4月1日、安倍首相はニュース番組をはしごして、内閣(自分)が「令和」と決めた理由を説明していましたね。元号が最終的に内閣が決めるとは知りませんでした。1979年に法令化されたんですね。「平成」について、今上天皇が即位される前日(昭和天皇が崩御された日)に幾つかの案から選ばれたとずっと思っていましたが、どうやら勘違いでした。
でも、元号は皇位の継承があったときに新たに定められるわけですから、国政と紐付けるよりも、皇室文化として、国民が選んだ中から皇位継承者が一つを選び、国民に新元号を述べられる、としたほうが、国民側からとしても平等であると思います。今回の様な生前退位による即位の場合においても、即位前日に皇室から厳かに発表するとしていたら、乱痴気気味な元号商法や元号詐欺などを抑制できたのではないか、と思います。
「令和」ですが、元号として初めて和書から選ばれたという点が強調されましたね。その出典元である万葉集は、759年(天平宝字3年)までの約130年間に様々な身分の人が読んだ歌が分類収録された和歌集です。その万葉集の、第五巻梅花の歌三十二首の序文、大伴旅人によるとされる序文の一節が出典元であると説明がありました。
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梅花謌卅二首并序
標訓 梅花の歌三十二首、并せて序
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。
于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。
天平二年(730年)正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。時に、初春の好き月にして、空気はよく風は爽やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。のみにあらず、明け方の嶺には雲が移り動き、松は薄絹のような雲を掛けてきぬがさを傾け、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。庭には蝶が舞ひ、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。人々は言葉を一室の裏に忘れ、胸襟を煙霞の外に開きあっている。淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれがら満ち足りている。これを文筆にするのでなければ、どのようにして心を表現しよう。中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。
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転載元
※万葉集を読む
http://flac.aki.gs/Manyou/?p=3227
「令和」は、「初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。」の一節から「令」と「和」の二文字が選ばれて作られました。令は良い、和は和み、「令和」には「良い平和」という願いが込められていて、選定理由を知ると、「令和」もまんざら悪くないなぁと思えるようになりました。
そして、太宰府で読まれた梅花の歌には、古代日本の風景を偲ばせます。
古代の日本は、大陸や海から様々な容姿の人々や様々な文明を持つ人々が流れ着き、長い時間を掛けて融和しながら、独自の日本文化というものを育んでいきました。
また、当時の日本からすれば世界の中心である大陸と、早くから交流や交易が行われていたのだと思います。古代人にとっては、海というものは想像するよりも困難な隔たりでは無かったように思います。
そして646年、最初の維新、大化改新によって、天皇を中心とする律令国家が成立し、日本は独立国家となりました。隣の朝鮮半島では5世紀に渡る大国高句麗、百済、小国新羅の三国支配が、新羅が唐の冊封国となったことから唐の朝鮮半島侵攻が始まり、終焉を迎えます。日本も百済支援に初の海外派兵を行いますが、敗れ、百済は滅亡、日本は九州太宰府に防衛拠点を築き、防人を駐屯させるに至ります。
そして以後、第二次世界大戦の敗戦で占領されるまでの約1300年あまり独立国家して歩みます。
太宰府は古代日本国の防衛の拠点となり、また大陸との交流、交易の拠点ともなりました。そして多くの日本人が大陸へ渡ったのだと思います。大伴旅人が太宰府で梅花の歌会を催した730年ごろには、唐の脅威はずいぶんと去って、人的交流や文化交流が盛んになっていたころではないでしょうか。その歌会に集まった人々は大いなる旅を経験した人たちばかりであったと思います。豊かな心を育んだ日本人であったのだと思います。
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