播磨の国ブログ検索

花筏から高砂を考えます。

「花筏」という言葉を、週刊誌のグラビアで見つけました。 桜の花びらが散って、降り立った川面に広がり悠悠と流れゆく様を見た先人が、まるで筏を流しているようだと名付けた風流この上ない言葉です。 「花筏」の風流な意味合いなど知らず、でもずいぶん前から名前としてこの言葉は知っていま...

2010年9月28日火曜日

外科診察室で見た『オンラインX線デジタル画像』に釘付けになりました・・・

昨日、妻が朝、次男耕太郎の、体調の悪さ(唇の荒れ)を認め、
自宅近くのみやけ医院に、電話診察予約システムで予約を登録し、
学校から帰宅後、夕方、病院で診察を受けました。
単純ヘルペス、口唇ヘルペスとの診断で、
先生曰く、
『最近、スポーツをする生徒に多く見かける症状で、特にこの時期になって夏の疲れから、この様な症状がでる生徒が多いです』
また『ひどい場合は、風邪から肺炎に進行する生徒もいます』というお話しでした。
先生も、何故にこの様な傾向になってきたのか、首を傾げておられました。

みやけ医院の待合室で待機している最中に、
娘さくらから電話があり、
『指の腫れが引かず、顧問の先生から病院で診察を受けなさい』と言われて、
最寄り駅『山陽電鉄大塩駅』で下車後、電話を掛けてきました。
耕太郎の診察が終了した後、今度はさくらを近くの中村整形外科に連れて行き、
診察・レントゲン検査の結果、
剥離骨折が判明、正式名称は『右示指中節骨骨折』、全治一ヶ月の診断でした。
9/26(日)、姫路東高で開催された、高校女子ソフトボール大会での試合直前練習でノックを受けた際に、右手人差し指を打撲したとの事、元気が取り柄の娘で、その後、テーピングして試合に出場したとの事でした。
しかし、暫くは治す事に専念する様話しました。
自分は、もどかしくても、中途半端にすれば治りが遅くなり、また後遺症の恐れもある。
自分にもチームメートにも迷惑を掛けないためにも、治療に専念するよう、そう伝えました。

この中村整形外科、若い頃から、ぎっくり腰や、ヘルニア治療、胸椎骨折治療等で私自身、大変お世話になった病院で、中村先生はもとより、看護師さん、またレントゲン技師は馴染みで、特にレントゲン技師の藤井さんとは小学校のPTAでともに働いた仲間です。
藤井さんの息子宏政さんは、鹿島中野球部OBで、加古川北高進学後、2008年、強豪校ひしめく兵庫の中で公立高校として春・夏と甲子園出場の原動力となり、その秋、育成枠で阪神タイガースに指名を受け、現在、背番号『125』、レギュラーを目指しています。

またいつものように話が逸れますが、
そういえば、今年6月5日(土)姫路球場で対ドラゴンズ戦のウェスタンリーグの試合があり、耕太郎のチームメートのお父さんが務めておられるDyDo関連の兵庫エルビー株式会社が特別協賛され、息子が始球式を行うので招待して頂きました。姫路で生まれたものの、姫路球場に入ったのは初めてでした。しかも、バックネット裏、アンパイア控え室です。
その後、グラウンドに出て、写真撮影しました。90年代タイガースを引っ張った貴公子八木さんとも短くですが談笑できました。当時を振り返り、甲子園でのヤクルトとの6時間を越える死闘の試合について伺いましたら(私はこの試合、大阪京橋のとある居酒屋で飲みながらサンテレビのタイガースナイター中継を観ていました)、さすがプロ野球選手、詳細に記憶されていました。
試合前の守備練習の際の、藤井宏政選手も撮影しました。高校を卒業して、プロの水にも馴染んだのでしょう、大きく逞しい体でした。







話は戻り、

しかし、診察は久し振りでした。
そして、驚きました。さくらが指のレントゲン撮影をした後、フィルムを現像して・・・と流れを思い描こうとする間もなく、診察室から入室案内がありました。再度、診察室に入ると、パソコンの液晶画面に、鮮明なレントゲン写真が表示されていました。マウスクリックで、骨折箇所を拡大表示、倍率は700%を示していました。拡大しても、画像は鮮明でした。デジタルカメラや画像処理に興味が尽きない私は、その画像に釘付けになりました。
診察を終えた後、藤井さんに、『解像度はなんぼなの?』とトンチンカンな質問もしていました。
自宅に帰って、インターネットで調べると、『オンラインX線撮像システム』というものらしいです。
そういえば、画像は、InternetExplorer(インターネット閲覧ソフト)で表示していました。
医療の高度化は昨今の常識となっていますが、この様に患者に提供される情報がよりクリアになることは、素晴らしいと感じました。

