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藪の中

先月、BSで黒澤明監督作品「羅生門」を観ました。同じ黒澤明監督作品である「用心棒」や「椿三十郎」の様な痛快な時代活劇ではなく、陰鬱な気分になってしまう平安時代が舞台の物語です。 物語は、ある殺人事件の重要参考人として捕らえられた盗賊の多襄丸、殺された若侍の新妻真砂、そして殺さ...

2015年10月4日日曜日

想像してごらん

現在の私たちは、想像する力こそ一番に養わなければいけないと痛感します。
想像する力の欠如が招いた事件や事故があまりに多いと思うからです。

イジメがそうです。
非常識な悪ふざけがそうです。
暴力的なクレームや、主義主張がそうです。

そして
騙すという、悲しませる行為
暴力という、精神と身体を傷つける行為
殺人という、命を奪う行為
強姦という、尊厳を奪う行為
を目にしない日はありません。

日本のどこにも安全なところはありません。
町には警察官のいない空っぽの交番が増え
24時間ネオン輝く店は不眠を誘惑し
スマートフォンは盗撮を誘惑し
ネット社会はなりすましで欲望爆発を誘惑します。

でも、実体は一つしかありません。命は一つしかありません。
それを奪えば、失えば、取り戻すことはできません。
時間を戻す事はできません。
やってしまった行為を元に戻す事などできません。

犯罪者にならない。
一生を台無しにしない。
家族を巻き添えにしない。

被害者を作らない。
悲しみを作らない。
憎しみを作らない。

一歩手前で想像する力が働けば、
防げた事件や事故はきっとあったと思います。

2015年10月3日土曜日

兄の葬儀が終わって数日が立ちました。

長い闘病生活からようやく解放される兄の事で感傷に浸るよりも、残される兄の子らに大した事などできないけれど、彼らを見守りたいという気持ちだけでこの数週間、いました。
そして一緒に兄の最期に立ち会い、葬儀を過ごしました。
通夜の晩は、兄の子らと姉と私の息子を合わせた六名で、兄の柩を守りました。
不謹慎かもしれませんが、兄の子らが葬儀に使うBGM曲を選曲するために数枚の昭和歌謡のCDを借りてきていましたので、少量のアルコールの力も借りて、無理矢理カラオケ大会を始めました。でも始めて見ると、それはとてもみんなの気持ちが弾けた、笑いの絶えない時間となりました。また、あまりの下手な歌声と、歌詞の一節を拾い上げて兄の人生を語り合う様子を見て、兄が怒鳴り起きはしないかという期待と不安がないまぜの時間ともなりました。

しかし、昨日今日は感傷に引き込まれる事になりました。
昨日は、葬儀にお呼びできなかった兄の親友に手紙を書きました。手紙の中で、兄の最後の様子を振り返ることになりました。
また今日は、私の連中に喪中となったため祭には寄れない旨の電話を入れました。連中が掛けてくれる言葉は分かっていました。篤い言葉です。実は、その言葉こそ聞くのが嫌でした。一気に悲しみが込み上げてくるのが分かっていたからです。


2015年9月30日水曜日

神戸空港島を散歩しました。

同じく先週、病院に詰めている合間に一度散歩しました。
医療センター前から神戸空港を目指して歩きました。
京コンピュータ前は、今では神戸どうぶつ王国の名の方が通ります。夕方でしたが、入場口には小さな子供を連れた家族連れが沢山いました。
そこを通り過ぎると、神戸空港と書いた道路標識がありました。右に折れ神戸空港に渡る橋を目指します。
誰も歩く人などいないのでは?、なんて思っていましたが、ジョギングする人や私の様にラフな格好で歩いている人の姿もありました。人工都市の中で過ごしていると、ポートアイランドにいるというのに、海を感じる事がまったく無かったのですが、ここまで来ると潮の香りが漂っていました。

