私には、プロ野球選手で、とても痺れさせてくれた選手が3名います。
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ひとりは、阪神タイガース時代の江夏豊。
1966年、前年度から開始されたドラフト会議の一位指名選手として大阪学院高等学校から阪神タイガースに入団。
入団二年目の1968年に奪三振401個を記録、この奪三振記録は現在も破られない世界記録である。
江夏は王に対してライバル心を燃やし、この年、鉄腕稲尾和久(神様・仏様・稲尾様と呼ばれた鉄腕投手、私の世代では、神様・仏様・バース様である)の持つ日本記録353奪三振と新記録354奪三振を王から奪った。
これには逸話がある、同一試合で、王から日本記録と並ぶ奪三振を記録したのち、次打者以降を三振を取らずに打ち取って、次の王の打席で新記録となる奪三振を記録した。後年にこの逸話を知り、おおいに心が躍ったものである。
1971年(昭和46年)7月17日(土)、西宮球場で行われたオールスターゲームでの9連続奪三振、
1973年(昭和48年)8月30日(木)中日戦(甲子園)、延長11回を投げ抜き、その裏サヨナラホームランを放って、日本プロ野球史上初の延長ノーヒットノーランを達成、
私はこの二試合をテレビでライブで観た。この二試合で江夏の虜となった。
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そして野茂英雄。
1989年(平成元年)、ドラフト会議で史上最多8球団から一位指名を受け、近鉄バッファローズに入団。
名将仰木彬の下、東の西武ライオンズに一歩及ばず優勝には縁がなかったものの、『いてまえ打線』とともに、野茂は『トルネード投法』から繰り出すストレート、フォークボールで『ドクターK』と呼ばれ当代随一の投手となった。
しかし、仰木彬退団ののち、後続の鈴木啓示監督との確執、フロントとの確執によって、1994年のシーズン終了後、任意引退、海外に活路を求めた。
そして、1995年(平成7年)、アメリカに渡りロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約し、その後メジャーリーグに昇格して、5月2日(火)、サンフランシスコ・ジャイアンツ戦(敵地キャンドルスティック・パーク)にて先発のマウンドに立った。勝敗は付かなかったものの、メジャーの巨漢打者をきりきり舞いさせたこと、私はライブで観た。
この年野茂は、日本人選手として初めてメジャーリーグのオールスターゲームに選出され、
7月11日(火)、ザ・ボールパーク・イン・アーリントン(テキサス・レンジャーズの本拠地)のマウンドに先発投手として立った。オープニングセレモニーでは、唯一ひとり、招待されたリトルリーグの子供達一人ひとりとハイタッチを交わしていた。その姿がとても微笑ましくあり、また頼もしくもあった。
最近、国際試合が盛んになった中で、野球でもサッカーでも、直ぐに『サムライ』という言葉を安易に当用するが、その風潮に、つい眉間にしわが寄ってしまう。
『侍』『武士』とは、新渡戸稲造がその著書『武士道』で紹介しているように、ストイックな存在、孤高の存在と考える。当時の野茂は、まさに私のイメージ通りの『侍』であった。
メジャーリーグは、野茂が登場する前年の1994年、選手の年俸高騰を抑制しようとするオーナー側と選手会が対立、選手会がストライキに突入し、メジャーリーグの長い歴史の中で初めてシーズンが中断されるという異常事態となり、遂にはアメリカの国技ともいえるベースボールが凋落する危機を招いた。
野茂は、その危機を救う救世主となった。当時日本プロ野球界で一二を争う高額年俸選手だった地位を投げ捨て、全くのルーキー扱いでメジャーリーグに飛び込み、寡黙さとマウンドでの揺るぎない度胸、そして時の饒舌なスーパースター達をきりきり舞いさせるフォークボールで、西海岸から『ノモマニア』を生み、やがてそれは、全米を席巻し、ベースボールは凋落の危機から救われた。
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イチロー(鈴木一朗)。
彼もまた仰木彬の下で、その実力を遺憾なく発揮した選手であろう。彼の栄光の足跡を、私ごときがごたごたと書く必要もないのだが、簡単に記す。
