播磨の国ブログ検索

パンデミックと戦うことを考える

昭和の始めに、日本が中国と、そして米国と戦争に及んだ理由を一言で記すことなどできないけれど、しかし、日本が戦争に負けた理由は一言で記すことができます。 それは、当時の日本の指導者の、「国民の人権軽視」と「戦争をするための戦略軽視」です。 「国民の人権軽視」、これは形式的な国...

2015年8月12日水曜日

前半戦のベストゲームは・・・

夏の高校野球選手権大会は、今日で七日目を迎えます。TV観戦した試合はいずれも好ゲームでしたが、その中でも大会五日目、8月10日(月)に行われた龍谷(佐賀県)vs.秋田商(秋田県)の一戦は私の中でベストゲームとなりました。
両チームとも、エースは小柄な左腕投手です。
その、勝った秋田商の成田投手も、負けた龍谷の池田投手も、ともに素晴らしかった。
成田投手は、歌舞伎役者の如く目元が涼しい好男子。テンポの良い投球ホームは、速球と変化球の見分けが付かず、龍谷の打者は手元で伸びる速球と大きく曲がり落ちる変化球に為す術がありませんでした。
方や池田投手は、成田投手よりもまだ小柄なドングリ目の二年生エース。ですが制球力も度胸も全く引けを取りません。走者を出しても秋田商の打者との間合いを決して崩さず、ボールを打者の内外に投げ分けて追い込みアウトに仕留めます。
両名とも惚れ惚れする投球でした。

戦争の産物は、狂気しかない

戦後70年を迎えたこの夏、これまでまったく語られたことがなかった二つの史実に、NHKがドキュメンタリーで迫っていました。
そして二つの言葉、「慟哭」と「妄動」が心に深く刻まれました。

「ヒロシマ世界を変えたあの日」
欧米の学校では原爆投下を、「戦争終結のための必要悪だった」と教えられてきたと云います。ですが、今ドキュメンタリーで語られた史実は、全くの非人道的な目的と行為でありました。
三つの目的がありました。
①新型爆弾を実践使用することで、その破壊力と人体への継続的な影響観察を行う
②欧米列強に肩を並べるほどに力をつけたアジアの小国日本に罰を与える
③戦後、アメリカの最大の敵と見なすソ連へ抑止力を誇示する
特に①②は、時のアメリカ合衆国大統領ルーズベルトを筆頭とする人種差別論者による非人道的な目的遂行であり、ナチスドイツのユダヤ人殲滅行為に引けを取らないほど悪魔的な行為が続きます。
原爆投下の後、原爆の劫火と放射能を浴びた人々は、モルモットにされました。彼ら被爆者は適切な治療を受けることなく、死ぬまで経過を観察され、また成育の程度を観察され続けました。被爆者は人権を蹂躙され続けたのです。
そして被爆者は、ただ慟哭するしかできなかったのです。

「あの日、僕らは戦場で~少年兵の告白~」
本土防衛の最後の砦として、戦場と化した沖縄で、少年達が兵士としてゲリラ戦を戦わされたのです。今で云えば中学生から高校生の年齢となる少年達が、郷土を護るという名目の護郷隊に徴集され、陸軍のエリートから「10人殺したら死んでもいい」という苛烈な殺人訓練と洗脳教育を受けて、少年兵部隊としてアメリカ軍と交戦させられたのです。
後ろを向けば、陸軍のエリートに殺される。少年兵達は、陸軍エリートの命令に妄動するしか許されなかったのです。
そんな苛烈な場所から生き延びた、元少年兵が70年の時を経て告白されます。
敵が死のうが
味方が死のうが
友達が死のうが
自分が死のうが
悲しみ一つ感じない
少年達は、本来彼らを護るべき者達に、妄動の怪物に仕立て上げられたのです。
この様な少年兵の部隊は、日本各地でも編成されたと云います。
日本軍は、戦争末期において不足する兵力を補う為に義勇兵役法を公布して、少年も少女も戦争に参加できるようにしていたのです。
無垢な子供たちを妄動の怪物に仕立て上げようとしていたのです。