そして海を渡り、空港島に入ります。
橋を空港島に下る最中、大阪方面から旅客機が近づいてくるのが見えました。そして着陸してターミナルビルの方向へ走って行きます。旅客機は東から着陸するのかと思い、ターミナルビルの方向には向かわずに、フェンスに沿って東に歩きました。
東の護岸が見えましたが、途中で鍵の掛かった扉に阻まれ海まで進むことはできませんでした。でも、東から進入する旅客機を一番近くで見ることができる場所でしたので、そこで次の旅客機を待ちました。
陽はどんどん陰ってきて、寒くなるのを堪えながら旅客機を待ちました。でもそれから一時間以上待ちましたが、離着陸する航空機は全て播磨灘からでした。播磨灘に向かって離陸する旅客機が滑走路の東側に来てそこで方向転換し、轟音とともに吐き出した灼けたオイルの匂いを嗅ぎながら離陸を見送りました。

そしてその場所を離れました。
ターミナルの屋上は、沢山の見学客で一杯でした。三階にあるたこ焼き屋さんでたこ焼きを買って、空港を後にしました。

六甲モバイルカレー、頂きました。

先週、先端医療センター病院で甥っ子が買ってきてくれた六甲モバイルカレーを頂きました。移動販売でカレー弁当を売ってるということで、昼頃いそいそと出かけて買ってきてくれました。二種類のカレーがありました。
一つはトマト色のキチンカレー、もう一つは白いグリーンカレー?でした。
みんなトマトキチンカレーを一皿ずつ頂きました。スパイスが頃よく効いて、また玄米ご飯のプチプチ感が食欲をそそりまして、ぺろりと平らげました。
そして白いグリーンカレー?が残りました。味見をしたいと一皿だけ買ってきていた様子です。でも甥っ子も姪っ子も一口嘗めて味見は終わりでした。「おっちゃんなら食べれるやろ?」という事で、二杯目に進もうとしましたが、白いグリーンカレー?とてもミルク味が強いのです。冷たい牛乳は大好きですが、温かい、とうか熱いミルクはあまり得意でありませんので、やむなく味見で終えました。
そのグリーンカレー、姉が持って帰りました。

グリーンカレー、色もグリーンだったら良かったかな、と思います。

ラーメンたろうのまかないセット、美味しゅうございました。

一昨日、昼もだいぶ過ぎてからふらりとラーメンらろうに入りました。
店先に掲げられた「まかないセット」に目を奪われたのです。
店に入ると長いカウンター席には、先客が3名いました。
カウンター奧の席に座ると、すぐに水の入ったコップと小さなバケツに一杯入ったキムチが目の前に置かれました。間髪入れずに「まかないセット」を注文すると、現在サービスタイムですので麺を大盛りにできますがどうされますか?と聞かれ、お願いしますと応えました。順番に自分が注文した料理が運ばれるのを待っていると、入り口側に座っていた先客が、サービスタイム中は餃子が一皿ついてくると書いてあるけど?と店の人に尋ねているのが聞こえます。すいません、直ぐに持って来ます。と言ってから、こちらの方にも、餃子一皿付きますがどうされますか?と聞かれたので、お願いしますと応えました。
そして、私の注文した料理が目の前に運ばれました。
チャーシューをまぶしたご飯と大盛りこってりラーメンが置かれます。続いて餃子も一皿置かれます。なんか、思いっきり得した気持ちになりました。料理美味しかったです。でも、ちょっぴり腹に堪えました。55が食らえる量ではありませんでした。

兄が永眠しました。

入院して一週間目に誤嚥の危険性が高まり、以降は一切の固形物の食べ物、そして飲み薬まで口にすることはありませんでした。それでも、それから一週間近くしっかりと意識を持って、見舞いに来てくださった友人や付き添う家族と向き合っていたように思います。
亡くなる三日前から急激に痩せました。肉厚だった手の平も逞しかった腕も、どこもかしこも、肉という肉が脂肪という脂肪が体から失せました。兄は最後、蝋燭の様に体を燃やして命の火を繋いでいたように思います。
そして四日前の午後、両目を見開いたまま体が動かなくなりました。それでも思い出しように途切れ途切れの息を続けていました。兄は一切の延命を望まなかったために、その息だけが、生きている証でありました。
丁度、病室で兄の子供たち四人が兄のある事で笑いが起きていた時だと聞きました。
長女が父(兄)の呼吸が途切れていることに気付いて、大声で父(兄)の名を呼び体をゆすり「息をして!」と呼び掛けたと言います。すると、一度息をしたと言います。
また途切れます。また呼び掛けます。するとまた、一度の息で応えます。
しかしまた途切れます。でもまた呼び掛けます。でも今度は首筋を一度ぴくりと動かしたきりで、再び息で応えてくれることはありませんでした。
兄は兄の子供たち四人とその家族、そして私たち兄弟姉妹四人の見守る前で、
平成27年9月27日日曜日、午後5時55分、永眠しました。

