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パンデミックと戦うことを考える

昭和の始めに、日本が中国と、そして米国と戦争に及んだ理由を一言で記すことなどできないけれど、しかし、日本が戦争に負けた理由は一言で記すことができます。 それは、当時の日本の指導者の、「国民の人権軽視」と「戦争をするための戦略軽視」です。 「国民の人権軽視」、これは形式的な国...

2011年2月22日火曜日

ニュージーランド南島のクライストチャーチで大規模地震が発生!

先ほど、時事通信のニュースで、『昼過ぎにニュージーランド南島のクライストチャーチを襲う大規模地震が発生』という見出しが飛び込んできました。

以下、msn産経ニュース速報記事の引用です-----

米地質調査所(USGS)によると、ニュージーランド南島のクライストチャーチ付近で22日午後0時51分(日本時間同午前8時51分)ごろ、マグニチュード(M)6・3の地震があった。ニュージーランドの国営テレビ・ニュージーランド(電子版)によると、同国のキー首相は同日、死者が少なくとも65人に上ったと述べた。現地からのテレビ映像では負傷者も多数出ているもようだが、詳細な人数は不明。

首都ウェリントンの在ニュージーランド日本大使館によると、クライストチャーチとその周辺には約3000人の日本人が住んでいる。

地元メディアによると、2台のバスが崩壊した建物の下敷きになるなどして死傷者が出たという。他にも崩れた建物の下敷きになったり、閉じ込められたりした住民が多数いる可能性が高く、災害対策当局などが救助活動を急いでいる。


[時事通信の写真]

[YouTube 動画]


以上、引用-----

まず、ニュージーランド国民、特にクライストチャーチで被災された方々全てに『大丈夫ですか!』という叫びを届けたい、そして亡くなられた方に、哀悼の意を送ります。
日本人、否、世界市民に、至急の救助の手と義援金募金活動実施を促します。

ニュージーランドは、日本よりも一回り小さな島国ですが、時差も余り無く、また美しい国です。南半球なので、今は丁度、夏の終わりでしょうか。
丁度20年前、2/18から10日間、新婚旅行で訪れました。
最初に訪れた町がクライストチャーチでした。
旅行は二組で回りました。クライストチャーチでは、大学の先生(奥さんが日本人)が観光ガイドを務めて下さいました。クライストチャーチは入り江の側にある比較的こぢんまりとした美しい町です。町の中心にランドマークである大聖堂があります。イギリスの小京都と表現するのが適切かどうかはわかりませんが、歴史ある建造物、訪れたものを優しく招き入れてくれる美しい公園のある町です。町は妻と二人で歩きました。
大聖堂を訪れ、拝観しました。幼なじみの友人が20代半ばに約半年だったか、ニュージーランドへ語学留学し、学校は短期で終えたものの、その後アルバイトをして過ごした町がクライストチャーチでした。彼がよくお世話になったというカフェの親父さんを探して回り、親父さんに会って、友人から預かった手紙と、私が持って行った阪神タイガースの帽子をプレゼントしました。
英語、英会話もろくにできない私の表情と手振り、そして友人の手紙などで私の突然の訪問の意を汲み取って下さり、快く応対して下さったこと、昨日の事のように思い出しました。

あの美しい町、暖かい人情の生きる町、一期一会の町が、もう一つの悲劇の記憶、阪神大震災の風景と重なりました。

どうか悲劇がこれ以上拡大しない事、祈ります。

主よ、貴方を信奉する町を、人々を救い下さい。

自宅の庭に、名もなき一輪の花が咲いています。

数日前、庭に出て、ふと足下を見ると、可憐な黄色の花ビラが目に飛び込んできました。
芝枯れの庭の一角、普段なら踏み歩く場所なのですが、何故か足が止まりました。

とても小さく、もし運悪く洗濯ばさみでも落そうものなら一巻の終わり、そんな小さな花でありますが、生命が放つオーラでしょうか、巨人の私を立ち止まらせました。

今日もまだ花は陽光を反射して、鮮やかな黄色を、愛しい一点を庭に記してくれています。

もしかしたら、春からの先触れでしょうか・・・

高砂市の図書館事情

私は、図書館という空間が、子どもたちだけでなく、幾つになった人でも、知識に触れたい・学びたいと思った時に、集い、楽しめる場所として、すぐそばにあって欲しい、そう願います。

