大好きな映画の話、本や朗読の話、また高校野球の試合観戦記、地元播磨の散策記など徒然に書いています。 その他にも、しょうもない昔話やちょっとしたエッセーなども書いています。 本でも読む感覚で読んで頂いて、面白ければ訪問カウンター下にある[G+1]ボタン(Facebookのいいねボタンの様なものです)を押して頂ければ嬉しいです。また、コメントの書き込みも楽しみにしています。
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パンデミックと戦うことを考える
昭和の始めに、日本が中国と、そして米国と戦争に及んだ理由を一言で記すことなどできないけれど、しかし、日本が戦争に負けた理由は一言で記すことができます。 それは、当時の日本の指導者の、「国民の人権軽視」と「戦争をするための戦略軽視」です。 「国民の人権軽視」、これは形式的な国...
2017年9月10日日曜日
ICDの電気ショックを受けました。
9月6日(水)、昨年8月に植え込んだICDによる電気ショックをはじめて経験しました。
用事で神戸に出かけ、空いた時間に花の写真を撮りに行きました。カメラの電池残量が少なくなってきたので、バックを下ろし、右足の膝を地面に付けながらがバックの中でカメラの電池パックを交換しました。その時です、うん?という一瞬の間の後に胸の前で何かが爆発したような衝撃を受けて、後ろにひっくりかえりました。痛いというより衝撃のすさまじさに驚きました。直ぐにICDの電気ショックだと理解しました。
起き上がり、時計を見ると14時50分でした。直前まで友人と電話をしていたので、時間的に意識を失っていたという感じはありませんでした。
とりあえずこれ以上何もないことを信じて、家に帰ることにしました。電気ショックの影響でしょうね、しばらく冷や汗が流れ続け、左肩から左腕に掛けて筋肉疲労の様な重怠さがありました。でも、なんとか無事に自宅に帰り着きました。
夕方、循環器病センター病院に電話を入れてから、妻の運転で病院に行き検査を受けました。手術後、一度も不整脈は起こらず、もちろんICDの電気ショックもなかったわけですが、何故かこの日の午前中から数秒という短い時間の不整脈が何回も発生し、午後、11秒を超える不整脈が起こったために、ICDが電気ショックを作動したとの事でした。
でも検査の結果、心配な症状は見つからなかったために、この日は入院せず帰宅できました。
主治医は、ICDの電気ショックは600ボルトで、相当に痛かったはずなのだが、痛みをそう感じなかったとすれば、その瞬間、意識を失っていたのかも知れない、と説明されました。つくづく、あの瞬間、しゃがんでいたことが幸運であったと思います。後ろにひっくりかえりはしましたが、どこも強打しなかったのですからね。
もし、ボーッと立っていて電気ショックを受けていたら、こんなでは済まなかったと思います。
あれから4日が経過しますが、電気ショックの影響でしょうか、まだまだ体が相当に怠いです。後、また車の運転ができなくなりました。不便です。
2017年8月17日木曜日
藤浪の復活についての意見
藤浪投手の復帰戦は、
5回を保たずに
7安打、7四死球、3失点
死球は大瀬良投手にでした。
藤浪晋太郎は、大谷翔平とならび、野球少年のあこがれの的にならなければいけない野球選手です。細身ながら頑丈で、160㎞の剛速球が投げられる。本来ならば今年辺り阪神タイガースの真のエースに成長していなければならなかった投手です。
いまにして思えば、去年の懲罰続投が、藤浪投手のメンタルに大きな傷を与えてしまった様に思います。
野茂英雄と鈴木啓示の確執が甦ります。野茂投手は、当時の近鉄の鈴木監督に、何度も懲罰続投を強いられました。鈴木啓示は、野茂のタフさと類い稀な才能よりも、野茂の変則フォームと制球の悪さを嫌いました。そして、自分に従わない野茂をつぶしにかかります。でも野茂はメンタルもタフでした。なんと日本球界に見切りを付けてメジャーリーグに活路を見出したのです。その後の活躍は、自明の通りです。
藤浪と金本監督に同じ確執があるとは思いません。金本監督が、続投を指示したのはたったの1回限りです。それは、藤浪を覚醒させるための荒療治であったのだと思います。
でもこれは、大きな誤りだったように思います。高校時代から栄光の道を歩み続けてきた藤浪は、これまでも相当なプレッシャーに晒され続けてきました。その中でタフになりきれていないメンタルを守る術を身に着けてきたのだと思います。それは、他人と一定の距離感を保つという術です。藤浪を見ていると、好青年ですが、必要以上に冷めた印象を覚えます。隙を見せないということでしょうが、それは常に感情の高ぶり抑制しているとも言えます。でもそれは、平常心とは呼びません。平常心とは、どんなに感情の高ぶりがあっても、そして感情が乱れても、平常時と同じに自分をみつめられる心のことだと思います。
藤浪は、体の成長と球速が上がるほどに制球に難が生じてきました。それでも様々な試行錯誤を繰り返し、一昨年、遂に自信をもって投げられる投球フォームを完成したように見えました。でも、長くは続きませんでした。去年、再び制球難が藤浪を苦しめます。右バッターに、それが投手であっても、投球がすっぽ抜け、四球、死球を与えます。そんな状況での、あの懲罰続投です。
藤浪は、メンタルを守っていた殻を破られて、丸裸のメンタルが強いストレスに晒されたのではと思います。そして、心の奥底に頭では理解できない、恐怖が植え付けられたのではと思います。
年齢的には二軍の中でも若手である藤浪は、まるで下積み選手のように細々とした雑用までこなしていたようですね。ひとりの人間と見ても、とても誠実で真面目な好青年だと思います。でも、力のまるで劣る選手と対戦しても本来の力を発揮できず、野球選手としての結果が残せない。もしかしたら、頭でなく心の奥底で、一軍で投げたくない、金本監督の下で投げることを怖がっているという、嫌な想像をします。
