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”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2012年9月27日木曜日

《スイッチの押し込み》事件について


ある学校で、照明などのスイッチを押し込んで壊してしまう事件が起こっています。
この《スイッチの押し込み》事件は、どうやら日本の各地の学校で起こっている様子です。
一つの学校の学校通信をインターネットを通じて読むことが出来ました。

《スイッチの押し込み》、これは器物破損という悪質な犯罪です。
その行為の代償は、被害の賠償と、そして刑に服さなければならないということです。
とても重く辛い代償です。

スイッチを壊すくらいのいたずら、などとうそぶくなかれ
想像してみてください
もし教室の照明がつかなければ、授業の運営に差し支えます。
もし奥まった部屋や廊下の照明がつかなければ、捜し物を見つけられることも出来ず、また事故の危険も高まります。
『小さな亀裂は、やがて大きな崩壊を招く』ということを、私たち全員が肝に銘じなければなりません。

そして犯人に伝えます。
あなたは学校内の人間かもしれないし、学校に不正に侵入した者かもしれません。
ですが真理がひとつあります、あなたは悪意に心を犯されのです。
誰も見ていないから分かりっこない、そんなことはありません。しっかりと見つめている者がいます。
ひとりは、あなたの良心です。あなたの良心は酷く痛めつけられて、一生その痛みを背負わなければならないでしょう。
ふたりめは、あなたの隣人です。あなたの行為を知ってはいても告白できずにいるのです。あなたは隣人を、良心の呵責に苦しめているのです。
さいごは、大いなる存在、神です。あなたの良きことも悪しきこともすべてを知り、そして見つめ続けています。
何故ならば、それはあなたがとても大切な存在であるからです。
そしてあなたが大切な存在である様に、あなたの隣人も大切な存在です。そしてあなたが与えられた生活環境も大切な存在です。あなたは、この事をしっかりと心に刻まなければなりません。
そして自ら罪を告白し、罪を償い、心から悪意を追っ払って、軽やかな心になって、歩き出してください。

最後に、
この事件の学校の対応を見ると、とてもナイーブ過ぎる様に思います。
大切なことはたった一つです。
『罪を憎んで人を憎まず』
罪を犯す事の重大さを諭し、その事柄を通じて、さらに人を良き者へと導く。
愛情に富んだ厳しい姿勢が、今求められていると思います。


P.S.
何故に私がこのように考えるのか?それは私が数多くの罪を背負っているからです。
もちろん誓って凶悪な犯罪行為を犯したことはありません。
ですが、自らをそして隣人を悲しみに落とす罪は数多く犯しています。
その代償は苦しみです。その苦しみは、快楽で補うことはできません。その苦しみはいつまでも私とともにあります。

大切な事は、罪を避けることです。岐路に立った時、良心に照らし合わせて選択を行うことです。
そしてもう一つは、癇癪を起こさず、常に平静に我慢強く歩む事です。これもまた苦しみを伴う生き方ですが、この苦しみは重荷ではなく、励みです。そしていつか大いなる恵みに授かる生き方です。
だらしなく生きてきた私の、うらやむ誠意ある本道です。

2 件のコメント:

  1. 私はそこまでへりくだることは出来ないですねー。
    罪の存在も曖昧ですし、相手がどのような視点で何を言おうとしてるのか大体わかるので、あんま感動もしないし説得されそうもないです。
    自己に不幸をもたらす行動は自粛すべきであるとは思いますが、自分の行動には全て原因があります。その原因は自分だけのものではなく、外部からもたらされるものが多い。そのような状況で、外に吐き出さなければ自壊してしまいます。
    何が言いたいのかというと、社会維持のための感情論を私は自分の脳にインストールしたくはないということですね。気持ち悪いです。まぁ、犯罪は犯しませんけどね。色々めんどくさいので。

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    1. 匿名さん、おはようございます。
      『自己に不幸をもたらす行動は自粛すべき、また自分の行動には全て原因があり、その多くは外部からもたらせるものが多い。そして、外に吐き出さなければ自壊してしまう。』と匿名さんは書かれます。
      今私は次の様に思っています。『私は生かされている。私たちは生かされている。』と。
      信仰や憧れを抱く様になって、このように考える様になりました。
      あなたが書かれる様に、私たちは行動のみならず、体の成長、心の成長、そして自己(心)すべてが外部からもたらされた影響によって形成されると思います。その影響とは、恵みであり苦しみです。そして私たちは幸せや悲しみを覚え、憧れや妬みを知ります。
      ですから私たちは、個であると同時に、密接するあらゆるものと一体であるのだと思います。
      このように考えると、「自壊を避ける為に外に吐き出す」行為は、結局は自壊を招く行為でしかないと思います。

      そして私たちには、選択する、そして判断する意思があります。
      本当に自分の為になる、そして密接に関係するあらゆるものの為となる、選択、そして判断をして歩む事が、陽の光の中を堂々と歩める生き方ではないかと思います。

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