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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2017年8月14日月曜日

読書感想文のあり方について

昼間よく聴いている「ばんばひろふみ!ラジオDEしょー!」で先日、リスナーから「子供の夏休みの読書感想文の書き方」についての相談がありました。誰もが何かしら苦い思い出があって、その思い出話がどれも面白く、二週に渡って、その話題で番組が盛り上がっていました。

でも、今思えば、何で読書感想文という宿題が苦痛だったのでしょう。そんな事に思いを巡らせました。
子供時代も本を読むこと自体、私は苦痛ではなかったように思います。知りたいという欲求が強くあれば、また、その物語を面白く思えば、夢中になって読んでいたように思います。
では、何が苦痛だったのか・・・、ふと思い当たることがあります。それは
①読む本が指定されていて、その本で感想文を書くことを強要される(様に思っていた)
②原稿用紙に、感想文の書き方という作法に則って書かねばならない(間違えば×が付く)
私自身、おっちょこちょいな性格でしたので、我慢を強いられたり、正確に物事を行う事がとても苦手でした。
そしてなにより一番の苦痛は、他の人とずれたおかしな感想や発想を書けば笑われるという事です。
小学生低学年の頃に、私は苦い経験をしました。あれは保護者参観日の事でした。
社会科の授業で、「兵庫県を二つに分けなさい」という質問があって、最初に当てられた生徒が、黒板の前に進み出て、兵庫県を上下に分けました。山陽と山陰です。もちらん正解です。で、先生が「他にありますか?」と問いかけを続けたので、私は得意満面になって手を挙げて、前に進み出、兵庫県を左右に分けました。すると、ドッと笑いが起こったのです。左右に分けた明確な答があったわけではありません。ただ左右にも分けられると思っただけの事です、いわゆる思い付きです。でもそれで笑われた。誰も気付いてはいませんが、私は嘲笑された気分になったのです。

今にして思えば、私が兵庫県を左右に分けた事に続けて、先生が左右に分けられる答を求めるアプローチをしてくれていれば、他の生徒からもユニークな発想や意見が飛び交いだしていたかも知れません。膝を打つ意見が飛び出していたかも知れません。たとえそうならなかったとしても、私にとって恥ずかしい記憶として残ることは無かったと思います。

そう考えると、先生があるべき答を想定した読書感想文の宿題といった態ではなく、長い夏休みの中で子供たちが思いのままに読書した本の話(内容や物語のすじ)や、読書して感じたこと、知ったこと、学んだこと、良かったこと、悪かったことなどを、先生や友だちみんなに伝えることだけを課題にしてはどうかと思います。
子供たちに
・読書をする事と
・人に伝える事を
だけを求めるのです。
そして、
人に伝える手段は、
・感想を口頭で発表していいし、
・文章に書き出して読んでもいいし、
・もしかしたら絵や音楽にしてもいいし、
という風に、子供たちに任せるのです。
そして、子供たちが発表した内容をみんなで楽しむのです。でも、そこにこそ先生の大人の導きが必要です。絶対に守らなければいけないことは
・否定しない
・あざ笑わない
ことです。そして発表した内容をみんなで共有できる様に導くことが大切です。
たとえとんちんかんに思える発表でも、それが悪ふざけではない限り、受け止める、そしてみんなで共有できる様に導くことが大切です。(それはとっても難しい事ですが、でも子供たちに難しい課題をさせているのだから、先生は遣り抜かねばいけません、ね)
そして、あらためて授業の一環として、発表した内容を、作法に則った感想文へと昇華させれば尚のこと良いと思います。

私は、子供たちに、人に伝える楽しさを知って欲しいと思うのです。
伝える事の楽しさを知れば、
いろんな事柄に関心が広がって、知りたいという欲求も強くなるだろうし、
伝える手段を学ぶことにも一生懸命になると思います。
なにより、伝える人を、伝えてくれる人を、大切に思うでしょう。
そして子供たち自身が、自分の成長を実感できると思います。

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