このまま阪神タイガースにいて、復活することができず、二軍で燻り、本来の力を失ってしまう様な事態になることは、藤浪本人だけでなく、阪神ファンならびに日本の野球ファンすべてにとって不幸です。
一昨年でしたが、藤浪が仙台で勝利した時、「本当に投げやすかった」と話していたことが忘れられません。プレッシャーの少ないところで、藤浪を復活させる。そういう選択も、阪神タイガースは考えていいのではないかと思います。
5回を保たずに
7安打、7四死球、3失点
死球は大瀬良投手にでした。
藤浪晋太郎は、大谷翔平とならび、野球少年のあこがれの的にならなければいけない野球選手です。細身ながら頑丈で、160㎞の剛速球が投げられる。本来ならば今年辺り阪神タイガースの真のエースに成長していなければならなかった投手です。
いまにして思えば、去年の懲罰続投が、藤浪投手のメンタルに大きな傷を与えてしまった様に思います。
野茂英雄と鈴木啓示の確執が甦ります。野茂投手は、当時の近鉄の鈴木監督に、何度も懲罰続投を強いられました。鈴木啓示は、野茂のタフさと類い稀な才能よりも、野茂の変則フォームと制球の悪さを嫌いました。そして、自分に従わない野茂をつぶしにかかります。でも野茂はメンタルもタフでした。なんと日本球界に見切りを付けてメジャーリーグに活路を見出したのです。その後の活躍は、自明の通りです。
藤浪と金本監督に同じ確執があるとは思いません。金本監督が、続投を指示したのはたったの1回限りです。それは、藤浪を覚醒させるための荒療治であったのだと思います。
でもこれは、大きな誤りだったように思います。高校時代から栄光の道を歩み続けてきた藤浪は、これまでも相当なプレッシャーに晒され続けてきました。その中でタフになりきれていないメンタルを守る術を身に着けてきたのだと思います。それは、他人と一定の距離感を保つという術です。藤浪を見ていると、好青年ですが、必要以上に冷めた印象を覚えます。隙を見せないということでしょうが、それは常に感情の高ぶり抑制しているとも言えます。でもそれは、平常心とは呼びません。平常心とは、どんなに感情の高ぶりがあっても、そして感情が乱れても、平常時と同じに自分をみつめられる心のことだと思います。
藤浪は、体の成長と球速が上がるほどに制球に難が生じてきました。それでも様々な試行錯誤を繰り返し、一昨年、遂に自信をもって投げられる投球フォームを完成したように見えました。でも、長くは続きませんでした。去年、再び制球難が藤浪を苦しめます。右バッターに、それが投手であっても、投球がすっぽ抜け、四球、死球を与えます。そんな状況での、あの懲罰続投です。
藤浪は、メンタルを守っていた殻を破られて、丸裸のメンタルが強いストレスに晒されたのではと思います。そして、心の奥底に頭では理解できない、恐怖が植え付けられたのではと思います。
年齢的には二軍の中でも若手である藤浪は、まるで下積み選手のように細々とした雑用までこなしていたようですね。ひとりの人間と見ても、とても誠実で真面目な好青年だと思います。でも、力のまるで劣る選手と対戦しても本来の力を発揮できず、野球選手としての結果が残せない。もしかしたら、頭でなく心の奥底で、一軍で投げたくない、金本監督の下で投げることを怖がっているという、嫌な想像をします。
このまま阪神タイガースにいて、復活することができず、二軍で燻り、本来の力を失ってしまう様な事態になることは、藤浪本人だけでなく、阪神ファンならびに日本の野球ファンすべてにとって不幸です。
一昨年でしたが、藤浪が仙台で勝利した時、「本当に投げやすかった」と話していたことが忘れられません。プレッシャーの少ないところで、藤浪を復活させる。そういう選択も、阪神タイガースは考えていいのではないかと思います。
2017年8月14日月曜日
読書感想文のあり方について
昼間よく聴いている「ばんばひろふみ!ラジオDEしょー!」で先日、リスナーから「子供の夏休みの読書感想文の書き方」についての相談がありました。誰もが何かしら苦い思い出があって、その思い出話がどれも面白く、二週に渡って、その話題で番組が盛り上がっていました。
でも、今思えば、何で読書感想文という宿題が苦痛だったのでしょう。そんな事に思いを巡らせました。
子供時代も本を読むこと自体、私は苦痛ではなかったように思います。知りたいという欲求が強くあれば、また、その物語を面白く思えば、夢中になって読んでいたように思います。
では、何が苦痛だったのか・・・、ふと思い当たることがあります。それは
①読む本が指定されていて、その本で感想文を書くことを強要される(様に思っていた)
②原稿用紙に、感想文の書き方という作法に則って書かねばならない(間違えば×が付く)
私自身、おっちょこちょいな性格でしたので、我慢を強いられたり、正確に物事を行う事がとても苦手でした。
そしてなにより一番の苦痛は、他の人とずれたおかしな感想や発想を書けば笑われるという事です。
小学生低学年の頃に、私は苦い経験をしました。あれは保護者参観日の事でした。
社会科の授業で、「兵庫県を二つに分けなさい」という質問があって、最初に当てられた生徒が、黒板の前に進み出て、兵庫県を上下に分けました。山陽と山陰です。もちらん正解です。で、先生が「他にありますか?」と問いかけを続けたので、私は得意満面になって手を挙げて、前に進み出、兵庫県を左右に分けました。すると、ドッと笑いが起こったのです。左右に分けた明確な答があったわけではありません。ただ左右にも分けられると思っただけの事です、いわゆる思い付きです。でもそれで笑われた。誰も気付いてはいませんが、私は嘲笑された気分になったのです。
