罹災を経験した女生徒に体の不調がないかとたずねると、その生徒は体の慢性的なだるさを口にします。それを聞いていた男子生徒から揶揄する言葉が飛んでクラス中で笑いが漏れます。女生徒はうつむいて黙り込みます。
これもまた「原爆の子」に書かれていました。ケロイドが残る人たち、放射能に冒されて慢性的な疲労に苦しむ人たちは、原爆の惨劇を知らない人たちから、原爆罹災に託けて怠けている、お金を無心していると非難され、まるで原爆罹災によって苦しむことが犯罪の様におもわれて二重の苦しみを負っていました。

罹災を経験した男子生徒が立ち上がり、クラスの皆に訴えます。
僕たちは、原爆の後遺症によっていつ命が奪われるか、ずっと怯え続けながら暮らしている。
原爆症は最新の医療によって治せるのかも知れないが、それは一握りの人たちのものであって、僕たちには与えられない。だから原爆罹災者の中には、ケロイドを見世物にして生きて行かざるを得ない人がいる。原爆乙女と公然にして支援を訴えざるを得ない人がいる。浮浪者となって旅人の情けにすがらざるを得ない人たちがいる。しかし多くの罹災者は、ケロイドを隠し、原爆罹災者であることを隠し、苦しみながらひっそりと暮らしている。
広島市は今、原爆が落とされた街として平和を世界に訴えているけれど、僕は世界の人たちに訴える前に、日本の人たちに、広島市の人たちに、このクラスの仲間たちに、先生に、原爆が招く惨劇と原爆によって苦しむ人々のことを知って欲しいし、考えて欲しい。

最後に先生は、無知であったこと、それが生徒を苦しめていたことを、生徒全員に謝罪します。

二つ目の普遍的な問題は、不正に目をつぶり、あるい不正と知りながら加担する事の罪悪です。

クラスの仲間であった遠藤君の話です。遠藤君は、広島に原爆が落ちた時、学童疎開中でしたが、家族は原爆によって全員死亡し、敗戦後は孤児として惨めな暮らしを送りました。学校も流川でボーイをしながら通っていました。しかし、学校も辞め悪い仲間とつるむようになりました。しかし、更生の機会を得て、小さな町工場でようやく汗水流しながら働くようになりますが、朝鮮戦争が始まり、工場で鉄砲の弾を作るようになって、それが嫌で工場を辞めました。

戦争によって、原爆によって、優しい家族をいちどに失い、一転して苦境の道を歩まねばならなくなった遠藤君にとって、戦争や原爆は親の敵、家族の敵で、決して肯定することも加担することもできません。子どもであるがゆえに、純粋ゆえに、信条と信条と異なる行動を取るという不条理に堪える事ができません。

朝鮮戦争は、日本の敗戦復興の起爆剤となりました。もしも朝鮮戦争が勃発しなければ、日本の高度成長は許されなかったのではないか、と想像します。また、当時の日本は、占領軍(アメリカ軍)に従うしか選択はなかったとも思います。反抗すれば罪人となって刑務所に送り込まれたでしょうし、従うことが日本のメリットであると誰もが認識していたとも思います。それが決して正しい選択ではなかったとしてもです。
でも正しいこと正しくないことを学校で学んでいた子供達にとっては、筆舌に尽くし難い矛盾であったのではないかと思います。

以上で述べた普遍的な問題は、現在の日本社会においても、また国際社会においても数多くあります。
しかも、優勢な勢力の意見や意思が、異なる意見や意思を、尊重することなく、攻撃し、またデモクラシーの砦であるはずのジャーナリズムやマスコミュニケーションまでが、優勢な勢力に靡いて、異なる意見や意思の抹殺に手を貸す始末です。
普遍的な問題とはデモクラシーの存立の問題だと思います。

小さな意見、異なる意見、見ざる言わず聞かざるの問題に対する意見に、国民の誰もが真摯に耳を傾け、批判や攻撃ではなく、良識と尊重を交えながら互いに議論し、後世に恥じない選択をしながら前に進む事が、デモクラシーの理念であると思いますし、民主主義国家、デモクラシー国家を名乗る限り、それを求め続けなければいけないのだと思います。

無知となり、不正に目をつぶる、不正に加担することはデモクラシーの破壊行為であり、それは人権や自由を自ら放棄する行為なのだと思います。
その先にあるのは、独裁であり、戦争であり、死です。

追伸.
この映画で取り上げられた

0 (ゼロ) の暁 : 原子爆彈の發明・製造・決戰の記録
W.L.ローレンス著 ; 崎川範行訳
(創元文庫, D-17)
創元社, 1951.12

僕らはごめんだ : 東西ドイツの青年からの手紙
篠原正瑛編
學生社, 1961.6 c1956

是非探して読みたいと思います。

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