そうそう、もといもとい
息子、娘の早い完治を願います。
なんか、付け足しのようになり、気まずい気持ちのまま、終わりにします。

2010年9月27日月曜日

『秋の総体地区予選』 私を野球に連れてって

野球といえば『夏』、夏の全国高等学校野球大会、プロ野球も、アマチュア野球も、炎天下での激戦、また夕涼みの楽しみとしてのナイター観戦、私は『夏』を最初に連想します。

ですが『秋』こそ、野球の本当の面白さに触れられる季節かも知れない、最近そう、感じ始めています。
日本プロ野球はクライマックスシリーズが導入されてから、『消化試合』という余りにもファンを舐めた試合が減り、リーグ優勝、クライマックスシリーズを経て日本シリーズと、歓喜の波が次々と押し寄せてきます。
また、高校野球は、春の全国選抜高等学校野球大会の地区予選が始まり、夏を制したチームを含め全ての球児が、優しく爽やかな秋空の下で、夏の苦しい練習に耐えた成果を携えて、戦いを繰り広げています。

2年前まで観戦の中心であった小学生少年野球においては、昨年末から新たになったチームの約一年の活動の総決算。
各部員は、例えば5年生は6年生に学年が上がり、初めて組織活動の様々なリーダーとしての責務が与えられ、野球を単にプレーするだけではなく、その責務の重みを感じながら野球活動を経験します。
彼らにとっての秋の大会は、実りの刈り入れです。当然のこと、選手も、応援する我々も、ひとつでも多く勝利する事を願っています。しかし、彼らにとって小学生少年野球の最後を飾る秋の大会の経験も含めて、これからの彼らの糧、力となることを観戦を通じて、私は学びました。

そして今、観戦の中心である中学生の野球です。
中学の部活としての野球は、チーム事情によって若干異なる部分はあると思いますが、初夏の中体連軟式野球大会に敗れた時点で、新チームに移行、2年生が中心となっての活動が始まります。
私のようなアマチュア野球経験すら殆どない者が、と笑われてしまう事をあえて書きますと、
小学生少年野球(子供会の野球)との大きな違いは、
部員個々の育成よりもチームという組織で戦う事、戦術に比重が移っているという事です。
監督・部長は、部の顧問であり、責任者であり、グラウンドを一歩出れば中学校の先生です。
でもグラウンドでは、チームを率いる監督・コーチとして、チーム事情を踏まえた戦術を指導し、日々の練習、練習試合を通じて選手に叩き込み、公式戦に臨みます。目指すのは深紅の優勝旗のみです。
厳しい練習では怪我もあります、親として非情とも取れる采配もあります。そんな時、一歩も二歩も下がって、チームを広く見渡せば、監督の苦悩も見え、また部員それぞれについて、与えられるチャンスに結果が出せるよう準備をする者、チャンスに応える者・応えられない者、という部員側の喜びや苦しみも見えてきます。

また、野球というスポーツは、グラウンドに散る9名だけで行えるものではなく、例えば部員数27名であれば、27名それぞれに大切な役割・仕事が与えられます。
走塁コーチ、彼らの指示には、走者を活かし、次の塁を奪い、得点を上げる重要な責務があります。
スコアー記録係や、盗塁に関する時間の計測係が収集した情報は、ゲームの大局的な戦略、極小的な戦術に影響を与えます。
プルペンは、投手を気持ちよくマウンドに送る責務があり、控え選手は、常にグラウンドに立てるよう、ゲームに集中しなければならない。
そして応援、これはグラウンドに立つ9名を含めた全員が、共に戦っているかの指標になります。
『投手を孤立させるな!』、『エラーやチャンスを潰した選手を奮い立たせろ!』、『ピンチに受け身になるな!』、それぞれの立場に身を置けば、理解できるはずです。声援をくれる、信じてくれる、共に戦ってくれる、僚友・戦友がいる心強さを・・・。
ピンチを皆で切り抜け、次に巡るチャンスを皆でものにして、『勝つ』、そこに野球の、野球でしか味わえない醍醐味があるように思うのです。

少年野球の指導者でもある友人が、中学野球を評して、初年度は、守り強いチームが勝ち残り、次年度最終年度は、夏の激しい練習、冬の地道なトレーニングを経へ実力をつけたチームが勝ち進む。イチローの言葉を引用するならば、勝利のための、得点をするための、オプションを少なくとも二つ三つは最低限備えたチームへと進化することが、来年に向けた課題と思います。

10月1日(金)、総体への出場権をかけた高砂市地区予選が始まります。鹿島中野球部部員達は、この3ヶ月、怪我もし、泥んこにもなって、監督の指導に必死について来て、10月1日を迎えます。
現在、怪我で出場できない部員がいます。これまでのところゲームへの出場機会がない部員もいます。
でも27名で、ここまでやって来た事にそれぞれが自信を持ち、チームメートを信頼し、与えられたポジションで精一杯に戦って欲しいと願います。思いっきり楽しんで欲しいと願います。
一度しかない試合、一戦一戦を心に刻んで欲しいと願います。

2010年9月24日金曜日

野風増『イチロー』、10年連続200本安打達成!