今にして思えば、私が兵庫県を左右に分けた事に続けて、先生が左右に分けられる答を求めるアプローチをしてくれていれば、他の生徒からもユニークな発想や意見が飛び交いだしていたかも知れません。膝を打つ意見が飛び出していたかも知れません。たとえそうならなかったとしても、私にとって恥ずかしい記憶として残ることは無かったと思います。
そう考えると、先生があるべき答を想定した読書感想文の宿題といった態ではなく、長い夏休みの中で子供たちが思いのままに読書した本の話(内容や物語のすじ)や、読書して感じたこと、知ったこと、学んだこと、良かったこと、悪かったことなどを、先生や友だちみんなに伝えることだけを課題にしてはどうかと思います。
子供たちに
・読書をする事と
・人に伝える事を
だけを求めるのです。
そして、
人に伝える手段は、
・感想を口頭で発表していいし、
・文章に書き出して読んでもいいし、
・もしかしたら絵や音楽にしてもいいし、
という風に、子供たちに任せるのです。
そして、子供たちが発表した内容をみんなで楽しむのです。でも、そこにこそ先生の大人の導きが必要です。絶対に守らなければいけないことは
・否定しない
・あざ笑わない
ことです。そして発表した内容をみんなで共有できる様に導くことが大切です。
たとえとんちんかんに思える発表でも、それが悪ふざけではない限り、受け止める、そしてみんなで共有できる様に導くことが大切です。(それはとっても難しい事ですが、でも子供たちに難しい課題をさせているのだから、先生は遣り抜かねばいけません、ね)
そして、あらためて授業の一環として、発表した内容を、作法に則った感想文へと昇華させれば尚のこと良いと思います。
私は、子供たちに、人に伝える楽しさを知って欲しいと思うのです。
伝える事の楽しさを知れば、
いろんな事柄に関心が広がって、知りたいという欲求も強くなるだろうし、
伝える手段を学ぶことにも一生懸命になると思います。
なにより、伝える人を、伝えてくれる人を、大切に思うでしょう。
そして子供たち自身が、自分の成長を実感できると思います。
でも、今思えば、何で読書感想文という宿題が苦痛だったのでしょう。そんな事に思いを巡らせました。
子供時代も本を読むこと自体、私は苦痛ではなかったように思います。知りたいという欲求が強くあれば、また、その物語を面白く思えば、夢中になって読んでいたように思います。
では、何が苦痛だったのか・・・、ふと思い当たることがあります。それは
①読む本が指定されていて、その本で感想文を書くことを強要される(様に思っていた)
②原稿用紙に、感想文の書き方という作法に則って書かねばならない(間違えば×が付く)
私自身、おっちょこちょいな性格でしたので、我慢を強いられたり、正確に物事を行う事がとても苦手でした。
そしてなにより一番の苦痛は、他の人とずれたおかしな感想や発想を書けば笑われるという事です。
小学生低学年の頃に、私は苦い経験をしました。あれは保護者参観日の事でした。
社会科の授業で、「兵庫県を二つに分けなさい」という質問があって、最初に当てられた生徒が、黒板の前に進み出て、兵庫県を上下に分けました。山陽と山陰です。もちらん正解です。で、先生が「他にありますか?」と問いかけを続けたので、私は得意満面になって手を挙げて、前に進み出、兵庫県を左右に分けました。すると、ドッと笑いが起こったのです。左右に分けた明確な答があったわけではありません。ただ左右にも分けられると思っただけの事です、いわゆる思い付きです。でもそれで笑われた。誰も気付いてはいませんが、私は嘲笑された気分になったのです。
今にして思えば、私が兵庫県を左右に分けた事に続けて、先生が左右に分けられる答を求めるアプローチをしてくれていれば、他の生徒からもユニークな発想や意見が飛び交いだしていたかも知れません。膝を打つ意見が飛び出していたかも知れません。たとえそうならなかったとしても、私にとって恥ずかしい記憶として残ることは無かったと思います。
そう考えると、先生があるべき答を想定した読書感想文の宿題といった態ではなく、長い夏休みの中で子供たちが思いのままに読書した本の話(内容や物語のすじ)や、読書して感じたこと、知ったこと、学んだこと、良かったこと、悪かったことなどを、先生や友だちみんなに伝えることだけを課題にしてはどうかと思います。
子供たちに
・読書をする事と
・人に伝える事を
だけを求めるのです。
そして、
人に伝える手段は、
・感想を口頭で発表していいし、
・文章に書き出して読んでもいいし、
・もしかしたら絵や音楽にしてもいいし、
という風に、子供たちに任せるのです。
そして、子供たちが発表した内容をみんなで楽しむのです。でも、そこにこそ先生の大人の導きが必要です。絶対に守らなければいけないことは
・否定しない
・あざ笑わない
ことです。そして発表した内容をみんなで共有できる様に導くことが大切です。
たとえとんちんかんに思える発表でも、それが悪ふざけではない限り、受け止める、そしてみんなで共有できる様に導くことが大切です。(それはとっても難しい事ですが、でも子供たちに難しい課題をさせているのだから、先生は遣り抜かねばいけません、ね)
そして、あらためて授業の一環として、発表した内容を、作法に則った感想文へと昇華させれば尚のこと良いと思います。
私は、子供たちに、人に伝える楽しさを知って欲しいと思うのです。
伝える事の楽しさを知れば、
いろんな事柄に関心が広がって、知りたいという欲求も強くなるだろうし、
伝える手段を学ぶことにも一生懸命になると思います。
なにより、伝える人を、伝えてくれる人を、大切に思うでしょう。
そして子供たち自身が、自分の成長を実感できると思います。
全米プロゴルフ選手権実況の後味の悪さ
早起きして、全米プロゴルフ選手権最終日の実況を観てましたけど・・・
松山英樹選手、残念でした。