私が最初によく通った図書館は、姫路城の北側にある『姫路市立城内図書館』です。
開館当初、城内図書館に隣接した駐車場は無料で、自動車で行っても、時間を気にすることなく図書館で、また姫路城周辺、美術館などで散策が楽しめました。
学校が夏休み中などは、館内に設置されている広い机に学生達が集い、書物に、またノートに向き合っていました。エアコンが適度に効いて、広くしかも静寂さを失わない空間、大きな窓から眺められる姫路城や新緑の風景、知識に触れる・学ぶ者には最上の空間であるなぁと思いました。

10数年前から、図書館利用者のモラル低下を嘆く論評を多く眼にするようになりました。
・借用手続きをせずに持ち帰ってしまう。
・図書に落書きしたり、ハサミやカッターで傷つける。
等々、心が痛む事態です。
そして、図書館は自衛のために、利用者に様々な規制をかける様になりました。
カバンなどの持ち込みが禁止されました、それは図書館内で気兼ねなく学びたいという学生の排除に繋がりました。
今や図書館は、静かに図書館内で過ごせる者のみ、つまり図書館が利用者を選別する事態となったのです。

また、ITの利用(効率化の具現)により、図書の検索、貸し出し状況などが館内設置のパソコンから行える様になりました。現在ではさらに進み、インターネットを通じて、自宅にいながら行える様になりました。大変便利になりました、ただデジタルデバイド、つまりIT技術に長ける者には便利になりましたが、そうでない者には図書館はさらに不便になってはいないでしょうか。

私が望む理想の図書館のスタイルは、
利用者が、当然ながら公共財産および公共空間を利用させて頂くというモラル遵守が前提ですが、
日常生活にはない、図書館でのみ感じられる広くかつ静寂な空間で、自分のスタイルで伸びやかに知識に触れ、学べる。
また、図書の検索、或いは選択に迷った時、適切なアドバイスをして下さる司書の方に気軽に話しかけられる。
そして、利用者はボランティアともなり、図書館員の指導のもと、館員とともに清掃したり図書の整理整頓を行ったり、勉強会、書評などの発表会、朗読会を行う。
つまり、人が集い、人を育て、人が守る、人を繋ぐ空間であってほしいということです。

蔵書が豊富、新刊がどんどん蔵書に加わる、図書だけではなく、音楽や映像も楽しめる。成れば尚嬉しく、実際このように様々な情報媒体を楽しめる図書館も増えています。
しかし、たとえそうでなくても、読み継がしたい図書がしっかりと守られている、図書を守る人の意志がはっきりとわかる図書館であれば、素晴らしいと思います。

姫路市同様、高砂市と隣接している加古川市の図書館も利用してきました。加古川市の図書館施設が素晴らしいのは、広い公園のなかにあったり、複合施設(スポーツジムやレストラン、美術展覧室が併設されている)となっている事です。多くの人が、それぞれの目的でそこに集まってくる、そして図書館の利用促進も図られる、素晴らしいこころみです。
そして高砂市民としてなにより嬉しいのが、図書の貸し出しサービスを受けられる事です。

そして、昨年から利用し始めた加西市立図書館。こちらも複合施設で、2階までは商用施設。ショッピングができたり、クリニックにも通えます。そして3-4階に図書館と市民が集える広場が自由に行き来できるように併設されています。
市民広場は3-4階が吹き抜けとなっており、施設内にいても空間の広がりが実感できます。また、音楽や映像を楽しめるコーナーもあり、貸し出しもされています。なにより自治体としては高砂市から飛び地であるにも関わらず、加西市民と同様の全ての図書館サービスを受けることができます。


さて、我が町高砂市の図書館事情ですが、
曽根天満宮の南側、旧松陽女学校の校舎(今では本当に珍しくなった木造二階建ての校舎です)の一棟内にあります。
校舎は図書館以外にも、老人大学等々に利用されています。
図書館は、校舎の一角、一階に受付窓口の小部屋と一教室程度の部屋にスチール製の本棚な隙間なく並べられ、古い大書が置かれています。椅子といえばスチール椅子が2~3脚程度。その部屋に入ると、半世紀も前にタイムスリップした様な心地になります。それはそれで他にないものではありますが、手にとって読みたい本もなく、腰を落ち着かせようと思っても、座る場所もありません。