私には、プロ野球選手で、とても痺れさせてくれた選手が3名います。

*****
ひとりは、阪神タイガース時代の江夏豊。

1966年、前年度から開始されたドラフト会議の一位指名選手として大阪学院高等学校から阪神タイガースに入団。
入団二年目の1968年に奪三振401個を記録、この奪三振記録は現在も破られない世界記録である。
江夏は王に対してライバル心を燃やし、この年、鉄腕稲尾和久(神様・仏様・稲尾様と呼ばれた鉄腕投手、私の世代では、神様・仏様・バース様である)の持つ日本記録353奪三振と新記録354奪三振を王から奪った。
これには逸話がある、同一試合で、王から日本記録と並ぶ奪三振を記録したのち、次打者以降を三振を取らずに打ち取って、次の王の打席で新記録となる奪三振を記録した。後年にこの逸話を知り、おおいに心が躍ったものである。

1971年(昭和46年)7月17日(土)、西宮球場で行われたオールスターゲームでの9連続奪三振、



1973年(昭和48年)8月30日(木)中日戦(甲子園)、延長11回を投げ抜き、その裏サヨナラホームランを放って、日本プロ野球史上初の延長ノーヒットノーランを達成、



私はこの二試合をテレビでライブで観た。この二試合で江夏の虜となった。

*****
そして野茂英雄。



1989年(平成元年)、ドラフト会議で史上最多8球団から一位指名を受け、近鉄バッファローズに入団。
名将仰木彬の下、東の西武ライオンズに一歩及ばず優勝には縁がなかったものの、『いてまえ打線』とともに、野茂は『トルネード投法』から繰り出すストレート、フォークボールで『ドクターK』と呼ばれ当代随一の投手となった。
しかし、仰木彬退団ののち、後続の鈴木啓示監督との確執、フロントとの確執によって、1994年のシーズン終了後、任意引退、海外に活路を求めた。

そして、1995年(平成7年)、アメリカに渡りロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約し、その後メジャーリーグに昇格して、5月2日(火)、サンフランシスコ・ジャイアンツ戦(敵地キャンドルスティック・パーク)にて先発のマウンドに立った。勝敗は付かなかったものの、メジャーの巨漢打者をきりきり舞いさせたこと、私はライブで観た。
この年野茂は、日本人選手として初めてメジャーリーグのオールスターゲームに選出され、
7月11日(火)、ザ・ボールパーク・イン・アーリントン(テキサス・レンジャーズの本拠地)のマウンドに先発投手として立った。オープニングセレモニーでは、唯一ひとり、招待されたリトルリーグの子供達一人ひとりとハイタッチを交わしていた。その姿がとても微笑ましくあり、また頼もしくもあった。

最近、国際試合が盛んになった中で、野球でもサッカーでも、直ぐに『サムライ』という言葉を安易に当用するが、その風潮に、つい眉間にしわが寄ってしまう。
『侍』『武士』とは、新渡戸稲造がその著書『武士道』で紹介しているように、ストイックな存在、孤高の存在と考える。当時の野茂は、まさに私のイメージ通りの『侍』であった。

メジャーリーグは、野茂が登場する前年の1994年、選手の年俸高騰を抑制しようとするオーナー側と選手会が対立、選手会がストライキに突入し、メジャーリーグの長い歴史の中で初めてシーズンが中断されるという異常事態となり、遂にはアメリカの国技ともいえるベースボールが凋落する危機を招いた。
野茂は、その危機を救う救世主となった。当時日本プロ野球界で一二を争う高額年俸選手だった地位を投げ捨て、全くのルーキー扱いでメジャーリーグに飛び込み、寡黙さとマウンドでの揺るぎない度胸、そして時の饒舌なスーパースター達をきりきり舞いさせるフォークボールで、西海岸から『ノモマニア』を生み、やがてそれは、全米を席巻し、ベースボールは凋落の危機から救われた。

