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パンデミックと戦うことを考える

昭和の始めに、日本が中国と、そして米国と戦争に及んだ理由を一言で記すことなどできないけれど、しかし、日本が戦争に負けた理由は一言で記すことができます。 それは、当時の日本の指導者の、「国民の人権軽視」と「戦争をするための戦略軽視」です。 「国民の人権軽視」、これは形式的な国...

2017年3月2日木曜日

村上春樹の最新作「騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編」を読み終えました。

村上春樹のマジックの様な文体、
文章による緻密な描写が、頭の中での具現化を容易し、
一節の文章に付け加えられた喩えが、文章に深みを与え、
章の終わりに添えられた次章の予告が、否が応でも先への期待を募らせる
これによって、物語世界に一気に引きずり込まれ、読書のスピードも加速し続けました。

読書の過程で、
ポルノグラフィとみまがうほどの性的描写にドキドキし、
おどろおどろしい怪異の出現にドキドキし、
様々な愛情模様、恋愛模様にドキドキし、
そして唐突とも思われた寓話の挿入や、歴史上の事件の挿入が、この先いかに符合するのかにドキドキし、
と沢山のドキドキが溜まりに溜まったまま、第1部顕れるイデア編を読み終えました。
この沢山のドキドキを解消すべく、第2部 遷ろうメタファー編に進みたいと思います。

ヒトラーユーゲントを彷彿させる、怖い話

大阪で今春開校予定とされる私立小学校の、用地買収に関する不可解な問題がメディアで取り上げられる様になってから、同じ運営母体の社会福祉法人が既に運営している幼稚園の、恐るべき教育実態を目にする事になりました。

新聞やテレビニュースが取り上げた
中国や韓国、また在日の人々を誹謗中傷したり、特定の団体を誹謗中傷する文章を、園児達の保護者に送りつけたり、園児達に、一政治家を褒め称えたり、一法案の可決を喜ばせたり
という、思想の強迫や、洗脳まがいの教育には、
江沢民の時代に中国共産党が行った反日教育や
ヒトラーの時代にナチス党が行ったヒトラーユーゲント教育、
さらには北朝鮮などの独裁者国家が行う洗脳教育を彷彿させ
吐き気がするほどの恐怖や怒りを覚えました。

日本人であるものが、自由に思想したり表現したりすることは、日本国憲法で保障されている個々人に与えられた権利です。ですが一方で、自由と民主主義の両方を重んじる理念からすると、個人の自由とともに他者を尊重する、あるいは他者との協調を両立させることが、私達には求められているのだと思います。
ですから、ある個人や組織が、彼等の主義主張や思想を一方的に他者に押し付けたり、植え付けたり、それで他者を攻撃することは、日本国憲法の理念に反する行為だと考えます。

ある個人や組織が、精神や肉体の成長間もない子供や、病んでいる人々また迷っている人々に対して、自分達の主義主張や思想を植え付けたり、あるいは優越を植え付けたり憎悪を植え付けたりすることが、どんな恐ろしい未来を引き起こすのか、私達は何度も経験しました。
ほんの身近な出来事では、オウム事件がそうです。入信した者達が尊師の意に沿わない人達を次々に殺害し、あげくに国家転覆まで企てました。そして事件が明るみになって二十年を経過した現在も、事件の全容が解明されることはなく、未だに燻り続け、そして被害者や元信者の苦しみは続いています。
そして子供を洗脳する事のおぞましさを見せつけたのが、ヒトラーユーゲントです。子供たちは、ヒトラーに忠誠を誓うこと、そしてアーリア人の血統の優越とユダヤ人への見境のない憎悪を植え付けられ、ホロコーストの加害者となりました。

この様な時、愛国心が問題として取り沙汰されます。最近では「~ファースト」「~主義」という御題目に形を変え、声高に叫ばれますが、愛国心、自分の国を大切に思う心は、家族愛と同様に、いちいち声高に叫ぶものではなく、心の中心にしっかりと育て持つものだと思います。当たり前、常識、道徳心と並ぶものにならなければならないと思います。
その愛国心を、足らないと他者を誹謗中傷したり攻撃することは、愛国心なのではなく、自己顕示欲なのだと思います。
反対に、愛国心を敵視し、敵視の行為を他者にまで押し付ける行為も自己顕示欲なのだと思います。それが、自由と民主主義を根底から揺るがして、国家を分断したり、不安定に貶めたり、存亡の危機に貶めることに繋がるのだと思います。