でもラウンドを終えた松山選手に、最初にマイクを向けたテレビのインタビューアーの第一声「悔しいですよ」の一言には呆れました。
解説者の戸張さんが話していた様に、
『インタービューアーの後ろには、そしてテレビカメラの後ろには、ファンがいる。だから、どんな(精神)状況であっても、プロ選手は、ファンに対する気持ちで、真摯にインタビューに対応をしなければならない』はその通りだと思います。
でも、だからこそ、インタビューアーは、だれよりもプロ選手に対して敬意を表し、感情の高ぶりを抑えて、冷静にインタビューしなければならないと思います。
それを、第一声の「悔しいですよ」で、悔しさを表に出さぬ様に耐えている松山選手を挫けさせ、声が出ないほどに悔しさを表に出させるとは何事だ!、お前は何様だ!と直情的に怒りが込み上げてきました。
ラウンドの中も、耳障りなフレーズを、実況のアナウンサーが何度も口にしていましたね。
「日本人初のメジャー制覇」
今後、メジャー制覇が叶った松山選手が、やっぱりアメリカが良いと、アメリカの国籍に変えたなら、
「日本人初のメジャー制覇」は
「元日本人アメリカ選手の初メジャー制覇」と読み替えるのでしょうか。
テレビの実況や解説者には、状況を客観的に伝えることは大事だけれど、無用な感情の高ぶりを扇動する様なことは謹んで、もっともっとプロ選手その人自身に敬意を表した冷静な実況に注力して欲しいと思います。
たった一言
「松山英樹選手の初メジャー制覇」と、敬意を表するだけで十分だと思います。
松山英樹選手、残念でした。
でもラウンドを終えた松山選手に、最初にマイクを向けたテレビのインタビューアーの第一声「悔しいですよ」の一言には呆れました。
解説者の戸張さんが話していた様に、
『インタービューアーの後ろには、そしてテレビカメラの後ろには、ファンがいる。だから、どんな(精神)状況であっても、プロ選手は、ファンに対する気持ちで、真摯にインタビューに対応をしなければならない』はその通りだと思います。
でも、だからこそ、インタビューアーは、だれよりもプロ選手に対して敬意を表し、感情の高ぶりを抑えて、冷静にインタビューしなければならないと思います。
それを、第一声の「悔しいですよ」で、悔しさを表に出さぬ様に耐えている松山選手を挫けさせ、声が出ないほどに悔しさを表に出させるとは何事だ!、お前は何様だ!と直情的に怒りが込み上げてきました。
ラウンドの中も、耳障りなフレーズを、実況のアナウンサーが何度も口にしていましたね。
「日本人初のメジャー制覇」
今後、メジャー制覇が叶った松山選手が、やっぱりアメリカが良いと、アメリカの国籍に変えたなら、
「日本人初のメジャー制覇」は
「元日本人アメリカ選手の初メジャー制覇」と読み替えるのでしょうか。
テレビの実況や解説者には、状況を客観的に伝えることは大事だけれど、無用な感情の高ぶりを扇動する様なことは謹んで、もっともっとプロ選手その人自身に敬意を表した冷静な実況に注力して欲しいと思います。
たった一言
「松山英樹選手の初メジャー制覇」と、敬意を表するだけで十分だと思います。
2017年8月10日木曜日
畏れることを実感する、「大魔神怒る」を観ました。
BSプレミアムで放映された「大魔神怒る」を観ました。大魔神は、ゴジラやガメラと同じ50年前に作られた特撮怪異映画のひとつですが、描かれた恐怖は別格でした。
古来から日本人は、人智の及ばないもの、超自然的なものに畏れを抱き、神として祀り崇めてきました。そうすることで、それは守護神となり、災いは封ぜられ、安寧が守られると信じてきました。そして信仰に篤い人々は、罰当たりな行為を諫めて、慎ましく生きていました。そういうむかしむかしのお話です。
八雲の国という内海を抱く豊かな国がありました。主家の千草家は武勇に優れ、領民は安寧に暮らしていました。また、信仰心の篤い八雲の国の人々は、内海の中程にある神ノ島に鎮座する武人像を守護神として崇めていました。
しかし、八雲の国の外では、暴虐の限りを尽くして勢力を拡大した御子柴弾正率いる侍まがいの盗賊団が、八雲の国を虎視眈眈と狙っていました。そして、その機会が訪れました。
八雲の国では、年に一度、守護神を鎮める祭事が執り行われます。その祭事には近隣の国々からも大勢人々が集まり、供え物を持ち寄ります。そして持ち寄られた供え物は、城の蔵に納められます。弾正は、供え物の米俵に手下を忍ばせ、まんまと城内に侵入し、深夜、侵入した手下の手引きで武装した弾正の一軍が城内になだれ込み、一気に千草家を滅ぼします。しかし、家来の機転で一命を取り留めた家長の十郎時貞は、神ノ島に辿り着き、そこで分家の姫小百合にかくまわれます。
八雲の国の領民の反乱を恐れる弾正は、時貞を捕らえて殺すこと、また領民の心の支えである武人像を破壊することを、手下に命じます。そして神ノ島になだれ込み、武人像を火薬で木っ端微塵にしたうえ、時貞や小百合ら千草家の生き残りを捕らえます。
弾正は、領民への見せしめにと、その面前に時貞を引き出して、磔に処すことにしました。さらには小百合を引き出して、時貞に小百合の凄惨な最後を見せつけるために、火あぶりに処すことにしました。そして小百合を一段高い処刑台の十字架に縛り付け火を付けます。
煙が立ちこめ火が迫る中で、小百合は、領民と貞時の加護を守護神に一心に願い、その身を捧げる誓いと清い涙を流します。その涙の一滴が地に落ちた時、天はにわかに掻き曇り、嵐となります。その雨風が小百合を焼き殺そうとする火を消します。そしてなんと、海の中から、破壊された筈の武人像が姿を現します。
武人像が両手の拳を突き合わせ顔の上に持ちあげると、その穏やかな表情は一変し、仁王の形相に変わります。武人像は荒ぶる神、大魔神に変化し、そして内海を二つに割って道を作り、地響きを立てながら向かってきます。そして磔にされた小百合を解き放った後、抵抗する弾正の手下を一人残らず無慈悲に殺し、一人で内海に逃げ出した弾正の小舟に火を放ち、弾正を火あぶりで殺します。