何年も前から新図書館建設の噂はありましたが、いつもたちきれで、また私自身、隣接市の図書館利用に十分満足していたので、いつの間にか高砂市の新図書館建設等について関心を持たなくなっていました。

今年一月、高砂市議木谷かつろう氏発行の『市政報告№14』が郵便受けに入っていました。
市民オンブズの監視対象として『土地開発公社』の問題を取り上げる中で、『新図書館建設』についても書かれていました。

以下引用です-----
3.新図書館は本当に実現できるのか?
1号土地で最大の米田多目的広場(簿価約18億円、年利息2千6百万円)につき、北側6千平方メートルを図書館建設予定地として残し、他の72%相当分を13億円で引き取る予算案が12月議会で可決されました。
広場は今後も現状のまま。教育長の答弁によれば、新図書館建設は、H27年度着工、H29年度開館予定らしい。
図書館建設についてはH13年度に建設資金の確保をせずに設計図を発注し、その費用6千5百万円を無駄にしている。今回の建設費は当時の約6割のようですが、それでも最低30億円(現金25%で、残りは市債)は必要です。教育委員会は前回同様、何度も構想を練り、審議を重ねていますが、財源は1円も確保されていません。先ずは公社(土地開発公社)の精算を優先し、図書館は資金を積み立て、財源確保した上で建設にかかるべきです。

※土地開発公社について
土地開発公社は地価の右肩上がりの時代に、自治体に先行して用地取得する必要から、公有地拡大法により市の外郭団体として設置されました。理事長は副市長で、事業資金は全額が市の保証による借金です。
高砂市の場合、公共事業用地(市に先行して取得=1号土地)と工業公園(企業向け分譲=2号土地)があります。
1号土地は取得価格に毎年の利息や管理費などを上乗せした価格(簿価)で市が引き取り事になっていますが、市の財政難から塩漬けとなっています。2号土地は国鉄清算事業団から跡地をH9年買収したもので、25%しか分譲できず、残りは賃貸(賃貸料で利息に対応)しています。標準財政規模に対する負債(借金)の割合が約50%で、県内市で最大(平均の2倍以上)です。
以上引用-----

この記事を読み、土地開発公社のこととは別に二つの問題に憤りを感じました。
一つは、図書館をどの様に利用していくのか、市民もしくは全ての利用者にどの様なサービスを提供するのかという、将来ビジョン(ハート)がまったく描かれぬまま、また上物(ハード)だけで、愚にも付かない論議に終始しているのかという憤り。
二つは、ただでさえ市民が集える公園が少ない高砂市にあって、唯一ともいえる広大な広場、米田多目的広場を潰すというのかという憤り。
です。

始めに書いた『私の理想とする図書館』を実現するために、なにも新しい器を用意する必要はなく、既存施設の利用、併用で実現できると考えます。

この二十有余年、大阪駅のランドマークタワーであったアクティ大阪。27階にあるスカイレストランを今月末で閉鎖し、最上級のホテル客室にリニューアルするというニュースを最近読みました。リニューアル費用は約10億円であったと思います。
先の市政報告で、新図書館建設費用は最低でも30億円以上必要と訴えられていますが、アクティ大阪の様な高層建築物最上階、ワンフロアー全面のリニューアル費でも約10億円でできてしまいます。(しかもこちらは『機を見るに敏』、時世に俊敏なる対応です)

高砂市内を見渡せば利用できそうな既存施設に二つ行き当たりました。
一つは『ジャスコ高砂店』。商用施設は2階までで3階以上は駐車場となっています。その3階フロアを図書館に転用するのはどうでしょうか。もし実現すれば、加西市立図書館と同様にショッピングも楽しめる複合施設の出来上がりです。
もう一つは『高砂市総合体育館』。米田多目的広場内にある、豪奢な施設です。館内にはメインとなる体育館、そして会議室、だだっ広いエントランスがあります。この会議室エリアとエントランスエリアを図書館としてリニューアルするのはいかがでしょうか。もし実現すれば、野球場、陸上競技場、近くには労働者体育センターもある多目的広場内に知識を求める、学習室を求める幼児、児童から学生、年配の方々までが集う、市民の社交場がいっちょあがり!です。