*****
イチロー(鈴木一朗)。

彼もまた仰木彬の下で、その実力を遺憾なく発揮した選手であろう。彼の栄光の足跡を、私ごときがごたごたと書く必要もないのだが、簡単に記す。
日本プロ野球(パリーグ)オリックス・ブルーウェーブで7年連続首位打者という偉業を達成した後、2001年(平成13年)ポスティング制度を利用して、シアトル・マリナーズに移籍。
初年度から続く200本安打、ゴールドグラブ賞受賞(その外野手としての守備は『amazing』と表される)、そして華麗な走塁は、1990年代後半に巨漢達がステロイドという魔薬により狂競した『パワー』が織りなす聖域を超越したホームラン競争に一往の終止符を付け、ベースボールのもう一つの神髄、自己鍛錬のみで磨き上げた『スピード』が織りなすスリルと緊張の面白さをファンに思い起こさせた。
記録だけで無く、野茂と同様に、ベースボールの躍進に多大な貢献を成したのである。

平成19年7月10日(火)、AT&Tパーク(サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地)で開催されたオールスターゲームで彼は、オールスターゲーム史上初めての、ランニングホームラン(inside-the-park home run)を記録した。それは、奇蹟、驚嘆として私の記憶に刻まれた。あれほどに華麗なベースランニングを観たのは初めてだった。
このゲームでイチローは、アメリカンリーグ勝利の立役者としてMVPを獲得した。



以上の3名に共通する、彼らにこそ相応しい表現は『野風増』(中国・四国地方の方言で「やんちゃ坊主」を意味する言葉)である。
同世代の方ならば、河島英五さんの『野風増』という歌で共感して頂けると思う。



その『野風増』の一人、イチローが、今日9月24日(金)、カナダ、トロントのロジャーズセンター(スタジアム)で行われたトロント・ブルージェイズ戦(デーゲーム)、5回表1死一塁、3打席目、初球を鋭いライナーでセンター前にヒットを放ち、10シーズン連続200本安打に到達した。レギュラーシーズン、チーム152試合目であった。


自己の持つメジャーリーグ連続200安打記録を9年から10年に伸ばしたと共に、メジャーリーク安打数記録保持者(4256本)のピート・ローズが持つもう一つの記録、200本安打最多達成記録(10回)に並んだ。
ピート・ローズは、1960年代から80年代に掛けて活躍した希代のハッスル・プレーヤーであったが、野球賭博に関与したことで、現在、メジャーリーグから永久追放状態となっている。

ロジャーズセンターは閑散としていた。ブルージェイズ、マリナーズ共に早くに優勝戦線から脱落し、消化試合である。また、イチローにとっては敵地、それでも全ての観客が、イチローのヒッティングと同時にスタンディングし、彼の偉業を拍手と歓声で讃えた。二年前『イチロー・バッシング』で揺れた自軍の僚友達もベンチを出て、並んで拍手をしていた。イチローは戸惑いながら、少し遅れてヘルメットを脱ぎ、観客に向かって、賞賛に軽いお辞儀で応えた。


イチローがメジャーデビューを華々しく飾った2001年のマリナーズは最強だった。アメリカンリーグの中で断トツで勝ち進み、116勝46敗、西地区を制覇した。マリナーズはその勢いで、地区シリーズ(Division Series)、リーグ優勝決定戦(League Championship Series )を勝ち上がってワールドシリーズ(World Series)に進ものと全く疑わなかったが、リーグ優勝決定戦でヤンキースに呆気なく敗れた。マリナーズは1977年の球団創設以来、未だワールドシリーズに進出したことがなく、球団として3度目の最大のワールドシリーズ出場チャンスをこの様にして逃した。
こうして1990年代後半、アメリカンリーグの強豪チームと数えられていたマリナーズは、それ以降、沈下した。

イチローは、この様なマリナーズ暗黒の時代にひとり気を吐いて、記録挑戦を糧に戦っている。
メジャーリーグの長き歴史は、多くの名選手を輩出してきた。しかし、ワールドシリーズに出場できるのはほんの一握りで、チャンピオン・リングを指にはめる幸運に浴するものはさらに希少だ。

いつかイチローも、バットを置き、球界を去る時が来るだろう。
野球の神様にお願いしたい。
どうか、これほどまでにベースボールを面白くしまた身近なものにし、また日本の野球の地位を高めてくれたイチローに、多くの野球少年の夢の門戸を開いてくれたイチローに、ワールドチャンピオンリングという褒美を授けてあげて欲しい。

2010年9月22日水曜日

『坂本龍馬』考 その1 ~司馬竜馬との出会い、そして竜馬と歩む人生~

坂本龍馬、高知桂浜にある10数メートルはあろう龍馬立像を見られた方ならばお判りだと思う。
彼は太平洋を望んでいる。

彼は幕末期、まだ歴史の表舞台に立つ前、『自分とは何もので』、『何ができるのか』、『望みは』を問い続け、求め、日本国中を奔走した。たとえ疎んじられようとも聴いた、特に新しい考え方、世の仕組み、つまり遠く異国の世情に詳しい者からどん欲に尋ね、聴いた。
そして、『支配社会を転換し、開かれた社会、どこで生まれようとも、誰であろうとも、志あれば、いつでも学び、そして望む仕事ができる社会を新興する』事を、彼の羅針盤に進路と定め、動いた。

