今年読んだ本の中で一番の衝撃を受けたのは、イギリスの哲学者ナイジェル・ウォーバートンの「表現の自由」入門 (原題 FREE SPEECH)でした。
近世のフランスから始まった人民による、支配層からの自由と民主主義、博愛主義を勝ち取る運動は、長きに渡る戦いの末に、近代立憲君主主義を掲げる民主主義国家において、人権の保障と言論の自由、表現の自由が憲法に明記されるまでになりました。
憲法とは、国家権力をそこに明記されているルールによって制限することにより、国民の権利や自由を保護する仕組みです。そしてすべての国民が憲法を協約することで国家は成り立っています。
そして、もしも人民の権利や自由が縮小される事態となれば、それは国家権力を勢いづかせることになるため、国民の権利や自由を保護する憲法は、絶対に守らねばなりません。
それを頑なに守ろうとするジレンマを、フランスの哲学者ヴィルデールが言葉に残しています。私はこの言葉に衝撃を受けました。
「私は君の言うことを徹頭徹尾嫌悪するが、しかしそれを言う君の権利を死ぬまで擁護する」
現代でいえばヘイトスピーチです。ヘイトスピーチは敵視する相手を言論によって徹底的に痛めつけるばかりか、ヘイトの意識がなかった、でも不満を抱える人民を、ヘイトへと駆り立てます。人権主義者や博愛主義者にとっては決して容認できるものではありませんが、しかし、ヘイトスピーチも言論であり表現であり、その自由を憲法は保障しています。でももしも、人民がヘイトスピーチを禁止する法律を求めれば、国家権力は直ぐに法律を作るでしょう。でもそれは、国家権力に都合の良い法律で、様々なところに適用され、いつの間にかあらゆる人民の言論や表現の自由が縮小される事態を招く危険をはらんでいます。ですから、私達人民はむやみやたらととヘイトスピーチを禁止する事を国家権力に求める事ができないのです。ただ静観するか、穏健な言論で対抗するしかありません。万一、ヘイトスピーチを暴力で封じ込めようとするならば、それは悪辣な犯罪行為となって罰せられてしまいます。これも非常なジレンマです。
そして、国家権力とは誰の事でしょう。
ある雑誌の記事に、端的に表現した文章がありました。
「選挙は権力を掴む人を決めるもので、真実を語る人を決めるものではない」
そうです、私達人民が自由選挙で選んだ同じ人民であったものです。人民の中からリーダーとして選ばれた者が、権力の座に就くのです。
今年は、国家権力が次々と頭をもたげた年として歴史に刻まれるかも知れません。その筆頭が、アメリカの次期大統領に選ばれたドナルド・トランプです。
彼が選挙で示したことは、アメリカ社会の分断と不満を抱える多くの白人に迎合したことです。彼は「アメリカファースト」を唱えました。でもそれはアメリカ人の中の、彼と同種の白人至上主義者や差別主義者、また男社会を是とする者、暴力を是とする者への呼びかけであった様に思います。
そして彼は「客観的な真実よりも刺激的な嘘」を大いに活用しました。彼を支持した人々は、その言動に熱狂しました。その言動はまさにヘイトスピーチそのものでした。
国家権力がヘイトと手を組めば、国家ぐるみの排斥が容易に行える様になるでしょう。それはまさにナチスによる独裁やファシズムという悪夢の再来です。
人民が長き時間を掛けて一つひとつ勝ち取ってきた自由の権利が、そしてその自由の権利を失わないためにしてきた我慢さえも報われぬままに、現在のシリアや多くの紛争国、また独裁国家と同様に、新しい支配層によって一気に奪い取られる日が迫っている恐怖を覚えます。
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