ジャスコの駐車場転用は、これまた『機を見るに敏』、『生き馬の目を抜く』世界で戦っているジャスコのノウハウを活かせば、リニューアルコストも抑えられ、また市民にとっては買い物もでき本も読める複合施設が手に入ります。ジャスコにとっても集客に通じる利点があります。市にとっても、市民にとっても、ジャスコにとっても利ばかりです。
また、総合体育館内の利用は、施設の稼働率を上げるメリットです。人が多く集まれば活気が生まれます。レストランを併設してもいい。こじんまりとした文化施設や教室を作ってもいい。おしゃれなカフェテラスを作ってもいい。施設内の彩りが鮮やかになるでしょう。
体育館以外にも、野球場のスタンドの下や外野芝生エリアを転用しても良いでしょう。そうすれば、施設内から、野球は見られるし、西には石の宝殿、生石神社が望めます。環境的にも素晴らしいと思います。

文化・スポーツ施設は、一市だけのものではなく利用者みんなの共有財産です。無駄にお金を費やすことなく、否、たとえお金を掛けたとしても、それ以上に、恩恵をもたらさなければいけないと思います。

その昔、高砂は、けっして裕福ではなかったかもしれないですが、山もあり海もあり名所もあり、水は美味しく、子どもを育て、日本人として生活するにほどよい土地柄であったと思います。

図書館についても、ハードでなく、ハートで考えて欲しい、そう強く希望します。

2011年2月20日日曜日

第9回播磨灘少年野球大会出場の第3期阿弥陀・北浜連合チームの試合を観戦しました。

薄曇り、気温も余り上がらず、少し春が一歩後退したかのような、今日2月20日、鹿島校区のAリーグ参加チーム『(第3期)阿弥陀・鹿島連合』が、小学生時代最後となる公式戦、『第9回播磨灘少年野球大会』で、志方ジュニアと対戦しました。試合会場となったのは、鹿島中グラウンドです。

今期『(第3期)阿弥陀・鹿島連合』は、阿弥陀地区、北浜地区の6年生11名でチームを組み、松井監督、北口コーチのもと、寒さ厳しい冬の間も、熱く野球に取り組んできました。
しかし、今大会直前に二名がインフルエンザにかかり無念の欠場、そのため、9名での戦いとなりました。
松井監督が午後から指揮されるという事で、1回戦は北口コーチがチームを指揮されました。試合前、北口コーチは何とか勝って、午後からの2回戦、松井監督に引き継げるよう頑張りたいと仰っていました。

11時試合開始、志方ジュニア先攻で幕を開け、ともに先取点のチャンスは作るものの得点に至らず、そして5回表志方ジュニアの攻撃、1死3塁で、バッターにはスクイズのサイン。二度失敗し2ストライクに追い込んだものの、スリーバントスクイズを決められて先取点を許し、結局、6回裏攻撃終了でゲームセット、『(第3期)阿弥陀・鹿島連合』は1-0で敗れました。
フォトアルバム『2011-02-20 第9回播磨灘少年野球大会 阿弥陀・北浜連合vs.志方ジュニア』

得点のチャンスを走塁ミスなどで潰してしまう残念なシーンもありましたが、内野手は常にピッチャーマウンドに近づいて声かけするなどして投手をもりたて、またファインプレーも随所に見られ、小学生最上級生のチームとして、一生懸命に戦っていました。

4月になれば中学生となり、彼らから何名が、鹿島中野球部の次代を担うために野球部の門をくぐるのか、今から楽しみです。

2011年2月19日土曜日

3月12日は3回目の、おはなし会朗読担当日です。

昨年、10月8日のブログ投稿で、『12/18、おはなしの会で朗読する絵本、決めました!』と図書館の、おはなし会2回目の朗読について触れましたが、実は、当日朗読したのは違う絵本でした。
YouTubeにもアップしていますが、
C.V.オールズバーグさん絵と文『急行「北極号」 The Polar Express 』
コルネリス・ウィルクスハウスさん絵と文『クリスマスのおくりもの』
の二冊を朗読しました。
準備を進める課程で、よりクリスマスに相応し物語を子どもたちに贈りたいと思い、この二冊に変更しました。