23歳の頃、社会人一年目の年、会社の一年先輩で同じ寮住まいであった、通称『ちびっ子ギャング』と呼ばれていた好漢に心酔し、先輩の愛読書であった司馬遼太郎著『竜馬がゆく』を梅田の紀伊國屋書店で購入(文庫本八巻)、ひたすら読んだ。

物語の始まり、竜馬18歳の時、剣術修業で江戸へ旅立つその朝、下僕の源爺が紙切れでこしらえた桜花を庭の若桜の木に括り付け、『えらいことじゃ・・・(三月もまだ半ばというのに)若桜が、花をつけちょりまする』と騒ぎだし、家のもの皆が、源爺の法螺じゃと笑い出す、目に一杯の涙を浮かべて・・・、
今、この行を読んだだけで、もう私は泣いている。初めて竜馬に出会ってから、今日9月22日で、27年となった。
この年月、何度も読み返し、本はぼろぼろになった。本はぼろぼろになったが、司馬が描いた竜馬の人生は、ちょっとした仕草までも私の記憶に刻み込まれた。

彼は、日本初の株式会社というべき海運を生業とする『亀山社中』を、雄藩や豪商から出資を受けて設立した。
幕府の長州征伐を阻止し、かつ幕府の後ろで日本を手に入れようと企むフランスの野望を阻止するために、犬猿の仲であった薩摩と長州に働きかけて『薩長同盟』を締結させた。
そして最大の功績は、幕府に働きかけて、幕府自らが大政を奉還する、人類史上類を見ない無血革命を成し遂げたことである。

何故に一介の浪士が、この様な偉業を達成できたのか、
現代の作家の中には、龍馬はフリーメーソンのスパイであった、と唱える方もおられる。
しかし、私は単純に、天の定めに清く耳を傾け行動した彼の無欲さ、人柄が大望を叶えたと見る。
大政奉還が叶った後、彼は新官制案、つまり革命政府の閣僚名簿案を起草、その名簿に竜馬の名がない事を不思議がる西郷吉之助に対して、
『あれは、きらいでな』
・・・なにが?
『窮屈な役人がさ』
・・・では何をする?
『世界の海援隊でもやりましょうかな』

竜馬の腰巾着であった陸奥陽之助(後の明治の外相 陸奥宗光)は、心の中で小躍りする面持ちだったであろう、『我らの大将は、日本一!』。私もこの行では、いつも痛快さで満たされる。

そして、竜馬は明治という真新しい太陽が昇る曙に、定めを終え、33歳、天に召された。

幕末、そして明治維新に掛けて、龍馬と同様に、志のために奔走し、多くの若き志士が野の屍となった、その御霊を礎として新しい時代が明けた。


今の日本は、幕末期に似ているといわれる。
内政は破綻し掛かっているにも関わらず、付け焼き刃の手当を講ずる事しかできない。日本の将来像を示すことができないのだ。
そして外圧、島国日本という通りでは話にならないほどに、世界は密接し、大国の興亡、新興は甚だしく、朝令暮改は当たり前となってしまった。沖縄基地問題という内政問題ではアメリカの顔を伺い、領海侵犯しかつ公務執行妨害した中国漁船の船長の逮捕に至っては、中国から戦争を吹っかけられそうな事態に陥っている。

龍馬ならどうするか、龍馬なら相手の懐に飛び込み、また周囲にも働きかけて、喧嘩を逆手にとり、更なる友好・信頼を深める妙案を実行するのではないだろうか。
妙案はないにしても、つまらぬ意地はさっさと捨てて、この騒動を沈静するに違いない。

私は、私の中で生き続ける、竜馬のことをこれからも書こうと思う。


『坂本龍馬』考

『坂本龍馬』考 その1 ~司馬竜馬との出会い、そして竜馬と歩む人生~
https://harimanokuni2007.blogspot.com/2010/09/blog-post_5723.html

『坂本龍馬』考 その2 ~お田鶴さまのいない『龍馬伝』、いよいよクライマックスです~
https://harimanokuni2007.blogspot.com/2010/10/blog-post.html

『坂本龍馬』考 その3 ~龍馬の夢~
https://harimanokuni2007.blogspot.com/2010/11/3.html

『坂本龍馬』考 その4 ~デモクラシー~
https://harimanokuni2007.blogspot.com/2017/11/blog-post_20.html