追伸
手塚治虫は、「アドルフに告ぐ」という作品の中で、ヒトラーユーゲントに無理矢理入隊させられたドイツ人の父と日本人の母を持つ少年の、悲惨を末路を描いていました。
この作品では、戦争は戦場で人を殺すばかりではなく、ある日を境に、体制に睨まれた、或いは疎まれた、また憎悪の対象として貶められた人達が、簡単に殺されます。そして、殺し殺された怨みや憎悪は、たとえその戦争が終わっても、消えることがなく、後生の人達まで、怨みや憎悪の念に縛り付けるという、終わることのない空しさを、私の心に強く残してくれました。
まだ未読の方には、一読を勧めます。

2017年2月24日金曜日

「生きてこそ 花も実もなる 若葉かな」、苦しんでいる人に この言葉を贈りたい

いじめが原因と思われる子供の自殺、
過重労働やパワハラが原因と思われる若者の自殺、
こんな事件を見聞きする度、それでも、何故に彼等は死んでしまったのかと、重苦しい気持ちになります。

いじめや過重労働、パワハラというものは、私達が身を置く社会環境の歪みが起こす悪い症状です。社会環境の歪みは、病原体のウィルスの同じです。
私達は、体が弱ると病原体のウィルスに感染しやすくなります。そしてウィルスに感染すると、ウィルスは体内で増殖し、熱が出たり、体が痛んだりと様々な症状を引き起こします。
病原体のウィルスは、人間に寄生して進化します。増殖を抑えるワクチンが開発されて、一時感染を抑えることができても、いつの間にかワクチンに耐性を持つウィルスが現れて、再び人間への感染を始めます。
社会環境の歪みは、人間の心の中にある悪意が生み出します。悪意とは他者に対する支配欲であったり、嫉妬や嫌悪や恐れです。人間が社会の中で生きていく限り、悪意がなくなることはないでしょう。そして、一つの歪みを是正する対策を講じても、新たな歪みが人知れずどこかで生み出され、再び悪い症状を引き起こします。

いじめや過重労働やパワハラは、強迫行為です。
脅迫する者は強迫行為によって、強迫する者から正常な思考を奪い、偽りの罪悪感を植え付けます。悪いのは自分だと思い込ませてしまうのです。
そして、やがて強迫された者は、その偽りの罪悪感で、強迫する者からの強要という罰を受け入れてしまいます。完全なる心の支配の始まりです。そして心を支配された者は、身近な人にさえ助けを求める事もできずに、疲弊し続け、最後にはその支配から逃れるために、自らを無にしようと、死ぬ事を選ぶのではないかと想像します。

どうすれば彼等を死なない様にできるのか
そんな時、ふと信仰に思い至りました。

聖書のヘブル11:1に信仰についての御言葉があります。
「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
この御言葉が意味する信仰とは、
あなたが描く望みを、神様の力で実現させるというためのものではなく、
あなたが辛い時、苦しい時、悲しい時、神様はいつもあなたとともにいて、あなたの辛さを、苦しみを、悲しみを分かち合って下さる。そして、あなたが耐えきれなくなった時には、すべてを神様が背負って下さる。という神様のあなたへの愛を保証し、確信させるためのものだと云われます。
きっと信仰は、神様の愛を信じて、自分を信じて、自分を大切して、安心して生き続けるために必要なものだと思います。

ですから私は、子供の時から、また若者には今からでも、信仰を持って欲しいと思います。
信仰といっても、何々宗教に帰依せよとか、何々主義に傾倒せよとか、言っているわけではありません。ただ、目には見えないけれども神様の愛を信じて、神様に愛される自分を信じて、いつも自分の命を、心を、健康を大切にし続ける人であり続けて欲しいということです。