何度も練習を重ねて、本番に挑みましたが、思わぬ苦戦を強いられました。
『急行「北極号」』、横長の絵本で、見開きの頁によって文が右端、左端にレイアウトされています。
私はお話しの会では、本立て用の机の、右側に座り(子どもたちから向かって左側)、机に本を立て、子どもたちに向かって開きながら読み進めますが、見開き頁の右側の文が見えないのです。つまりはこういう事です、ふだん読書用として常用しているメガネ(近視用メガネ)では、見開き頁の右側の文章が遠くて全く見えなかったのです。おはなし会が行われる場所は、児童書コーナーの奥の一角、会の最中は、パーティションで仕切り、天井も高いため、少し薄暗いのです。私の眼の機能が著しく低下していること、改めて認識させられました。
まぁ、文章をしっかり暗記しておればどういうことはなかったのですが、しかし、まだまだ朗読修業の道半ばということでしょうか、次の担当時には、この点も考慮に入れて、本を選択せねば、と反省した次第です。

でも、そうはいっても、読みたい本を朗読したい、伝えたい本を朗読したい、という誘惑がまさり、次のおはなし会に準備している絵本も横長本です。

朗読しようと思っている本は、
スーザン・バーレイさん絵と文『わすれなれないおくりもの』
トーベ・ヤンソンさんの『ムーミンのふしぎ』←横長本です。
です。

『わすられないおくりもの』、『死』を扱った物語です。しかし、悲しみの物語ではなく、たとえるならば春に芽生え、冬を前に枯れ果てる草木でも、種を残し、別の場所で新たな春に芽吹くように、教え与えられた者が、その教え行いを絶やさないかぎり、『生』の喜びは永遠に尽きない、そう作者であるスーザンさんが伝えようとされている物語だと思います。
『ムーミンのふしぎ』、海の青さ、草木染めのピンク色、水によって宝石のように輝く石ころ、オレンジ色に染まる夕空、本当の宝物は手で捕まえる事はできないけれど、じっくりと見て、しっかり頭の中にしまう事で、それは私のなかに留まり決してなくなる事はない、賢者のつぶやきが聞こえてきそうな物語です。
私たちの世代にとってもとても懐かしい、古い友人である、ムーミンとその仲間達が出演して物語を演じてくれます。ちょっと意地悪だけど友だち思いのミイ、おっちょこちょいのスニフ、賢者スナフキン、やさしいムーミンママ、そして永遠の少年ムーミン、本を読んでいて、岸田今日子さん(アニメ『ムーミン』でムーミンの声を担当された、とても知性的でチャーミングな女優さんでした。)が語りかけて下さるような気がしました。

おはなし会の持ち時間は30分、聴いてくれる子どもたち(眼が悪いので、特に最前列で聴いてくれる子どもたち)一人ひとりの顔を見ながら、その表情の変化を楽しみながら、一人ひとりに話しかけるように、朗読できたらと思います。

2011年2月18日金曜日

風が瑞々しくなりました。

お早うございます

早朝、外に出てみれば、肌に当たる風が瑞々しかったです。
今週を振り返ってみれば、週初めには雪が降り積もり、週中も天候は定まらず、そして昨夜は久し振りのしっかりとした雨音を聴きながら寝床に入りました。