中国と喧嘩をしてはならない。

本日(9/22)の朝日新聞朝刊の『天声人語』、尖閣諸島沖での海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突に端を発した、この度の中国との緊張状態について、
前原外相の「(公務執行妨害事件を)国内法に基づいて粛々と処理する」を支持し、また
老子を引用し「相手に負けを意識させない勝ち方」を上げ、中国とのこの度の問題を、そうした収めた方が探れるか否かで、管内閣の器も問われよう、と締めている。

この問題が、中国側で異常に加熱し、次々と日本制裁を繰り出す背景には、尖閣諸島の領有権問題が根底にあることは、互いの了解事項である。
日本のメディアは、「公務執行妨害事件として、日本の法で処理されることは、中国側にとって、領有権を(暗に)認めてしまう事に通じ、それを認める事が出来ない」と中国側の過剰反応を解説している。
また一方で、現在の日中関係(経済に特化した)を「もっとも重要な二国間関係のひとつ」として、長引けば双方に不利益が生じると警告している。

どうもおかしい、日本の政府およびメディアは、中国が駄々っ子で、日本は大人の対応をしている、と一見日本の良識を良しとしているようだが、国家の主義も違い(日本は一応、社会・民主主義国家で資本主義国家、中国は全体主義国家である)、また日本の経済の浮沈はいまや中国に依存、空洞化した日本社会の『衣・食』そして『雇用』までもが中国に依存している。そして、いまや中国は世界の『猛る虎』である。

大人の対応といって静観し、ついには追い詰められて、中国の軍門に下るか、暴発するか、歴史を振り返れば判ることである。
喧嘩はしてはならない、これは絶対条件である。それこそ、日本国民ならびに諸外国への背信行為だ。

日本はまず、今回の『海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突』事件のあらゆる情報を世界に公開し、この問題を、領有権問題から切り離し、ひとつの『公務執行妨害事件』として世界の世論に問うことが急務と考える。
その後、この問題を、中国の司法の手に委ねる、引き渡すことも選択肢のひとつであろう。
それはまた、政治の、成熟した二国間関係を演出することにも繋がる。

中国の偉大な知、老子の言葉を引用するならば、
中国に対しては『和して唱えず』
そして世界に対しては『大を用うるに、拙なり』
但し、日本としての気構えは、
『義を見てせざるは勇なきなり』孔子、
そして行動は『敏』この一字です。

2010年9月21日火曜日

朗読を始めた理由について

今年の初め、長きに渡る、精神症『自信喪失から繰り返される、失意と不安』と、具体的な症状『不眠と体の痺れ』が、一時の酷い状態から快方に向かう途上、朗読者wisさんの朗読に出会いました。朗読は太宰治の『ビィヨンの妻』でした。
昨年2009年が太宰治の生誕100周年ということで本屋に行けば、太宰治ブックフェアーを目にし、テレビ、映画も太宰作品をベースにしたモノや、太宰本人を取り上げたドキュメンタリーが次々と発表されていました。
それまで、太宰治で知っていることといえば、『走れメロス』と入水自殺した事、それだけでした。私にとって関心事の外でした。

朗読者wisさんは、ホームページを開設されています。
タイトルは『【朗読】声を便りに、声を頼りにー。』
http://18.art-studio.cc/~koenoizumi/
です。
ですが、wisさん自身のプロフィールは公開されておらず、いつしか彼女の朗読ファンとなった私にとっては、年齢不詳の、霧の中から語りかけてくる魅惑的な女性となりました。

その後、暫くwisさんの太宰作品を中心とした文芸古典作品の朗読を聴き、また太宰治の小説も幾冊も読みました。

少し本筋からそれますが、太宰作品を読み、そして聴きしていくうちに、太宰の作品には、二つの個体、端正でもありそれなりの地位があるのに空虚感漂う男と、若くて美しくとても利発で積極的な女が描かれている事に気付きました。
『抜け殻の男』と『昭和初期と思えないほどに現代的であり延々と愚痴る若い女性』、このふたつの性、ふたつの個性を合わせて太宰治、その人ではないのかと確信しました。
中性の魅力があふれ出る作品だからこそ、思春期の若者に読み継がれ、また現代の若者にもっとも受け入れられる作家なのでしょう。


本筋に戻り、
朗読を聴き、小説の世界にのめりこむ内、ある考えが浮かびました。
私は、20代の若きSEであった頃、酒を飲んではおおいに語り、歌をこよなく愛した。
読書や、映画、演劇、美術も親しんだ。
もしかしたら、朗読という手段で、自己表現できるのではないか、という考えです。

インターネットを通じて朗読を学べないか調べました。
そして、新神戸オリエンタル劇場で朗読セミナーが開催されることを知りました。
ただ、その時点で、既に体験ワークショップは終わり、セミナー参加申込も終了して
明日から本セミナーが開催される事も知りました。