そうすれば、いつの日か花も実も授かる事ができると思います。

生きてこそ 花も実もなる 若葉かな
苦しむ人に、この言葉を贈りたいと思います。

2017年2月20日月曜日

こんな夢を見ました・・・

こんな夢を見ました・・・
大阪の地下街、一軒の本屋にいました。でもそこには求める本が無くて、その本を求めて別の大きな本屋に向かうため地下街を歩きました。後になって思い返すと、地下街は閑散としていました。
場面は展開し、西梅田辺りの地上に出ました。現実ならば高層ビルが立ち並んでいる筈なのに、目の前にはスクラップと廃墟が広がっていました。その廃墟の回りを右に右に歩き進むと、廃墟の合間から、上層階が完全に崩れて中層階が向き出しになった大阪ステーションビル群が見えました。その向き出しになった中層階から火が燃え盛っているのが見えました。若者達の一行が、ファッションビルらしい入り口に入っていきます。中を覗くと、鉄骨が崩れ落ちた廃墟でした。その廃墟の合間から、何かの宗教を連想させる尖塔を頂いた白い建物が見えました。
またまた場面は展開し、JR大阪駅と阪急の連絡橋辺りにいました。フェンス越しに、燃え盛る駅ビルを眺めています。家族に知らせるために、スマートフォンで写真を撮ろうとしました。画面には、今にも炎の中に落下しそうな人を消防士や警察官が必死になって助けようとしている様が見えました。でも救出は叶わずに、人々は次々に炎の中に落下していきました。私は「その瞬間を撮りたい」という強い衝動をなんとか抑えて、シャッターのボタンを押さずにスマートフォンを下げました。
そして最後の場面です。
階段を登ると、そこは簡易的に作られた11番ホームでした。そこにチンチン電車の様な古めかしい車両が一両止まっていて、それが臨時で山陽線を西に向かって走ります。
車両に乗り込みますと、車両の真ん中に衝立があって、進行方向側に折りたたみチェアが四脚ありました。そのチェアには、先に二人のセーラー服姿の女の子が寝そべっていました。衝立の向こうから親と思われる大人の声で、席を詰める様にと声があり、二人はチェアを折りたたみ座り直します。私は彼女らの反対側の窓側にある折りたたまれたチェアに座ります。最後に車両に乗り込んだ若い女性が、私の隣の折りたたみチェアに座ると同時に、チンチン電車は音も無く走り出しました。
私は、隣に座った女性に、まるで弁明でもする様に、写真を撮らなかった話をしました。

目覚めて、この夢のこと、そして弁明について、考えてしまいました。

2017年2月13日月曜日

沈黙-Silence- の感想

映画comで、マーティン・スコセッシ監督作品「沈黙-Silence-」の公開を知ってから、それからは毎日「観たいっ!」という衝動でうずうずしていました。
でも、つい物語のあらましをウィキペディアで確認してしまって、観ることに躊躇を覚えてしまいました。それは、遠藤周作の原作に触れなければ、本質には辿り着けないだろうという思いです。

主人公ロドリコ神父が棄教を前にして、はじめて聞いたキリストの声の真意は?(遠藤周作の真意は?)
そして
物語の重要人物と思われるキチジローは何者?

そして一週間前に、大阪に出かけた時に、天神橋筋の本屋で「沈黙」を買い求め、読み始めました。
そして、物語の中盤、ロドリコ神父がキチジローに欺かれ警吏の手に落ち、長崎近くの牢所に収監されたところで、もう堪らなくなり映画を観ることにしました。
小説は、映画鑑賞の翌日、読み終えました。


映画「沈黙-Silence-」は、この中盤辺りまでの描き方に戸惑いを覚えました。小説の文字が醸し出す吐き気をもよおすほどの汚さ、貧しさ、惨めさが、映像からは迫ってこないのです。ある意味、仕方がないことです。これは映画です。小説の中の、色の無い乾いた風景が、彩色された美しい風景として描かれます。恐ろしい海も、恐ろしい山も、恐ろしい夜も、息をのむほどに美しく描かれます。そして、これはアメリカ映画です。貧しく惨めなキリシタンの農民や漁民が、流ちょうな英語でロドリコ神父と会話をします。そこには、言葉もろくに通じずに孤独に追い詰められる神父の苦悩を観ることができません。
しかし、度重なるキチジローの欺きによってロドリコ神父が追い詰められる様子や、キリシタンが水の刑に処せられる場面には、言葉もでないほど苦しみが迫ってきました。背景の風景があまりにも美しく、残酷さがさらに際だって心に迫ってきました。