解放された時貞、小百合ら千草家の生き残りと領民達は、大魔神に手を合わせます。嵐は止んで穏やかな天候が戻ります。大魔神は両腕で顔をかざすと、その顔は穏やかな武人像のものとなりました。そして見る見る間に、霧となって消えました。
八雲の国の災いは守護神によって取り除かれ、八雲の国の人々は再び安寧を取り戻すことができました。
おしまいおしまい
という物語です。
とにかく残酷です。
欲深い人間の残酷さと醜さが描かれ、そして
その欲深く罰当たりな人間が荒ぶる神によって無慈悲に残酷に殺される様が描かれます。大魔神の物語は、本当に怖い怖いむかしばなしでした。
そしてあらためて、畏れるという存在こそが、我々人間の驕り高ぶりを抑制し、慎ましく生きるという本来の姿に立ち返らせてくれるのではないか、ということを思いました。
古来から日本人は、人智の及ばないもの、超自然的なものに畏れを抱き、神として祀り崇めてきました。そうすることで、それは守護神となり、災いは封ぜられ、安寧が守られると信じてきました。そして信仰に篤い人々は、罰当たりな行為を諫めて、慎ましく生きていました。そういうむかしむかしのお話です。
八雲の国という内海を抱く豊かな国がありました。主家の千草家は武勇に優れ、領民は安寧に暮らしていました。また、信仰心の篤い八雲の国の人々は、内海の中程にある神ノ島に鎮座する武人像を守護神として崇めていました。
しかし、八雲の国の外では、暴虐の限りを尽くして勢力を拡大した御子柴弾正率いる侍まがいの盗賊団が、八雲の国を虎視眈眈と狙っていました。そして、その機会が訪れました。
八雲の国では、年に一度、守護神を鎮める祭事が執り行われます。その祭事には近隣の国々からも大勢人々が集まり、供え物を持ち寄ります。そして持ち寄られた供え物は、城の蔵に納められます。弾正は、供え物の米俵に手下を忍ばせ、まんまと城内に侵入し、深夜、侵入した手下の手引きで武装した弾正の一軍が城内になだれ込み、一気に千草家を滅ぼします。しかし、家来の機転で一命を取り留めた家長の十郎時貞は、神ノ島に辿り着き、そこで分家の姫小百合にかくまわれます。
八雲の国の領民の反乱を恐れる弾正は、時貞を捕らえて殺すこと、また領民の心の支えである武人像を破壊することを、手下に命じます。そして神ノ島になだれ込み、武人像を火薬で木っ端微塵にしたうえ、時貞や小百合ら千草家の生き残りを捕らえます。
弾正は、領民への見せしめにと、その面前に時貞を引き出して、磔に処すことにしました。さらには小百合を引き出して、時貞に小百合の凄惨な最後を見せつけるために、火あぶりに処すことにしました。そして小百合を一段高い処刑台の十字架に縛り付け火を付けます。
煙が立ちこめ火が迫る中で、小百合は、領民と貞時の加護を守護神に一心に願い、その身を捧げる誓いと清い涙を流します。その涙の一滴が地に落ちた時、天はにわかに掻き曇り、嵐となります。その雨風が小百合を焼き殺そうとする火を消します。そしてなんと、海の中から、破壊された筈の武人像が姿を現します。
武人像が両手の拳を突き合わせ顔の上に持ちあげると、その穏やかな表情は一変し、仁王の形相に変わります。武人像は荒ぶる神、大魔神に変化し、そして内海を二つに割って道を作り、地響きを立てながら向かってきます。そして磔にされた小百合を解き放った後、抵抗する弾正の手下を一人残らず無慈悲に殺し、一人で内海に逃げ出した弾正の小舟に火を放ち、弾正を火あぶりで殺します。
解放された時貞、小百合ら千草家の生き残りと領民達は、大魔神に手を合わせます。嵐は止んで穏やかな天候が戻ります。大魔神は両腕で顔をかざすと、その顔は穏やかな武人像のものとなりました。そして見る見る間に、霧となって消えました。
八雲の国の災いは守護神によって取り除かれ、八雲の国の人々は再び安寧を取り戻すことができました。
おしまいおしまい
という物語です。
とにかく残酷です。
欲深い人間の残酷さと醜さが描かれ、そして
その欲深く罰当たりな人間が荒ぶる神によって無慈悲に残酷に殺される様が描かれます。大魔神の物語は、本当に怖い怖いむかしばなしでした。
そしてあらためて、畏れるという存在こそが、我々人間の驕り高ぶりを抑制し、慎ましく生きるという本来の姿に立ち返らせてくれるのではないか、ということを思いました。
2017年8月6日日曜日
72年目の夏
先日、姫路球場で高校野球観戦をした後、手柄山中央公園を歩きました。長い階段があって、その階段を登り切ると、目の前に太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔がありました。
訪れたのは何十年ぶりでしょうか。慰霊塔の意味すら覚えていませんでした。慰霊塔に近づくと、その下に幾つもの印の付いた日本地図があって、
太平洋戦全国戦災都市空爆死歿者の霊、此のところに眠る
と刻まれていました。
両翼に連なる石柱を見渡すと、一つひとつの石柱の、目線の位置に何かが刻まれています。
右端に近づくと
全国戦災都市
罹災都市数 1都、99市、12町
死歿者数 509,800名
罹災人口 9,551,100名
と刻まれています。
そして、その左隣の石柱には函館市の死歿者数、罹災人口、被爆年月日が刻まれていました。その左隣の石柱には室蘭市の記録が刻まれていました。
その石柱に刻まれた記録を一つひとつ見て回りました。一番最後の石柱は鹿児島市の記録が刻まれていました。
伊勢崎市の記録に、被爆年月日 昭和20年8月15日以降2回とありました。
玉音放送のあった日以降も空襲が続いていたことを初めて知りました。
首都東京は、昭和17年4月18日以降112回とありました。そして
死歿者数 94,225