戦争の産物は、狂気しかない
そんな当たり前の事を、この夏あたらめて強く実感しました。

2015年8月6日木曜日

8月6日の記憶

朝、町にサイレンの音が鳴り響きました。その音で気付き、その場で黙祷を捧げました。
70年前の8月6日8時15分、今の私たち同様に日常の忙しさが始まりかけた大勢の人達が暮らす広島の町に、人類史上初めてとなる大量破壊兵器原子爆弾が投下されました。

今朝の天声人語に、次の様な一文がありました。
「歳月は流れ、記憶の継承が問われている。」
そして、朝日新聞が行った被爆者アンケートの結果、被爆体験が次世代に「全く」「あまり」伝わっていないとする回答が5割を超えたと記されていました。

あの日、二十歳であった人は、今日存命であれば九十歳を迎えられています。
あの日、原爆の炸裂をその目で、その体で、受け止められた人達は、
その後、重い原爆症に苦しめられ、また、いわれのない差別を受けられたとも云います。
そして、原爆による被爆体験者は、すでに高齢で十年後二十年後にはひとりとして存命でないかもしれません。
でも、被爆体験の記憶は、被爆体験者の日記や口述筆記の中に有り続けます。
また、原爆の悲劇が生み出した絵画や映画、小説の中に有り続けます。

現代の私たちがやるべき事は、先人達が残した記憶や記録に
自らおもむき、心を澄まして向き合い、じっくりと思案して、先人達の真意を汲み取る行動です。その行動こそが記憶の継承になるのだと思います。

原爆が招く惨劇や、被爆の恐怖を継承する事は、
戦争を憎み、反戦の心を持ち続ける事に繋がります。
私たちは、それを一時も休めてはいけないのだと思います。

2015年8月4日火曜日

高校野球、ここを注目して観戦を楽しみたいと思います。

組み合わせも決まり、いよいよ「第97回全国高校野球選手権大会」が始まりますね。
今年は、第1回全国中等学校優勝野球大会が開催されてから100年目ということもあって、テレビでは関連番組が数多く放送され、懐かしいシーンや、そのシーンにまつわる物語を楽しむことができました。そんな物語の中で、徳島池田高校を一躍甲子園の寵児にしたてた名将蔦文也監督の物語には特別の感動を覚えました。

池田高校の代名詞は「やまびこ打線」ですが、私にとっては「さわやかイレブン」として11名の部員で準決勝まで勝ち上がった1974年春が一番に印象的です。
蔦文也さんは、徳島商業のエースとして甲子園のマウンドを踏み、そしてスター選手として大学野球に進まれた。でも時代は第2次世界大戦真っ只中で、学徒出陣で出征し、遂には特攻隊員として出撃の日を迎えられた。しかし、当日出撃は行われず、そのまま終戦を迎えられた。
その後しばらく経った1951年、山間の学校池田高校から野球部の指導者として請われ、池田高校の子供らをいつか甲子園に連れて行く事だけに指導者人生を捧げられた。

物語中、池田高校は「やまびこ打線」が有名であるが、実は蔦監督は、進塁打、犠打を特に重んじられた、という行がありました。しかし、それは戦争体験から来ているという様な描き方をされていたのが気になりました。
蔦監督が、甲子園で負けた生徒達を前して
「お前達にずっと勝て!と言っていたことは嘘や」
甲子園で優勝できるチームは一つだけで、後のチームはみな負けや
負けることが多いのが人生、だからなんど負けても敗者復活戦で戦って欲しい
「死んだらあかんのや」
という言葉を贈られていました。

野球は野球、一度始めたら勝つことだけを考えて一生懸命野球に励め!
しかしたとえ野球で負けたとしても、一生懸命の中で培ったものを信じて、自分を信じて、自分を大切にして、諦めることなく次の勝負に挑めば良い、とエールを送られていました。