今週は空の上で季節のせめぎ合いがあったようです。
7時15分現在の気温は9度、日中もそう気温は上がらないようですが、今年はじめて、春に出会いました。

2011年2月16日水曜日

石平著『私はなぜ「中国」を捨てたのか』読後感想

2月14日、東加古川のマイカル内未来書店を訪れ、幾つかの本を手に取り、パラパラとめくり読みしながら時間を過ごした。

そして、一冊の本に目が留まった、それが、石平著『私はなぜ「中国」を捨てたのか』である。目次だけをみると、『中国を何故捨てたか』『中国共産党の脅威』『愛日主義』『天皇礼拝』とあって、危険思想の本かと、書棚に戻そうとしたが、中国との関係が不穏な現在、2007年に日本に帰化して中国系日本人一世となられた石平氏が中国を、また日本を実際にどう観ているのか知りたいと思い、購入し、自宅に戻ってから読んだ。
237頁の本であったが、半日もかからず読み終えた、最初に手に取ったときに感じた危険な代物ではなく、そこには中国共産党への激しい怒り憤りとともに、古き良き中国文化への郷愁が溢れていた。
この本は2006年、当時まだ中国籍であった石平氏が出版された『私は「毛主席の小戦士」だった』を改題・改訂し2009年に出版された本です。『尖閣諸島付近での中国漁船による日本の巡視船体当たり事件』に端を発した、以降の日本への中国政府の高圧的な態度を見せつけられ、多くの日本人が中国を脅威と捉えるようになった以前に書かれた本です。

東アジアの一民族、日本人は、明治維新以後、急速な『富国強兵』『西洋化』に走り、東アジア諸国を軽視した施策を採り続けた。昭和期に入ってからは、東アジアを欧米から開放すると称して、併合・植民地化を推し進め、二流日本人化施策により名を奪い(日本名に強制改名)、言語を奪い(日本語の強要)、人権を甚だしく打ち砕いた。たかだか70有余年前の出来事である。
しかし日本は、第二次世界大戦の無条件降伏の後、軍国主義、全体主義と決別し、与えられた平和・民主主義の理想を追った新憲法の下、理想郷としての民主主義国家として日本を再生してきた。しかし、政治的な民主主義の理念を疎かにした、つまり志在る者が民の審判を受けて国政を委ねられ、民のために働くということを疎かにした。外交がその最たるもので、武力放棄、戦争放棄を盾にして、日米安保によって、日本の安全保障を全てアメリカに依存し、1980年半ば以降からの約20年間、ついには経済力に偏重した経済大国と呼ばれるようになった。

日本が以上の様な戦後を歩んでいたとき、隣国である中国がどの様な歩みをしたかを、同世代の石平氏がこの本の中に記されている。

戦後、日本の軍国主義・膨張主義の嵐が過ぎ去った中国では、毛沢東がマルクス主義をテーゼとした共産主義社会主義国家建設の為と称した共産党を興し、文化大革命と称した施策によって、毛沢東思想を布教し、過去の偉大なるいにしえの中国文化を破壊した。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が、建国の立役者である金日成を、現在にいたり父として崇めるよう思想弾圧が徹底されたように、現在漸く民主主義国家として歩み出したカンボジアでかつてポルポトが、いにえのクメール文明を破壊し尽くし、教養人、医師、教育者を迫害したように、それらの悪行の先兵を毛沢東と彼が率いた共産党が自国民に強制実践した。
毛沢東の後、共産党を支配した鄧小平は、毛沢東思想および文化大革命を否定し、1980年代、中国では民主化の芽が、高等教育に籍を置く学生の中から吹き始めた。
そして1989年、世界中で疲弊した社会主義国家が次々と斃れ始め、ベルリンの壁が崩壊したその年、中国では6月4日、鄧小平は共産党政権を脅かす脅威・敵と見なして、民主化を標榜する知識人、学生を一掃した。生き残った中国人民主化活動家が『血の日曜日』と呼ぶ、『天安門事件』である。
1990年代、共産党支配を引き継いだ江沢民は、人民の共産党への非難の矛先を変えるべく、反日教育を徹底して行い、若い世代を共産党支持者へと変貌させた。一方で上海を中心に経済の自由市場施策を実行し、膨大な外貨を引き込んだ。民主主義国家から金をそして技術をどんどん引き込んで共産党政権を盤石のものとした。

1962年、四川省の教育者家庭の一粒種として生まれた石平氏は、時代に翻弄されながらも、1980年代の民主化の風の中で学び、1988年日本の神戸大学、大学院に留学、以後日本から中国を直視し続けた。