ロドリコ神父は、その後もキリシタンの残酷な最後を幾度と見せつけられ、ともに日本に密航した友、ガルペ神父のあまりにも惨めな殉教を眺め、そして棄教して日本人となった元フィレイラ神父と面会します。
そして遂には、目の前で殺され掛けている信徒の命を救うために、フィレイラ神父同様に棄教に至ることになります。
小説では、このシーンがクライマックスでした。ですが、映画ではさらにロドリコ神父が日本人となって、江戸の町の片隅で、年老い、唯一の家族となる日本人の妻に看取られて亡くなり、棺桶の中で、火を掛けられて焼かれるところで終わります。彼の手には、キリシタンから託された粗末な十字架が握りしめられていました。

そして、疑問であった
主人公ロドリコ神父が棄教を前にして、目の前の踏み絵に描かれたキリストが彼に掛けた言葉の真意ですが、
これはロドリコ神父が、ずっと気に掛けていた疑問の答えでもありました。
キリストは、欺いて警吏の手に引き渡した弟子の一人ユダに対して、「去って、なすことをせよ」という言葉を告げました。
これは、キリストがユダを切り捨てた言葉ではなく、ユダの苦しみをいつも共にし、充分に苦しんだユダに対して、後は私が頸木を負い続けるから、あなたは頸木を下ろしなさい。もう楽になって良いのだから、が真意でありました。
キリストがロドリコ神父に語りかけた言葉です。
「(踏み絵を)踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう十分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから」
キリストの慈悲に、心が震える思いがします。

そして、キチジローは何者?ですが
文庫本121頁に、キチジローへの想いに悩むロドリコ神父の告解が綴られていました。
「キチジローの言う様に人間はすべて聖職者や英雄とは限らない。もしこんな迫害の時代に生まれ合わさなければ、どんなに多くの信徒が転んだり命を投げ出したりする必要もなく、そのまま恵まれた信仰を守り続けることができたでしょう。彼等はただ平凡な信徒だったから、肉体の恐怖に負けてしまったのだ。」
「人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者と。聖者と平凡な人間と。英雄とそれに畏怖する者と。そして強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎に焼かれ、海に沈められることに耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ。もし司祭という誇りや義務の観念がなければ私もまたキチジローと同じように踏み絵を踏んだかもしれぬ。」
映画では、さらにキチジローは、荒野で瞑想するキリストの前に現れて誘惑するサタンの様に振る舞います。
キチジローは、自分は弱い人間だと叫んでは、ロドリコ神父に告解を求めます。苦しみの中でロドリコ神父は、司祭の務めとしてキチジローの告解を受け入れ、キリスト者として祝福を授けますが、毎回、裏切られ、司祭としての自らの無力さに打たれます。
でも私は、キチジローもある意味、強いキリスト者であるように思えます。
キチジローは、どんなに裏切りものと蔑まれても、生き抜く方を選びます。そして、彼の信仰の火は、陽炎の如くかもしれないけれど、決して消えることがない。そして、棄教したロドリコ神父を、いつまでも司祭として頼り寄り添います。


そして、この「沈黙」は、神父の苦悩に留まらず、あらゆる人々に共通する苦しみだと思います。それは過度な労働、過度な責務に苦しむ人々すべてです。
それぞれがロドリコ神父となって、この物語を通じて、頸木を下ろす事の罪悪感から解放される事ができればと願います。

霞亭の牡蠣入りにゅうめん

昨日の昼は、龍野城近くのそうめん処霞亭で、冬場限定の牡蠣入りにゅうめんを頂きました。
大振りでプリプリした室津の牡蠣が四つ、にゅうめんの上に鎮座しています。
余計なことはいいません、ただ一言
「うまっ!」かったです。
ちなみにニンジンは赤とんぼ切りです。