罹災人口 3,099,477
とありました。
被爆回数が10回を超える都市は他に11もありました。
そして思わず足が止まったのが広島です。
被爆年月日 1945年8月6日以降1回
死歿者数 260,000名
罹災人口 420,000名
72年前の初期の原子爆弾一発が、途方もない数の人の命を奪った記録です。
表現しようもないショックを覚えました。
そして長崎
被爆年月日 昭和20年8月9日以降5回
死歿者数 74,604名
罹災人口 120,820名
原爆投下以降も空爆が続いていた事を初めて知りました。
やるせない思いになりました。
戦後72年が経過した慰霊塔の意味とは何か?に思いを巡らしました。
私は戦後生まれで、戦災に見舞われた記憶はありません。でも母から空襲の話を聞いたことがあります。昭和20年になって姫路も空襲を受けました。母は当時20歳、仕事に向かう最中に敵戦闘機の機銃掃射にあったそうです。敵戦闘機はパイロットの顔が見えるほどに近く低く飛んでいたそうです。この様に、母と同じ非戦闘員が、日本中で無差別に攻撃を受けました。そして、大量に殺されました。
戦争が始まると、戦地だけではなく、戦況によっては非戦闘員の町さえ無差別攻撃を受け、町は戦火に焼かれ、住民が殺されます。慰霊塔には、記録だけでなく、殺された人々、残された人々の、念というか記憶が留まっているのだと思います。
慰霊塔は、戦没者、被爆罹災者から今を生きる私たちへの、再びこの様な惨劇を引き起こしてはならないという、メッセージなのだと思います。
訪れたのは何十年ぶりでしょうか。慰霊塔の意味すら覚えていませんでした。慰霊塔に近づくと、その下に幾つもの印の付いた日本地図があって、
太平洋戦全国戦災都市空爆死歿者の霊、此のところに眠る
と刻まれていました。
両翼に連なる石柱を見渡すと、一つひとつの石柱の、目線の位置に何かが刻まれています。
右端に近づくと
全国戦災都市
罹災都市数 1都、99市、12町
死歿者数 509,800名
罹災人口 9,551,100名
と刻まれています。
そして、その左隣の石柱には函館市の死歿者数、罹災人口、被爆年月日が刻まれていました。その左隣の石柱には室蘭市の記録が刻まれていました。
その石柱に刻まれた記録を一つひとつ見て回りました。一番最後の石柱は鹿児島市の記録が刻まれていました。
伊勢崎市の記録に、被爆年月日 昭和20年8月15日以降2回とありました。
玉音放送のあった日以降も空襲が続いていたことを初めて知りました。
首都東京は、昭和17年4月18日以降112回とありました。そして
死歿者数 94,225
罹災人口 3,099,477
とありました。
被爆回数が10回を超える都市は他に11もありました。
そして思わず足が止まったのが広島です。
被爆年月日 1945年8月6日以降1回
死歿者数 260,000名
罹災人口 420,000名
72年前の初期の原子爆弾一発が、途方もない数の人の命を奪った記録です。
表現しようもないショックを覚えました。
そして長崎
被爆年月日 昭和20年8月9日以降5回
死歿者数 74,604名
罹災人口 120,820名
原爆投下以降も空爆が続いていた事を初めて知りました。
やるせない思いになりました。
戦後72年が経過した慰霊塔の意味とは何か?に思いを巡らしました。
私は戦後生まれで、戦災に見舞われた記憶はありません。でも母から空襲の話を聞いたことがあります。昭和20年になって姫路も空襲を受けました。母は当時20歳、仕事に向かう最中に敵戦闘機の機銃掃射にあったそうです。敵戦闘機はパイロットの顔が見えるほどに近く低く飛んでいたそうです。この様に、母と同じ非戦闘員が、日本中で無差別に攻撃を受けました。そして、大量に殺されました。
戦争が始まると、戦地だけではなく、戦況によっては非戦闘員の町さえ無差別攻撃を受け、町は戦火に焼かれ、住民が殺されます。慰霊塔には、記録だけでなく、殺された人々、残された人々の、念というか記憶が留まっているのだと思います。
慰霊塔は、戦没者、被爆罹災者から今を生きる私たちへの、再びこの様な惨劇を引き起こしてはならないという、メッセージなのだと思います。
2017年7月31日月曜日
赤とんぼの里が舞台の「寅次郎夕焼け小焼け」、泣けました・・・
先週土曜日の寅さんは「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」でしたね。
播州は龍野、赤とんぼの里が舞台です。寅さん映画の楽しみは、昭和の日本の原風景が眺められることですが、この映画でも40年から前の龍野の原風景を眺めることができました。霞城址の山腹あたりから撮られたと思われる龍野城下の風景、変わっていないんですね。城下を縫って流れる石造りの側溝も、石畳の小径も、古風な町並みも、そして醤油蔵、寅さんがぼたん姉さんと遊んだと思われる料理旅館梅玉も、いまもそのままの風情を残しているんです。そして旅人にとても優しい町、情のある町の象徴として、ぼたん姉さんは描かれたのだと思います。
ものがたりですが
寅さんは場末の飯屋で無銭飲食の汚い爺さんを拾い、虎屋に連れ帰ります。面倒ごとがまた一つ増えた虎屋の家族ですが、寅さんの頼みと思い仕方なく爺さんの面倒を見ます。しかしその爺さん、態度が横柄で、その上に外で鰻を食しその代金を虎屋に払わせるというたちの悪さで、見かねた寅さんが爺さんを説教します。実は爺さん、虎屋を宿屋と勘違いしていたのです。虎屋の家族を従業員と思い込み、ぞんざいに振る舞っていたのでした。家族のもてなしが善意からであったことに恐縮した爺さんは、満男の画用紙の一枚に筆でスルスルと絵を描き、これを懇意の古本屋に持っていき静観の言付けといえば、いくばくかの金を出してくれるだろう、それをお礼にして欲しいと寅さんに頼みます。