それが、
[朗読セミナー]きれいな日本語声を出していこう!朗読セミナー
日時:平成22年2月24日(水)19:00~21:10
場所:新神戸オリエンタル劇場
監修・脚本:わかぎゑふさん
演出・指導:朝深大介さん
でした。

因みにこのセミナーを企画されたわかぎえふさんと朝深大介さんの略歴は、
《わかぎゑふさんの略歴》
劇団リリパットアーミーII所属、座長
1959/2月生まれの日本の女優、演出家、劇作家、エッセイスト
2010から新神戸オリエンタル劇場の芸術監督に就任
就任第一弾としてのプログラムで、当ワークショップ朗読会を開催
《:朝深大介さんの略歴》
劇団リリパットアーミーII所属、副座長
1967/1月生まれの日本の俳優
※1995年に、お二人は結婚された
です。

しかし、それでも、新神戸オリエンタル劇場に電話で、参加できないかを問い合わせし、
担当の山崎氏の好意で、第一回セミナーを見学者として、参加をさせて頂ける事になりました。


第1回セミナーの開催日、久し振りの三宮でした。さんちかタウンでは、その人の多さに目眩がし、吐き気を催しました。そんなざまで、会場の新神戸オリエンタル劇場に着きました。

そこには思いがけない幸運が待ち受けていました。
当日は、劇場公演が無く、当初セミナーは舞台裏の稽古場で行う、と説明を受けていましたが、
本劇場がセミナーの舞台となりました。
また、第1回セミナーの講師は、わかぎゑふさんでした。

19:00から舞台の最前列に講師であるわかぎさんが腰掛け、生徒は観客席のソファーに座って話を聞く、というスタイルで始まりました。
その後、わがきさんが準備された朗読劇『時のおくりもの』の台本読みのために舞台に上がり、実際に観客席に向かって、台本を読みました。
『ブレス』、『立ち』等聞き慣れない演劇用語もありましたが、わがぎさんの話される言葉を聞き漏らさぬよう必死で傾聴しました。

以下が聞き覚えたわかぎさんの言葉です。

・むやみな大声は、音が飛散してしまうだけ、
語りかける相手の位置を意識して、
適切な音量で言葉・台詞を発する

・ブレス(息をころしたささやきや、息継ぎ)は
想像する以上に、音として耳に届く、
ブレスを意識させない台詞回しは
大変は技術を要する
※実際に舞台上での小声(息を殺したささやき)が、
劇場の最後尾ではっきりと聞き取れました。

・台詞は、特に長台詞の場合、
単調さ、抑揚のなさは、聴衆の耳に残らない、
残らなければ芝居の筋が分からなくなり
あげくは、つまらないものになってしまう

・台詞は、特に長台詞では、台詞を伸ばして発声したり、
語尾を省略したり、部分的に強調したりなどの
テクニックを駆使して、台詞回しの中で、
聴衆が分からないように休みを入れながら話す
それは単調な語りよりも、自然で、聞き易く、
台詞が聴衆に残りやすいなどの効果がある

・自分なりの解釈を得るまで、本に向き合い、
考える

・朗読は、緩急と抑揚をつけて、
聞き手の頭にそして心に響き、
残るように語る

・聞き手の呼吸から、その都度求められることを察知し、
臨機応変に対応する


また、休憩中の雑談の中でも、楽しく演劇の造詣の深さを話して下さいました。

まずは前座級の話、
ソファーにだらんと座っていても腹筋を鍛える事が出来る
その術は、
背中をソファーに押しつける、
この背中を押しつけると動作で、腹筋に力が入る
この動作を日々10回以上続けるだけでも
十分に腹筋、背筋のトレーニングとなる

また、芝居中は、ライトの明かりが強くて客席が見えない。
しかし、舞台役者のすごいところは、見えない観客をその息づかい、
客席から漏れてくる雰囲気で感じ、
今、どの様な感情が観客を支配しているかを感じながら演じる事が出来る。
また、観客の求めてを感じて、場合によっては、芝居を臨機応変に変化させる、
という舞台役者の醍醐味を聞かせて頂きました。

そして、100年以上の歴史を誇る文楽、その名作、
近松門左衛門の『曽根崎心中』についてのトリビア。
日本では、芝居のクライマックスである、心中の場面を具体的に演じることはなかったが
海外公演を行った時、これまでの芝居では、キリスト教国の観客に、
曾根崎心中の神髄を伝えきる事ができなかった。
これまで、芝居の流れで、心象的な表現で演じられてきたものが、通じない、
その問題に対して、時の演者は、具体的な心中シーン
(互いに相手の心臓に短剣を突き刺して心中を遂げる)芝居に盛り込んだ。
そして、観客に曽根崎心中の全てを伝える事が出来、
スタンディングオベーションを頂くに至った。
そんなことから、帰国後、日本公演でも
以降、心中シーンを盛り込み、好評を博しているという。