にゅうめんを待つ間に、ご主人が庭でとれたキンカンの甘煮を振る舞ってくださいました。「種に気をつけて」、といわれていましたが、種も実も薄皮もとろけていて、すべて腹の中に収めてしまいました。
なんでも気軽に答えてくださるご主人ですが、昨日は満席で特にお忙しそうでしたので、一つ気になること尋ねることができませんでした。
それは
牡蠣にゅうめんのおつゆです。色がさらに透明で、まるでお醤油が使われていないのかと思えてきます。味は、海の香り満載で、本当に美味しく、一滴残さず頂きました。普段は汁を飲みきらない妻までも、残さず飲みきっていました。
あのおつゆの秘伝、伺いたかったです。

ミケランジェロ・ラ・ドッタ・マーノ

日曜日はよく龍野を訪れ、正午までの二時間ほど図書館で過ごします。
コンクリート建築の少し年季の入った建物ですが、こぢんまりとしていて、静かで、閲覧コーナーが南東の角、良く陽の当たる場所にあって、そのコーナーのソファーに座って雑誌や本を読んだりうたたねをしたりして過ごします。たつの市立図書館は好きな図書館のひとつです。

昨日も訪れました。入り口に「貴重本「ミケランジェロ・ラ・ドッタ・マーノ」一般公開」という案内がありました。貴重な本、世界に33冊しかない本、ということで、一冊雑誌を読み終えてから、見に行きました。
貴重本は、二階の奥まった部屋の中のガラスケースの中に閉じられたまま鎮座していました。大きな本です。表紙に大理石に刻まれた「階段の聖母」のレリーフが埋め込まれていて、まるで本というより石板かとみまがうほどです。壁に、その本がどの様な技法で製作されたかがパネルで紹介されていました。大理石について、使われた紙について、本を覆う織物について、綴じ技法について、インクについて、フォントについて、すかし文字(ウォーターマーク)について、それはとても興味深い内容でした。ガラスケースの右隣にAppleのパソコンがありました。どうもモニタで、貴重本のページを電子化したものが閲覧できる様になっている様子です。
そこに説明員の方が来てくださいました。そして貴重本の紹介と電子書籍のスライドショーを起動して下さいました。
貴重本は、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画を描いた500年目を記念して、2008年に同じものが33冊制作され、これはその一冊であるということ、そして本には、ミケランジェロの生涯が文字と写真で綴られていることなどを説明して下さいました。

幾つか質問をさせて頂きました。
電子書籍は、自宅のパソコンで(インターネット経由で)閲覧は可能ですか?
貴重本の中を開いて見ることはできるのですか?
パネルで紹介されている技法を実際に観ることはできますか?
しかし回答は、
電子書籍は自由に閲覧できないこと、さらには本の中身も閲覧することができないというものでした。説明員の方も、実際に開かれたページを見たことがないという事でした。
この本の価値とは、一体何なのだろう?と考えてしまいました。

帰ってから、この本について少し調べてみました。
この本をたつの市立図書館が購入した経緯についての記事を読みました。

たつの市立図書館の貴重本紹介ページ
http://www.city.tatsuno.lg.jp/library/miche/index.html
寄付金3千万円をパァッと美術書購入に使っちゃう地方行政って?
https://www.insightnow.jp/article/5113
1240万円の価値あるの? たつの市購入 ミケランジェロの本
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9711/2010/k100523.htm
その他、批判的なブログ記事も読みました。

私は批判するために、今これを書いているわけではありません。
龍野は好きな町です。古い町並みや文化があって、町ぐるみで訪れる人たちを温かく迎えてくれます。また文化度も非常に高い町だと思っています。
この本を、もっと有用に使える町だと思います。
奥まった部屋のガラスケースの中に鎮座させているだけであれば、この本に価値はありません。
また、200数頁に綴られたミケランジェロの生涯も、他の本に描かれたものと変わりはないでしょう。この本の価値は、触れて初めて生じるものだと思います。

この本を生かすも殺すも、龍野市民の胸三寸です。
もったいないと思います。