キツネにつままれた様な気分で古本屋を訪ねた寅さんでしたが、その紙が7万円で売れ、そして爺さんが画壇の至宝静観であることを知って、これで虎屋は大金持ちと、まるで打ち出の小槌を得た様な心持ちになって急いで虎屋に舞い戻ります。しかし静観は、既にいとまごいした後でした。
場面は変わり、ここは播州は龍野です。
静観は、龍野市長からの絵画制作の依頼を受けて龍野を訪れていました。そしてハイヤーで宿に向かう道中、偶然にも旅烏の寅さんと出会います。静観は接待付けのもてなしに辟易していましたので、それで寅さんを一番弟子として紹介し、もてなしのもてなしを寅さんに頼みます。そして静観はひとり町に出かけます。実は静観はこの町の出身でした。まだ駆け出しの頃、言い交わした娘がこの町にいたのですが、絵描きとして生きる決意で娘を残し、ひとり町を出たのでした。寅さんや虎屋の家族の善意に触れて、いまや家族でさえ高名の鎧を纏い、その中心で横柄になってしまっていた自分に気付いたのでしょうか、あの娘に一言謝るために、娘の元を訪ねたのでした。娘はすっかり品のある高齢の女性になっていました。それは静かな対面でした。女性の変わらぬ慈しみのもてなしは、静観に許しと安らぎをもたらしました。
打って変わって寅さんですが、宴会で龍野芸者のぼたん姉さんとすっかり意気投合してしまいます。寅さんは、ぼたん姉さんの気っぷの良さと朗らかさにすっかり惚れ込みまして、所帯を持とうなどと息巻きます。ぼたん姉さんの方も、寅さんの正直さと面白さにどうやら好意を抱いた様子でした。でも静観の用事が済んで、二人の楽しい時間は終わりました。
再び虎屋に舞い戻った寅さんですが、まるで竜宮城から帰ってきた浦島太郎の様に、龍野での夢心地の時間を引きずって、虎屋のおいちゃんおばちゃんの心尽くしのもてなしをけなしてばかりいます。そんな時、ぼたん姉さんが上京し寅さんを訪ねてきます。
そして賑やかな第二ラウンドが始まるかと思いきや・・・
実はぼたん姉さんは、のっぴきならない事情で上京していたのです。東京から来た羽振りの良い男の投資話に乗せられて200万という大金をだまし取られたのでした。それは血の出る様な苦労の末に貯めた大事なお金でした。ぼたん姉さんは、ひとり東京に出てきて、限られた時間の中で騙した男を見つけて金を取り戻そうとするのですが、頭の良い詐欺師の男は、派手な店も立派な家も外車もみんな家族の名義で自分は一文無し、その上、投資話に乗っかったお前が悪いと罵る有り様で、気丈なぼたん姉さんも、虎屋の家族の前で泣き崩れてしまいます。
たこ社長がぼたん姉さんに連れ添って、再び詐欺師に会いに行きますが、詐欺師を法でも裁けない事を理解して、落胆して帰ってきます。それを知った寅さんは、さくらと虎屋の家族に今生のいとまごいを述べてから詐欺師に鉄槌を下すべく虎屋を飛び出しますが、行き先も聞かずに飛び出した寅さんに家族一同失笑です。ですがぼたん姉さんは、一期一会の自分に対して、こんなにも親身になってくれる寅さんをはじめ虎屋の家族に涙を流して感謝をします。
寅さんは、虎屋を飛び出し、すぐに行き先を聞いていなかったことに気付きますが、面目がなくて引き返せません。そして静観のことを思い出します。満男の画用紙一枚の絵が7万で売れるなら、ぼたん姉さんのために大きな絵を描いて貰って、それを売り飛ばせば200万くらいにはなるだろう、そこで静観に絵を描いてくれる様頼みに、静観の家に向かいます。しかし、寅さんの思いとは裏腹に、静観は真剣勝負の絵を容易く描くことなどできないと断ります。そしてお金が必要なら用立てすると話しますが、寅さんは俺はたかりじゃねえ、爺さんならぼたん姉さんへの情けを見せてくれると信じていたが、もう金輪際付き合いはなしだ!と捨て台詞を吐いて出て行きます。寅さんが虎屋に電話を入れると、ぼたん姉さんは龍野へ帰った後でした・・・
そしてしばらく時間が流れて・・・、寅さんはまた龍野に足を踏み入れます。ぼたん姉さんを元気付けるための訪問でしたが、ぼたん姉さんは会う早々、寅さんを自宅に引き入れて、居間に掲げた絵を見せます。
「静観先生が贈ってくれたん」
「龍野での世話のお礼にと一言そえて」
そして
「市長が200万で買うゆうたけど、うち絶対売らへんねん、それが一千万でも、死ぬまで家宝にするん」と話します。
寅さんはぼたん姉さんの手を取って表に駆け出します。そして醤油蔵の前で立ち止まり、醤油樽の上に登って、
「東京はどっちだ!」と叫びます。
ぼたん姉さんがあっちと指さす方向に
両手を合わせて静観への感謝の念を送ります。
醤油蔵の職人がそっちは反対やとはやしたて
小さな笑いの騒動の始まりです。
終わり
見事な人情話でした。泣けました。
もしも今作品で「男はつらいよ」が終わっていたならば、寅さんはもしかした播州龍野の男になっていたかもしれません。寅さんは生粋の江戸っ子ですが、母親は関西弁を話す芸妓でした。(演者はミヤコ蝶々さん)ですから関西弁も上手なんですね。もしかしたらスピンアウト作品として「男はつらいよ 播州編」なんかできていたかもしれませんね。そんな事を想像して楽しんでいます。
播州は龍野、赤とんぼの里が舞台です。寅さん映画の楽しみは、昭和の日本の原風景が眺められることですが、この映画でも40年から前の龍野の原風景を眺めることができました。霞城址の山腹あたりから撮られたと思われる龍野城下の風景、変わっていないんですね。城下を縫って流れる石造りの側溝も、石畳の小径も、古風な町並みも、そして醤油蔵、寅さんがぼたん姉さんと遊んだと思われる料理旅館梅玉も、いまもそのままの風情を残しているんです。そして旅人にとても優しい町、情のある町の象徴として、ぼたん姉さんは描かれたのだと思います。
ものがたりですが