本の第1章から第3章まで、
第1章 私は「毛主席の小戦士」だった
第2章 いかにして「反日」はつくられるのか
第1章 中国を覆う「愛国主義狂乱」
恐ろしい見出しの中で書かれた記述は、何度も欺かれ裏切られた中国共産党の悪行告発とともに、中国人として生きた半生、文化大革命の嵐の中でいにしえの中国文化を伝えようとした祖父と過ごした思い出、民主化を語り合った友との思い出、そして友を凄惨な死に追いやった中国共産党が支配する中国との断固たる決別表明が、理知的に記憶を辿りながら語られていた。しかし、その文面から激しい感情、哀悼、そして郷愁がひしひしと伝わってきた。

後半の第4章、第5章では、
第4章 日本で出会った論語と儒教の心
第5章 わが安息の地、日本
彼が出会った日本人の礼儀正しさとやさしさの中に、いにしえの中国儒教の精神が息づいていることを学び、また京都や奈良にいにしえの中国の詩人が詠んだ風景を眺めた。
私は、彼の日本人感、日本感に感謝すると共に、近年の日本人の歴史認識の疎さ、いにしえの日本文化の軽視は、彼が感嘆するに値するのかと、恥ずかしさも感じた。

この100年間で日本の四季折々の美しい風景は、開発という御旗のもと破壊され続けてきた。一貫性のない教育施策と軽薄なメディアの台頭によって、各土地で息づいた方言、美しい日本語は軽視された。日本精神文化の根源である(いにしえの中国から渡来した儒教を源流とした)「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八徳は絶滅の危機に瀕している。
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仁・・・思いやり、慈しみ。
義・・・人道に従うこと、道理にかなうこと。
礼・・・社会生活上の定まった形式、人の踏み行なうべき道に従うこと。
智・・・物事を知り、弁えていること。
忠・・・心の中に偽りがないこと、主君に専心尽くそうとする真心。
信・・・言葉で嘘を言わないこと、相手の言葉をまことと受けて疑わないこと。
考・・・おもいはかること、工夫をめぐらすこと。親孝行すること。
悌・・・兄弟仲がいいこと。
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彼、石平氏が2007年末日本人として帰化したときの手続きのくだりは、とても奇異に感じた。彼は帰化申請のとき、当局から日本に対する「忠誠心」「愛国心」を求められなかった。これが不満で、その後、伊勢神宮に参拝し、五十鈴川で身体を清め、靖国神社を参拝し、この二つの「通過儀礼」をもって、身も心も日本人になったと書いている。
私は小学校の修学旅行で、伊勢神宮を見学し、五十鈴川の清水で遊んだ記憶がある、しかしその後、38年間、参拝もしていないし、また靖国神社に国会議員が公式に参拝することについて、パフォーマンスと思っているし、その行為には嫌悪感を感じている。

私は日本人の精神世界の原点は、自然崇拝から育まれたもの思っている。それは、あらゆる文明が中国から朝鮮半島を経由して日本に渡来する遙か昔のことである。
豊かな実りも、飢餓も、自然が招くものであり、自然の中に、多くの神(八百万の神)を見いだし、畏怖の念を抱くと共に愛でた。それが、石平氏の大好きな日本語『やさしい』の原点なのだろうと思う。

皇室についての論評であるが、漢詩の如く、端的に真理を書き綴られていた。これまで漠然としか見ていなかった皇室の存在について改めて考えた。皇室が神代の時代から不変成るものとして今日まで存続したのは、権勢を放棄し、権力を時の勢力者に委ね、慎ましく、また皇室を高尚に営まれ続けたことが、日本人が、皇室を敬い養護し永続させた主因であるという考えに到達した。

ドラッカーがその著書『マネジメント』の中で、『意見の対立を見ない時には決定を行わない』と記されている。
権力が一握りのものに握られ、独裁を許すことの罪悪、悲劇的な末路は歴史が証明している。
ドラッカーの言葉は、経営だけではなく、すべての意思決定の議論の場において当てはまり、対立軸があって議論が白熱し、ベストあるいはベターな選択に辿り着くと思う。
論評や思想、哲学もそうだ、忌憚ない意見を出し合い議論を尽くすことによって、一歩前に前進できる。

自分の生き方然り、日本人の生き方然り、隣国との付き合い方然り、熟慮が必要な時代である。