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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2017年2月24日金曜日

「生きてこそ 花も実もなる 若葉かな」、苦しんでいる人に この言葉を贈りたい

いじめが原因と思われる子供の自殺、
過重労働やパワハラが原因と思われる若者の自殺、
こんな事件を見聞きする度、それでも、何故に彼等は死んでしまったのかと、重苦しい気持ちになります。

いじめや過重労働、パワハラというものは、私達が身を置く社会環境の歪みが起こす悪い症状です。社会環境の歪みは、病原体のウィルスの同じです。
私達は、体が弱ると病原体のウィルスに感染しやすくなります。そしてウィルスに感染すると、ウィルスは体内で増殖し、熱が出たり、体が痛んだりと様々な症状を引き起こします。
病原体のウィルスは、人間に寄生して進化します。増殖を抑えるワクチンが開発されて、一時感染を抑えることができても、いつの間にかワクチンに耐性を持つウィルスが現れて、再び人間への感染を始めます。
社会環境の歪みは、人間の心の中にある悪意が生み出します。悪意とは他者に対する支配欲であったり、嫉妬や嫌悪や恐れです。人間が社会の中で生きていく限り、悪意がなくなることはないでしょう。そして、一つの歪みを是正する対策を講じても、新たな歪みが人知れずどこかで生み出され、再び悪い症状を引き起こします。

いじめや過重労働やパワハラは、強迫行為です。
脅迫する者は強迫行為によって、強迫する者から正常な思考を奪い、偽りの罪悪感を植え付けます。悪いのは自分だと思い込ませてしまうのです。
そして、やがて強迫された者は、その偽りの罪悪感で、強迫する者からの強要という罰を受け入れてしまいます。完全なる心の支配の始まりです。そして心を支配された者は、身近な人にさえ助けを求める事もできずに、疲弊し続け、最後にはその支配から逃れるために、自らを無にしようと、死ぬ事を選ぶのではないかと想像します。

どうすれば彼等を死なない様にできるのか
そんな時、ふと信仰に思い至りました。

聖書のヘブル11:1に信仰についての御言葉があります。
「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
この御言葉が意味する信仰とは、
あなたが描く望みを、神様の力で実現させるというためのものではなく、
あなたが辛い時、苦しい時、悲しい時、神様はいつもあなたとともにいて、あなたの辛さを、苦しみを、悲しみを分かち合って下さる。そして、あなたが耐えきれなくなった時には、すべてを神様が背負って下さる。という神様のあなたへの愛を保証し、確信させるためのものだと云われます。
きっと信仰は、神様の愛を信じて、自分を信じて、自分を大切して、安心して生き続けるために必要なものだと思います。

ですから私は、子供の時から、また若者には今からでも、信仰を持って欲しいと思います。
信仰といっても、何々宗教に帰依せよとか、何々主義に傾倒せよとか、言っているわけではありません。ただ、目には見えないけれども神様の愛を信じて、神様に愛される自分を信じて、いつも自分の命を、心を、健康を大切にし続ける人であり続けて欲しいということです。

そうすれば、いつの日か花も実も授かる事ができると思います。

生きてこそ 花も実もなる 若葉かな
苦しむ人に、この言葉を贈りたいと思います。

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