寅さんは場末の飯屋で無銭飲食の汚い爺さんを拾い、虎屋に連れ帰ります。面倒ごとがまた一つ増えた虎屋の家族ですが、寅さんの頼みと思い仕方なく爺さんの面倒を見ます。しかしその爺さん、態度が横柄で、その上に外で鰻を食しその代金を虎屋に払わせるというたちの悪さで、見かねた寅さんが爺さんを説教します。実は爺さん、虎屋を宿屋と勘違いしていたのです。虎屋の家族を従業員と思い込み、ぞんざいに振る舞っていたのでした。家族のもてなしが善意からであったことに恐縮した爺さんは、満男の画用紙の一枚に筆でスルスルと絵を描き、これを懇意の古本屋に持っていき静観の言付けといえば、いくばくかの金を出してくれるだろう、それをお礼にして欲しいと寅さんに頼みます。
キツネにつままれた様な気分で古本屋を訪ねた寅さんでしたが、その紙が7万円で売れ、そして爺さんが画壇の至宝静観であることを知って、これで虎屋は大金持ちと、まるで打ち出の小槌を得た様な心持ちになって急いで虎屋に舞い戻ります。しかし静観は、既にいとまごいした後でした。
場面は変わり、ここは播州は龍野です。
静観は、龍野市長からの絵画制作の依頼を受けて龍野を訪れていました。そしてハイヤーで宿に向かう道中、偶然にも旅烏の寅さんと出会います。静観は接待付けのもてなしに辟易していましたので、それで寅さんを一番弟子として紹介し、もてなしのもてなしを寅さんに頼みます。そして静観はひとり町に出かけます。実は静観はこの町の出身でした。まだ駆け出しの頃、言い交わした娘がこの町にいたのですが、絵描きとして生きる決意で娘を残し、ひとり町を出たのでした。寅さんや虎屋の家族の善意に触れて、いまや家族でさえ高名の鎧を纏い、その中心で横柄になってしまっていた自分に気付いたのでしょうか、あの娘に一言謝るために、娘の元を訪ねたのでした。娘はすっかり品のある高齢の女性になっていました。それは静かな対面でした。女性の変わらぬ慈しみのもてなしは、静観に許しと安らぎをもたらしました。
打って変わって寅さんですが、宴会で龍野芸者のぼたん姉さんとすっかり意気投合してしまいます。寅さんは、ぼたん姉さんの気っぷの良さと朗らかさにすっかり惚れ込みまして、所帯を持とうなどと息巻きます。ぼたん姉さんの方も、寅さんの正直さと面白さにどうやら好意を抱いた様子でした。でも静観の用事が済んで、二人の楽しい時間は終わりました。
再び虎屋に舞い戻った寅さんですが、まるで竜宮城から帰ってきた浦島太郎の様に、龍野での夢心地の時間を引きずって、虎屋のおいちゃんおばちゃんの心尽くしのもてなしをけなしてばかりいます。そんな時、ぼたん姉さんが上京し寅さんを訪ねてきます。
そして賑やかな第二ラウンドが始まるかと思いきや・・・
実はぼたん姉さんは、のっぴきならない事情で上京していたのです。東京から来た羽振りの良い男の投資話に乗せられて200万という大金をだまし取られたのでした。それは血の出る様な苦労の末に貯めた大事なお金でした。ぼたん姉さんは、ひとり東京に出てきて、限られた時間の中で騙した男を見つけて金を取り戻そうとするのですが、頭の良い詐欺師の男は、派手な店も立派な家も外車もみんな家族の名義で自分は一文無し、その上、投資話に乗っかったお前が悪いと罵る有り様で、気丈なぼたん姉さんも、虎屋の家族の前で泣き崩れてしまいます。
たこ社長がぼたん姉さんに連れ添って、再び詐欺師に会いに行きますが、詐欺師を法でも裁けない事を理解して、落胆して帰ってきます。それを知った寅さんは、さくらと虎屋の家族に今生のいとまごいを述べてから詐欺師に鉄槌を下すべく虎屋を飛び出しますが、行き先も聞かずに飛び出した寅さんに家族一同失笑です。ですがぼたん姉さんは、一期一会の自分に対して、こんなにも親身になってくれる寅さんをはじめ虎屋の家族に涙を流して感謝をします。
寅さんは、虎屋を飛び出し、すぐに行き先を聞いていなかったことに気付きますが、面目がなくて引き返せません。そして静観のことを思い出します。満男の画用紙一枚の絵が7万で売れるなら、ぼたん姉さんのために大きな絵を描いて貰って、それを売り飛ばせば200万くらいにはなるだろう、そこで静観に絵を描いてくれる様頼みに、静観の家に向かいます。しかし、寅さんの思いとは裏腹に、静観は真剣勝負の絵を容易く描くことなどできないと断ります。そしてお金が必要なら用立てすると話しますが、寅さんは俺はたかりじゃねえ、爺さんならぼたん姉さんへの情けを見せてくれると信じていたが、もう金輪際付き合いはなしだ!と捨て台詞を吐いて出て行きます。寅さんが虎屋に電話を入れると、ぼたん姉さんは龍野へ帰った後でした・・・
そしてしばらく時間が流れて・・・、寅さんはまた龍野に足を踏み入れます。ぼたん姉さんを元気付けるための訪問でしたが、ぼたん姉さんは会う早々、寅さんを自宅に引き入れて、居間に掲げた絵を見せます。
「静観先生が贈ってくれたん」
「龍野での世話のお礼にと一言そえて」
そして
「市長が200万で買うゆうたけど、うち絶対売らへんねん、それが一千万でも、死ぬまで家宝にするん」と話します。
寅さんはぼたん姉さんの手を取って表に駆け出します。そして醤油蔵の前で立ち止まり、醤油樽の上に登って、
「東京はどっちだ!」と叫びます。
ぼたん姉さんがあっちと指さす方向に
両手を合わせて静観への感謝の念を送ります。
醤油蔵の職人がそっちは反対やとはやしたて
小さな笑いの騒動の始まりです。
終わり
見事な人情話でした。泣けました。
もしも今作品で「男はつらいよ」が終わっていたならば、寅さんはもしかした播州龍野の男になっていたかもしれません。寅さんは生粋の江戸っ子ですが、母親は関西弁を話す芸妓でした。(演者はミヤコ蝶々さん)ですから関西弁も上手なんですね。もしかしたらスピンアウト作品として「男はつらいよ 播州編」なんかできていたかもしれませんね。そんな事を想像して楽しんでいます。
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