そんな蔦監督が、戦争体験を指導に持ち出すはずがないと思います。
そして、野球用語である「犠打」や「犠飛」が、用語として適切でないように思うようになりました。
犠打は、走者を得点圏に進める進塁打です。
そして犠飛は、走者を本塁に返す得点打です。
その打撃は、犠から連想される犠牲的な行動ではなく、いわば得点を奪うための繋ぎの打撃であり、本物の技術が必要な打撃です。大技小技が組み合わさって本当の強さが生まれる、だから蔦監督もその打撃を重要視されたのだと思います。すべては試合に勝つため、そして全員で喜ぶためです。

今大会も、大技選手に注目がいきがちですが、私は進塁打や得点打にこだわった選手に注目し応援したと思います。

2015年8月2日日曜日

権現ダム湖辺をぶらぶらしました。

金曜日、何気に権現ダム湖の側を車で走っていて、引き込まれる様にダム湖の北岸に整備された総合公園キャンプ場の駐車場に車を駐めました。
管理棟に出向いて、ダム湖を一周できるか尋ねてみると、約10㎞の周遊道があると教えてもらいました。それで歩く事にしました。

まず、キャンプ場から丸太を敷いて作られた階段を上がり展望台に登ります。そこから権現ダム湖を一望しました。権現ダム湖は、近くの平荘湖とは異なり、入江が複雑に入り組んでいました。


そしていざ時計と反対回りで歩き始めると、鬱蒼とした木々が覆い被さる曲がりくねった道は、風景を楽しむどころではなく、湖畔の淀んだ水面を覆いつくす浮き草の少し腐った匂いと、真夏の太陽の熱い日差しに晒されて、体中ヌメッとした汗の膜に覆われてしまいました。
でも周遊道には、何カ所か休憩所があって、途中途中日陰で腰を下ろし休むことができました。そしてその休憩所からの湖の眺めは結構良いものでした。


権現第一ダムに到着すると、ダムの南斜面一面にソーラーパネルが設置されていました。この斜面、以前は積み上げられた石が作り出す紋様が美しかったのに、濃紺一色に覆われてしまっていました。
そして東岸から高砂市向島から加古川市志方東公園に続く自転車歩行者専用道路を歩きます。ダム湖の東岸の道路は、よく整備されていて風景を楽しみながら歩く事ができました。
でも一周を歩いた約三時間あまり、私の他に歩いている人とすれ違うことはなかったです。
ゴール付近、キャンプ場の入り口付近で、不思議な洞穴を見つけました。立ち入り禁止という札が掛かっていました。意味深な洞穴でした。

道中、アゲハとカワワを見かけました。

心象写真”Blue Moon”

金曜日の夜、Facebookで”Blue Moon”という話題をにわかに多く目にしました。
最初に目に飛び込んだ写真には、青い月が映っていました。ドラキュラなどが登場する古典的なホラー映画でよく目にする青い月です。
「今晩は、何か起こる夜なのか・・・」とぞくぞくしながらベランダに出て夜空を見上げますと、満月が白く輝いていました。何枚かぱちぱちと写真を撮ってから部屋に戻り、でもいつもと変わらぬ満月なのに、なんで”Blue Moon”というのか?という疑問が離れません。

その答は、直ぐに見つかりました。

BLUEMOONを見よう
http://www.moonsystem.to/special/bluemoon/

元々は、青く見える月をいうのですが、いつからか”希にしか見られない月”もブルームーンと呼ばれる様になった様です。そして土曜日の満月は、ひと月に二度見ることができる満月の二度目の満月でした。月の満ち欠けの周期は平均29.5日であるために、ひと月で満月が二度見られるのは”希なこと”だそうです。

ブルームーンと思って撮影した満月の写真ですが、折角だから心象写真に仕上げてみました。