兄の強い希望で、葬儀は家族葬で行いました。
それでも私たちの父を頂点とした、私たち兄弟姉妹、その家族、総勢30名を超える人数が会葬しました。
家のお寺である牛谷は妙泉寺のご住職に神戸まで足を運んで頂き、お経を上げて頂きました。兄は生前無神論者を公言し、死ねば無に返るだけと話していましたが、お経によって十六条戒が与えられ、お釈迦様から続く八十二代目の弟子となり浄土への道を歩む事になりました。
告別式の最後に兄の息子が喪主としてお礼の挨拶を述べてくれました。
病室に足繁く通って頂いた、見舞いに来てくださった父(兄)のご友人の皆様に深い感謝を述べていました。また、父(兄)と一緒に暮らしてはいたものの面と向かって話ができなかったことを話し、でも叔父叔母から昔話などを聞いて少しは埋めることができたと話してくれました。

「皇月晴光信士」
中秋の名月がのぼる日に逝った兄を念じ、ご住職が与えてくださった兄の戒名です。

最後に、
この度は、兄の強い希望から兄の子と私たち兄弟姉妹だけで葬儀を執り行いました。
多大に心配して下さった親戚の皆様や兄の友人知人の皆様には、元気な姿だけを最後の姿として心に留めて欲しいという兄のわがままを聞き入れて頂きました。感謝とともに非礼を深くお詫び致します。
そして、1年と10ヶ月あまり兄を親身になって看てくださった先端医療センター病院の先生、看護師の皆様、本当に有り難うございました。

2015年9月27日日曜日

「ヒロシマ 想像力が語り継ぐ」を読んで・・・

先日の朝日新聞読者投稿欄(声Voice)で、「ヒロシマ 想像力が語り継ぐ」という80歳代女性の投稿を読みました。
女性は、以前にこの投稿欄で読んだ二十歳女性の投稿に感心し、エールとして、今投稿をされたのだと思います。
二十歳女性は、十代の頃から広島で被爆証言を集める活動を行い、二十歳になった現在も、広島で平和を願う活動を行っていると書いていました(と思われます)。
女性は、このヒロシマに向き合う活動をする二十歳の女性に、
どうかあの日のヒロシマで、被害に遭ったひとり一人の身体の痛みを想像できる人になって下さいと希望し、
そうすればきっと、貴女はヒロシマの被爆者、被爆死者の心に寄り添える人になるでしょうと期待し、
そんな貴女は、ヒロシマを語り継ぐに相応しい人ですと結ばれていました。

また女性は想像する力こそ大事と語り、自ら行動し、調べて学んで、そして得た知識を、あなたの想像する力で、血肉の通う経験に近づいて欲しいと願われていました。

二十歳女性が取り組んでいる活動は、昨今のインターネットによる情報収集やSNSを駆使して・・・なんてやり方は通用しません。自分の足で証言者を訪ね歩き、自分の耳と心で証言者の言葉や心情を汲み取る。そして想像力で血肉の通う経験に近づける。血肉の通う経験とは、被害者ひとり一人の痛み、苦しみ、悲しみです。
それは、現代の私たちが反射的に嫌悪感を覚える戦争や原爆というテクニカルな事柄からは、決して想像する事はできないものです。テクニカルな事柄は、インターネットによる情報収集やSNSを駆使すれば、簡単に手にすることができますが、それは論理的思考の産物でしかありません。またテクニカルな事柄は、権力者が教育や指導の名目で、想像力を挟む余地無く論理的に学習させられたり意図的に誘導されたりする危険を秘めます。

本物の血肉の通う経験というのは、血肉の通う交流からでしか得る事ができないのだと思います。