舞台は、役者が作る、でも、観客がいて、観客の反応により、
より良いものに作り替える事が出来る
舞台は、一瞬一瞬が変化に富んだ生きものである
それに対して、映画は、その制作時に完璧が要求され、
完成すれば、制作者や役者から手が離れて、
フィルムというカプセルの中で、永遠に変わらぬ物語を
提供するものとなる。

今回の朗読、会話劇において自分の思い・考えを伝えあうことが、
会話を続ける大前提となる。
私たちは、ややもすれば、相手の質問あるいは詰問に、
ハイ、イイエという返事だけを返す悪癖がある。
三度これを繰り返すと、もう会話は途切れ、再び会話の楽しみを
共有する事が出来なくなってしまう。

つまるところ、会話は楽しむ事である、
だが、楽しむ為の最低限のマナー、会話を終了させない
会話力が必要ということが分かる。
会話を楽しむためには、様々な情報・知識・話題を仕入れ、
それに自己の批評、考えを盛り込む事が肝要である。
つまり、会話を楽しむ為にも、常に学ぶ事、考える事を
継続する事が大切である

という趣旨の話を伺いました。


たった一日、約2時間ほどのふれあいでしたが、わかぎゑふさんから、
このセミナーから、朗読術、会話術の貴重なエッセンスを頂戴しました。


しかし、このセミナー、ただの朗読セミナーではありませんでした。
最終日に、朗読劇をこの舞台で公演するというクライマックスが用意されていました。
他の参加者の殆どが、朗読や芝居の経験者、なかには役者のたまごもいました。

当時、ある事で右足首の腱を酷く痛めていて、立ち芝居ができない。
朗読劇とはいえ立ち芝居の公演が最終目的であり、さらにいえば、
このプログラムの朗読は劇の一表現手段であって、
私の求めるものとは異なっていました。

その為、第1回セミナー終了時点で、講師のわかぎゑふさんにお礼を述べ、
また参加させて下さった劇場担当の山崎さんに以後のプログラム不参加を伝え、
舞台を後にしました。


その後、さらにインターネットで朗読に関する情報を探しました。
そして、見つけたのが、加西市立図書館のおはなし会でした。

加西市立図書館とおはなし会については、既に記したので、これで話は終えます。
正直、朗読で何かが変化する、という期待など微塵もない、と言えば嘘になりますが、
ただ、朗読を知るために、動いたこと活動したことが、心に変化をもたらしています。

今は、不安でびびったりはしていない。
何もない荒野を前にしても、歩み出す勇気が芽生え始めています。

ウィスキーの思い出、『マカロニウェスタンと若気の至り』

十代の中頃、『マカロニウェスタン』にすっかり魅了されていました。今の若者に『マカロニウェスタン』といってもピンとこないでしょうね。60年代から70年代にかけて、イタリア資本で主にイタリアで制作されていたイタリア版西部劇です。

私の当時のヒーローは、ジュリアーノ・ジェンマそしていまやアメリカ映画界で確固たる地位を築いたクリント・イーストウッドです。

『荒野の一ドル銀貨』、
何で心臓に一発食らって死なんねや、そうか胸に一ドル銀貨が入っとたんか、運えいやんか、とか、
『荒野の用心棒』で、
あんなにボコボコにどつかれて、また首吊られてよう死なんなぁ、偉いなぁ、とか、
ヒーローにはどんな不可解があってもすべて肯定して観てました。

また、十代中頃といえば、お酒に憧れた頃です。特に私は、ガンマンが酒場でウィスキーを注文し、ウィスキーが注がれたショットグラスが長いカウンターを滑り走って、それをガンマンが無造作につかみ取り、躊躇なくウィスキーを口に放り込む、なんちゅうカッコエンやろと憧れ、映画を見るたび、いつかやったろと秘めていました。
そして、雀の涙ほどの小遣いを貯めては、決して、近所の酒屋にやっすいウィスキーを買いに行き、エロ本を隠すように、本箱の隅にしまって、親が寝静まった真夜中に、台所からガラスのコップを持ち込んで、部屋で酒場のワンシーンを回想し、字幕で覚えたガンマンのセリフをブツブツ呟きながら、コップになみなみと注いだやっすいウィスキーを一気飲みしてぶっ倒れていました。翌日は、頭痛がすると言い訳しては、よく学校の保健室で酔い醒ましをしたものです。
私にとってのささやかなる青春の思い出です。

さて、同世代の皆さん、同じような経験、お持ちではないでしょうか。ですから、現代の子どもたちの行動にも、注意しながらも、おおらかに見守ろうではないですか。
私たちは、そんな大らか大人達に見守られていたわけですから・・・。