日本プロ野球(パリーグ)オリックス・ブルーウェーブで7年連続首位打者という偉業を達成した後、2001年(平成13年)ポスティング制度を利用して、シアトル・マリナーズに移籍。
初年度から続く200本安打、ゴールドグラブ賞受賞(その外野手としての守備は『amazing』と表される)、そして華麗な走塁は、1990年代後半に巨漢達がステロイドという魔薬により狂競した『パワー』が織りなす聖域を超越したホームラン競争に一往の終止符を付け、ベースボールのもう一つの神髄、自己鍛錬のみで磨き上げた『スピード』が織りなすスリルと緊張の面白さをファンに思い起こさせた。
記録だけで無く、野茂と同様に、ベースボールの躍進に多大な貢献を成したのである。
平成19年7月10日(火)、AT&Tパーク(サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地)で開催されたオールスターゲームで彼は、オールスターゲーム史上初めての、ランニングホームラン(inside-the-park home run)を記録した。それは、奇蹟、驚嘆として私の記憶に刻まれた。あれほどに華麗なベースランニングを観たのは初めてだった。
このゲームでイチローは、アメリカンリーグ勝利の立役者としてMVPを獲得した。
以上の3名に共通する、彼らにこそ相応しい表現は『野風増』(中国・四国地方の方言で「やんちゃ坊主」を意味する言葉)である。
同世代の方ならば、河島英五さんの『野風増』という歌で共感して頂けると思う。
その『野風増』の一人、イチローが、今日9月24日(金)、カナダ、トロントのロジャーズセンター(スタジアム)で行われたトロント・ブルージェイズ戦(デーゲーム)、5回表1死一塁、3打席目、初球を鋭いライナーでセンター前にヒットを放ち、10シーズン連続200本安打に到達した。レギュラーシーズン、チーム152試合目であった。
自己の持つメジャーリーグ連続200安打記録を9年から10年に伸ばしたと共に、メジャーリーク安打数記録保持者(4256本)のピート・ローズが持つもう一つの記録、200本安打最多達成記録(10回)に並んだ。
ピート・ローズは、1960年代から80年代に掛けて活躍した希代のハッスル・プレーヤーであったが、野球賭博に関与したことで、現在、メジャーリーグから永久追放状態となっている。
ロジャーズセンターは閑散としていた。ブルージェイズ、マリナーズ共に早くに優勝戦線から脱落し、消化試合である。また、イチローにとっては敵地、それでも全ての観客が、イチローのヒッティングと同時にスタンディングし、彼の偉業を拍手と歓声で讃えた。二年前『イチロー・バッシング』で揺れた自軍の僚友達もベンチを出て、並んで拍手をしていた。イチローは戸惑いながら、少し遅れてヘルメットを脱ぎ、観客に向かって、賞賛に軽いお辞儀で応えた。
イチローがメジャーデビューを華々しく飾った2001年のマリナーズは最強だった。アメリカンリーグの中で断トツで勝ち進み、116勝46敗、西地区を制覇した。マリナーズはその勢いで、地区シリーズ(Division Series)、リーグ優勝決定戦(League Championship Series )を勝ち上がってワールドシリーズ(World Series)に進ものと全く疑わなかったが、リーグ優勝決定戦でヤンキースに呆気なく敗れた。マリナーズは1977年の球団創設以来、未だワールドシリーズに進出したことがなく、球団として3度目の最大のワールドシリーズ出場チャンスをこの様にして逃した。
こうして1990年代後半、アメリカンリーグの強豪チームと数えられていたマリナーズは、それ以降、沈下した。
イチローは、この様なマリナーズ暗黒の時代にひとり気を吐いて、記録挑戦を糧に戦っている。
メジャーリーグの長き歴史は、多くの名選手を輩出してきた。しかし、ワールドシリーズに出場できるのはほんの一握りで、チャンピオン・リングを指にはめる幸運に浴するものはさらに希少だ。
いつかイチローも、バットを置き、球界を去る時が来るだろう。
野球の神様にお願いしたい。
どうか、これほどまでにベースボールを面白くしまた身近なものにし、また日本の野球の地位を高めてくれたイチローに、多くの野球少年の夢の門戸を開いてくれたイチローに、ワールドチャンピオンリングという褒美を授けてあげて欲しい。
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